序章
アリス・ローダデイルは、苛立たしげに足を踏みならしていた。
チャリング・クロス駅の裏手にある、名前も知らない狭い小路だった。
掃除夫の手入れが行き届いていないのか、決して衛生的とは言いがたく、アリスのような上等な身なりの淑女にはふさわしくない。
約束の場所に指定されたのがここだったので、やむなく待っている。
とはいえ、この暗さと不潔さになじみがないわけでもなかった。
「世間知らずの淑女」なのは、見た目と家柄だけ――アリスは思って、自嘲気味に微笑んだ。
アリスは輝くばかりの金髪を腰まで伸ばして、結いもせずに流している。
まとうドレスは黒を基調として金糸銀糸の刺繍で豪華に飾り立てた高価なものだ。真っ白な肌との対比は目に痛いほどだった。
バッグからシガレットでも取り出そうかと思った矢先、鮮やかな緑色の瞳が来訪者を捉えた。
アリスは待たされた苛立ちなどすっかり忘れて、にっこりと魅力的に微笑んだ。
「どうしてこんなところで待ち合わせを? 家でいつだって会えるのに……」
言葉は途切れた。
明らかに、相手の様子がおかしかったからだ。
アリスの瞳は、血の気が失せて強張った顔から、相手の左手に集中した。
黒い手袋をはめた手には、大ぶりの鋭いナイフが握られていた。
「な、なによ……?」
アリスがとっさに思い出したのは、一年前に世間を騒がせた「切り裂きジャック」だった。
あの未解決事件の犯人を真似ているのだろうか? しかし、こんな酷い悪ふざけをするような相手ではないはずだ。
「笑えないわ、そんな冗談」
だが相手は、真顔でゆっくりと近づいてくる。
よく知った人間なのに、まるで初めて目にした不気味な動物のようだった。
悪ふざけではないとしたら――
アリスはじっと相手の目を見て微笑みを浮かべたまま、不意に背を向けて走り出した。
相手も無論、追いかけてきた。
「やめて! 来ないで!」
アリスは半狂乱で叫びながら、狭い小路を疾走する。
しかしドレスの裾と高いヒールの靴が邪魔をして、思うようには走れなかった。
涙がこぼれる。
なにかにつまづき、なすすべなく転んでしまった。
手をすりむき、足首を捻ってしまったが、心臓が潰れそうなほどの恐怖と緊張のためか、痛みはまったく感じない。
ただ、逃げたいという強い思いばかりが膨らんでいく。
しかし皮肉なことに、その泥のような思いが、アリスの身体の自由を奪うかのようだった。
美しい金の髪を鷲掴みにされ、無理やりに顎を上げられた。
「う、ううっ……!」
緑の双眸から止めどなく涙があふれる。
霧のせいで濡れていた地面の上でもがくと、美しいドレスが泥と汚物にまみれてしまった。
今はそんなことにはかまっていられない。無様な姿をさらしてでもここから逃げて、とにかく生き延びたかった。ドレスの裾に泥がはねたことをこの世の終わりのように感じた、あの平穏な人生に戻りたい。
だが、背後からの襲撃者は無慈悲であった。
「やめて……!」
悲痛な叫びも虚しく――アリスの喉は銀の狂気によって一息に切り裂かれた。
耐えがたい激痛も、一瞬のことだった。
すぐに全身が鉛のように重くなり、冷たくなってきて、眠くてたまらなくなる。
うつ伏せに倒れたアリスは、地表にまばゆい金の糸を散らし、紅蓮の絨毯を広げていく。
その光景に類い希な美しさを見出したかのように、襲撃者は細く小さなため息を漏らした。