黒ずんだ血とやーさん
父さんに友達を紹介すると宣言して四日目。
一時限目の授業終え、今は十分の休み時間である。
「たっくん、一緒になんか委員会やらない?」
「あー、美咲がやりたいなら付き合うよ」
「ありがと! 大好き!」
「ばかやろ、ここ学校だぞ」
馬鹿野郎は誰なのか。
目の前の席で唾棄すべきやりとりが繰り広げられていた。剣道で鍛えた精神力がなかったら、ボイスパーカッションさながらの舌打ちをかましていたかもしれない。仲が良いのは素晴らしいことだが、時と場所を考えてほしいものである。端的に言えば、僕の視界に入るところでイチャつくなと。
嫉妬の炎が万が一にでも具現化したら、逃げる隙を一分も与えない圧倒的火力で僕もろとも灰燼に帰すことは間違いない。
僕は目の前のカップルを暗い目で見据えながら、もやもやとした気分になっていた。
思わず独り言が漏れる。
「……苦行だ」
「お前がそれを言うのか」
不意に、左隣の席から押し殺した声が聞こえた。独り言に反応があったことにひどく動揺したが、それは表に出さない。
おもむろにそちらを見ると、僕と同じようにカップルを睨みつけている男子がいた。彼は隣の席ということもあるが、その見た目が強烈なので名前もよく覚えている。源田一鉄という名前だったはずだ。
はっきり言って、彼は見た目が怖い。無いに等しい眉に、目で殺すと言わんばかりの眼力、刈り込んだ頭、そして何より身体がでかい。泣く子も黙るどころか失禁するのではないかというほどの威圧感が彼にはある。
そんな彼が僕の独り言に反応したものだから、僕は恐怖で身が竦んだ。しかし、彼の言葉の意味はわかりかねる。僕のような根暗で哀れな男こそが、嫉妬に塗れた台詞を言って然るべきではないか。
僕が押し黙っているのを見て、彼はぶっきらぼうに言う。
「お前にも女がいるだろう。お前の右隣の奴とか、そうじゃなきゃツインテの女とか」
ようやく合点がいった。しかしながらそれは勘違いである。
僕はカップルに視線を戻し、自嘲じみた声色で返す。
「僕のような根暗が、彼女らとそんな関係になれるとお思いか」
「思わんが」
「だろう。実際、そんな関係じゃない」
「けっ、女友達でも充分じゃねぇか」
「……だが、僕は」
キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴り、僕の反論は行き場を失った。
あまり穏やかな会話ではなかったが、僕は彼に親近感を覚えていた。外見は本当に怖いのだが、ちょうど隣の席でもあるし、機会を窺ってもう少し話してみたいと思った。
二時限目の授業を終え、十分の休み時間になった。
こんな短い時間すらも無駄にしたくないのか、僕の目の前の席に座るカップルは周りに見せつけるようにいちゃついていた。よっぽど刺されたいらしい。
僕は彼らを暗く見据えながら溜め息をついた。
「こいつら死にたいのか」
ぼそっと左隣の源田くんが言った。その貫禄すら感じられる物言いに僕は震え上がった。本当にこのカップルは死んでしまうかもしれない。明日には葬式かもしれない。
でも、こんなカタギと思えない顔をしていてもカップルを見て不快に思うのだから、彼もその辺にいる高校生と変わりないのだ。やはり気が合うと思う。
そんなことを考えている間にも、カップルは幸せに満ち溢れた会話を展開していた。
「たっくん、今日はお弁当作ってきたから楽しみにしててね?」
「お、美咲は料理だけはうまいからな。楽しみだ」
「もー、料理だけじゃないもん!」
「はは、わりいわりい」
たっくんが謝りながら美咲なる人物の頭を撫でた。
僕はその有り様を見て思わずつぶやいてしまった。
「頭を撫でるなんてのは、漫画の中の話では」
「頭ん中がお花畑なんだろ。けっ、こっちは胸糞わりいわ」
彼は押し殺した声で悪態をつく。
それにしても暗い目をした男とカタギじゃない顔をした男が、カップルを睨みつけながら会話をしているこの構図は不気味である。その内容もまるで建設的ではなく、虚しさが募るばかりだ。
そんなところに、右隣の席にいる蛍がひかえめに声を掛けてきた。
「君、もしかして隣の彼と話しているのかい?」
「……まあ」
「そっか。ごめんね、邪魔して」
「いや」
蛍と会話を終えた頃には、彼はすでに話す気はないというように机に突っ伏していた。
三時限目の授業を終え、十分の休み時間となった。
そろそろ腹も減る頃合いである。腹が減ると集中力もなくなり、ちょっとしたことでイライラしたりする。だから僕は目の前の席を見据えて大いにイライラしていた。
「ねぇ、たっくん、これ食べる?」
「おぉ、美咲いいもん持ってんな。くれ」
「はい、あーん」
「あーん」
左隣から獣の威嚇行為に似た唸り声が聞こえてきたので、僕は近くで火を焚きたくなった。
猛獣が吐き捨てるように言う。
「どんな頭してたらこんな糞みてぇな事ができんだか」
「頭が、糞なのでは」
「まったくそのとおりだな。頭が肥溜めなんだろうな」
僕も空腹で苛ついていたので、思わず汚い言葉で同調してしまった。しかし、そのおかげで彼との距離が少し縮まったような気がする。
それにしても腹が減った。僕も何か腹にいれたい。
何かないかとカバンを漁るも、僕が持っているものといえば大量のアメだけである。アメは空腹を満たすことはできないが、口に入れておけば空腹をごまかすことができるし、そこそこ長持ちする。僕はその万能さと持ちの良さを気に入って大量にストックしているのだ。
休み時間はまだ残っているし、ひとつくらいなら食べられるだろう。少しばかり物足りないが、今はこれで我慢するほかない。
どのアメを食べようか選んでいるところで名案が浮かんだ。これを隣の彼に渡して好感度をアップするのはどうだろう。甘いモノを食べれば多少はストレスも軽減されるだろうし、もしかしたらカタギじゃない顔が菩薩の顔になるかもしれない。
「その、良かったら」
僕は彼の体格を考えてサイズのでかいアメを差し出した。源田くんは最初、怪訝な目をこちらに向けたが、やがて「サンキュ」と短く言ってアメを受け取ってくれた。
僕は視線を前に戻し、苺味のアメの包装を開く。口に含み、その甘さを存分に堪能する。んー、うまい。
僕がアメに舌鼓を打っていると、左隣から包装を破る音が聞こえた。どうやら食べてくれるようだ。
それからしばらくは無言だった。目の前のカップルの動きが大人しくなったというのもあるが、単純にアメを口に含んだ状態では喋りたくない気持ちもある。
静かに時間が流れ、休み時間終了を告げるチャイムが鳴った。ちょうど僕のアメも溶けてなくなった。
「……おい、これでかすぎんぞ。全然舐め終わらん」
「……」
僕は聞こえないふりをした。
四時限目の授業を終え、昼休みになった。
ほどなく相坂さんが教室にやってきて、日常になりつつある三人での昼食の時間となった。
二年生に進級してから、蛍と相坂さんのおかげで一人飯を回避し続けている。それは本当に嬉しいことで、父さんが家に居たら鼻高々に自慢しているのは間違いないのだが、しかしこの光景には違和感を覚えざるを得ない。明らかにおかしいのだ、こんな美少女二人と昼食をとっているのは。
もし僕が眉目秀麗で博学多才な男なら彼女たちと一緒にいてもおかしくないだろうが、僕は何の特徴もない、強いていうなら目の暗い根暗な男でしかないのだ。
その証拠に、クラスメイトにも不審な目で見られている。もしかしたら彼女たちに付きまとうストーカーくらいには思われているかもしれない。いや、それは無いと信じたい。
そんな僕の憂いを露とも知らない蛍は、いつものにこやかな顔で尋ねてくる。
「薫くん、彼とは仲良くなったのかい?」
「ああ。少し、距離を縮められたと思う」
カップルを目の敵にするというネガティブ極まりない意気投合の仕方だが、男なんてそんなものだろう。それに、僕はそういうのに憧れを抱いていた。
「彼って誰よ?」
相坂さんが野菜ジュースのパックにストローをさしながら言った。
それを受けて、蛍は教室内に居る彼に目をやった。相坂さんはその視線を追う。
「……あなた、意外と怖いもの知らずなのね」
彼女は感心したような呆れたような声色で言った。
擁護するわけではないが、彼はわりかし普通の高校生である……多分。
「あんなのに近づいたらあなた、財布にされちゃうわよ?」
相坂さんが本気とも冗談ともつかない口調で言うので、僕の膝が笑い出した。
財布……なんて恐ろしい響きだろう。何が怖いってそのシーンを容易に想像できるところである。
源田くん、今週の友達料です。え? 足りない? でも毎週五千円って……いえ、すみません。明日ちゃんと持ってきます。だから殴らないで……。
悲しすぎる。さすがの僕もお金を出すことはないと断言できるが、仮にそんなシーンがあったら僕はあまりにもはまり役すぎる。これほど友達料を払っている姿が似合う人間もいない。
自分の役柄のしょっぱさに涙をのんでいると、蛍が微笑んで言う。
「薫くんなら大丈夫だよ。言うときは言うタイプだもんね」
わかってらっしゃる。僕はノーと言える日本人であることを自負している。可愛い女の子の上目遣いおねだりは例外だが。
僕が蛍の言葉に頷いているのを、相坂さんは冷めた目で見ていた。
「確かにそうね。昨日は散々悪口言ってくれたものね」
「それは、申し訳ない」
彼女は根に持つタイプなのかもしれない。今後は気をつけよう。
さて、そろそろ弁当を食べよう。カバンのなかに……あれ? ない。
思い出した。家を出る際に母さんから「今日のお昼は何か買って食べてね」と言われていたのだった。
「ちょっと、購買に」
そう言って席を立つと、蛍が頷く。
「うん、いってらっしゃい」
「戻ってこなくていいわよ」
相坂さんの言葉を冗談と信じ、財布を持って教室を出た。
普段、弁当がない日は通学路にあるコンビニで何か買うのだが、今日はすっかり忘れていた。
購買部に行くと、案の定人でごった返していた。そんなに評判の良い食べ物でもあるのか聞きたいほどである。
なんとか列らしきものを見つけて最後尾に並んだ。それだけでもう疲れてしまった。
こういう人が多すぎる場所は苦手である。得意という人もいるのだろうか。
ようやく順番が回ってくると、僕はちゃっちゃとパンを選び、さっさとお金を渡し、すたこらさっさとその場を後にした。
ああいうシチュエーションで物を悠長に選べる人を僕は心底尊敬している。僕は後ろの人が気になってしょうがなく、その結果自分の求めていないものを選んでしまうこともしばしばだ。今回も、昼時なのに甘い菓子パンをチョイスしてしまうチョンボをやらかしてしまった。本当なら焼きそばパンとかコロッケパンみたいなものが食べたかった。あったかどうかすら確認していないが。
がっくりと肩を落としながら教室に戻ると、さらにがっくりする事態が起こっていた。
僕の席が占領されているのである。同じクラスの男子が、僕の席に座って蛍に何やら話しかけていた。その男子の傍にはもう一人男子が立っており、こちらも何やら言っている。
相坂さんはその場にはいるが、会話には参加していないようだった。スマホを見ている仏頂面に磨きがかかっている。
さて、僕はどうしよう。
とはいっても、すでに僕の気持ちとしては、あそこに戻る選択肢はあまりない。というか、その度胸がない。すでに形成されている人の輪に割って入るのはそれなりのメンタルが必要だ。
そうして教室の隅で立ち尽くしていると、一人飯をしている源田くんの姿が目に入った。彼は熊のようにもそもそとおにぎりを頬張っており、明らかにフリーといった状態だ。今こそ彼と親交を深めるときじゃないか。こそこそと彼の元へ忍び寄る。
そして、ごく自然に彼の近くにあった無人の席に腰を下ろした。
同時に、源田くんが忍び笑いをしながら言う。
「くくっ、席取られてんじゃねぇか」
「まあ、いずれこうなるかなと、思っていたけど」
とりあえず、会話が始まってホッとした。
彼は可笑しそうに続ける。
「お前が教室出てったときな、連中、これはチャンスだ、とか言って席取ってたぜ」
「なるほど」
積極的だなぁ。僕もそういう姿勢は見習いたいところである。
一年間何もせずに過ごしてしまった僕にはわかるが、彼らのようにすぐに行動に移せる人は何かと得をするのだ。やはり何もしないよりは何かした方が、何かある。
よくよく見てみれば、僕の席に座っているのはチャラさの最先端を走るイケメンじゃないか。多分、彼は地球上の麗しき女性は全て落とさずにはいられない性分なのだろう。きっと、今も軽妙洒脱な話術を駆使して、蛍ひいては相坂さんのハートを鷲掴みしようとしているに違いない。あの相坂さんの本質に近づけた際には、是非とも攻略法を伝授してほしい。
僕はチョコレートで塗り固められたパンを食べながら、蛍たちをぼんやり眺めた。
「……戻らんのか?」
源田くんがそう言うので、僕は少し踏み込んでみることにした。
「僕がここにいると、迷惑だろうか」
「んなこたねぇが」
そっけない物言いだったが、僕はかなり嬉しかった。まるで恋する乙女のようである。無論ホモではない。
「しかしあの連中、夏目を狙ってるのが丸わかりだな」
「ほう」
「どっかに遊びに行こうっつってるわ。よーやるわ、夏目っつったら変人で有名なんだがな。あのツインテも大概だが」
「変人……」
「知らんのか? まあ変人は語弊があるかもしれんが、あいつは交友関係が広いように見えて滅茶苦茶狭いんだな。俺は去年あいつと同じクラスだったが、仲良くしてんのはあのツインテくらいしか知らん」
以前、蛍はそれほど友達がいないと自分で言っていたが、それは本当のことだったらしい。イマイチ信じられないが。
「夏目はツラがいいから結構有名なんだが……知らんかったのか」
「……自慢じゃないが、僕は、一年の頃はまったく友達がいなかった」
友達がいないとそれだけ情報も少ないのだ。それに加え、一年の頃は周囲に無関心だったというのもある。
「ぼっちかよ。ってことは、俺のことも知らねぇよな」
「と、言うと」
「いやまあ、俺は夏目と比べたらカスみたいなもんだが、糞みてぇな噂が流れててな。どうも俺は喧嘩の売り買いに忙しい奴だと思われてるらしい。他校のやつを病院送りにしたとか、先輩をシメてるとかな。この高校にそんな奴が来るかっつーんだよ」
その噂が彼の見た目に起因していることは想像に難くない。実際、彼がそんなことをしていても何ら不思議には思わないだろうし、むしろやって然るべきだとすら思う。こんなナリした人が、例えば「趣味は家庭菜園です」などと抜かしたらかえってがっかりするかもしれない。
無論それは冗談で、正直な気持ちとしては彼が見た目どおりの不良でもヤのつくアレでもないことに心底安堵した。だから僕のような根暗とも話してくれるのかなと、今はそう思う。きっと根は善良な青年に違いない。
「君は、その不良キャラを、守るべきでは」
冗談半分、そんなことを言ってみた。
「ふざけんな馬鹿野郎」
彼の太い腕が伸びてきて頭を小突かれた。
断じて言うが、僕は乙女でもなければホモでもない健全男子である。それなのにもかかわらず、僕は彼の今の行為が凄く嬉しかった。もうすげぇ嬉しかった。
「……おう、その黒ずんだ血みてぇな目でこっち見つめんのやめろ」
「……」
日夜相手の血で拳を黒く染めているような人に目が暗いと言われた。ひどくへこんだ。
五時限目の予鈴がなったところで、連中は僕の席から引き上げていった。相坂さんはいつの間にか姿を消していた。
自分の席に戻ると、蛍に声をかけられた。
「薫くん、私たちを放置するのはいただけないね?」
いつも天使の微笑みを浮かべている蛍が珍しく不機嫌な表情をしていたので、僕はたじろいだ。
「は、いや、……ごめん」
僕が謝ると、彼女はふっと表情を緩めて柔らかな口調で言う。
「くっくっ、いいよ。あの怖そうな彼と仲良くなれたみたいだね」
「ああ。結構、打ち解けたような気がする」
今日の昼休みはほとんど彼と話していた。このクラスのこと、蛍と相坂さんのこと、蛍に話しかけていた連中のこと、前の席のカップルが目障りすぎること、僕のあげたアメがでかすぎて食べるのに二十分くらいかかったこと、実に様々な話をした。
「そっか。……君、彼に頭を小突かれたとき、ちょっと嬉しそうな顔してたでしょ?」
見られていた。
「……そんなことは、ない」
「本当かな~? こんなふうにさ、こつんってやられてほんのちょっと目元が緩んだよね」
彼女は何気なく僕に近寄ると、その可憐な拳で僕の肩を小突いた。これもすげー嬉しいから困る。結局嬉しいから困る。
ふと、どこからか視線を感じたと思ったら、源田くんが殺意を込めたような目つきで僕のことを睨みつけていた。
ついさっきまでカップルをボロクソに言っていたのになんだその体たらくはこの糞裏切り者、というような雰囲気を肌で感じたので、僕はありったけのアメを彼に上納することで難を逃れようとするのだった。