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青春リライト  作者: ぽん
一章
3/9

コールタールと鉄壁少女

 翌日、小夜と揃って家を出た。

 今日も天気がよく、朝陽が柔らかく通学路を照らしていた。路肩で健気に咲いているたんぽぽに心を和ませ、小鳥のさえずりを聞いて平和を感じる。やはり朝は歩くに限る。


「兄さんは、自転車は使わないのですか?」


 隣を歩く小夜が、控えめに訊いてきた。


「歩く方が、好きだから」


 これは正確ではない。自転車は、風の強い日に乗るとまるで下半身のトレーニングを強要されているような気分になるので、それが嫌なのだ。風に逆らって突き進む姿、というのは字面的にも絵的にも格好良いのだが、僕の場合は風に流されて後退する可能性がある。ついでに言えば、傘を差せないのが不便である。


「でも兄さん、徒歩だと駅まで三十分くらいかかりますよね?」


「……ああ。確かにそれは、ネックかも」


 高校への片道はおよそ一時間である。家から駅まで徒歩三十分、電車移動で十五分、そこから高校まで十分ほど歩く。

 確かに、最初の三十分のウェイトが大きい。僕は男だから朝の準備もそれほど時間を掛けずに済ませることができるが、小夜のような日本の乙女代表とも言える女の子にとって、朝の時間を大きく取れるかどうかは重要なポイントだろう。僕はまったく気が回っていなかった。


「小夜は、自転車で行っても」


「いえ、私も兄さんと歩いていきます」


 食い気味に言い返された。

 小夜がそういうのであれば、僕があれこれ言うことでもないが……。


「家に自転車が一台しかないからといって、遠慮する必要は」


「いいえ、そういうわけではないのです。私も歩きたいなと思ったのです」


「……そうか」


 それならいいのだが。小夜はただでさえ気を遣ってしまう子だから、できればもっと遠慮無く物を言って欲しいと思っている。

 小夜の敬語も、良く言えば礼儀正しいが、悪く言えば他人行儀である。初めて会ったときから、僕と父さんに対して小夜は敬語を使っていた。それがあまりにも様になっていて違和感がなかったから僕らは特に何も言わなかったのだが、冷静に考えてみれば家族に敬語というのはおかしな話である。

 かといって、小夜に敬語をやめろと言うつもりはない。そういうのは言って変えさせるのではなく、自然に変わっていくものだと思うのだ。

 なんとなく隣を歩く小夜を眺める。

 こんなに背筋をぴんと伸ばして歩ける女子高生が果たしてこの世界にどれだけ存在するのか、周りに聞いてみたくなるほど彼女の歩く姿は凛々しかった。その芯を感じさせる澄み切った瞳には何を映しているのだろう。きっと、綺麗で美しい世界がそこに広がっているに違いない。


「兄さん、あそこにカラスがたかっていますよ。朝から嫌なものを見ちゃいましたね」


「……ああ」


 小夜は何やら道路の端に動物の死骸を発見していたらしい。本当に朝から嫌なものを見た。



 ぽつりとぽつりと、まるで終盤に差し掛かったしりとりをしているかのようなリズムで会話をしていると、いつもより早く駅に着いた。気まずさからか、無意識に歩くスピードを早めていたのかもしれない。

 駅舎に入ったところで、小夜に声をかける。


「定期とかは」


「はい。入学式の日に買いました」


 それは重畳、切符を買う時間が省ける。

 駅の売店で何か買おうかなとぼんやり考えていると、視界の端に見覚えのある顔が映った。

 それに目をやれば、ミルクティー色でふんわりショートの夏目さんが待合室で座っていた。

 彼女も僕の存在に気付いたようで、笑顔で手を振ってきた。その可愛らしい姿にしばし見惚れる。


「……兄さん?」


 小夜に呼びかけられてはっと我に返る。


「あの手を振っていた方が、昨日お話ししてくださった夏目さんですか?」


 僕の視線を追った小夜が、確認するように訊いてきた。


「ああ。ちょっと、挨拶に」


「わたしも行きます」


「え」


 いつも控えめな小夜が珍しく積極的だ。どうしたのだろう。

 でもまあ、夏目さんに紹介するのも悪くない。先輩との繋がりができるのは小夜にとっても良いことだ。


「じゃあ、行こうか」


「はい」


 僕は小夜を引き連れて夏目さんのもとへ向かった。

 夏目さんもすでに席を立っており、僕らの方に歩いてきていた。

 小夜は僕の影に隠れるように、とは言わないが、気持ち斜め後ろの位置にいる。初対面で先輩ということもあり緊張しているのだろう。

 僕はこれで会うのは三回目で学年は同じだが、普通に緊張している。残念ながら平常運転だ。

 お互いの距離が縮まったところで足を止め、挨拶を交わす


「おはよ、薫くん。そちらは?」


「おはよう。……えっと、こっちは、妹の小夜」


 小夜の背をぽんと叩いてやる。断じてセクハラではない。


「はじめまして、佐久良小夜です」


「小夜ちゃんね。私、薫くんの友達で夏目蛍。よろしくね」


 いざ自己紹介の段になれば、小夜ははっきりとした口調で話していた。彼女は芯の通った女の子だ。

 夏目さんは小夜に興味を持ったらしく、いろいろと小夜に質問していた。誕生日はいつ? だとか、何型? だとか。小夜は真面目に答えていた。

 それに満足すると、夏目さんはうんうん頷いた後、僕を見た。


「くっくっ、小夜ちゃんはしっかりしているね。……ね? 薫くん」 


「……自慢の、妹です」


 小夜ちゃん「は」という夏目さんのアクセントに内心グサッとダメージを受けたが、さらりとかわしてみせる。

 小夜は、そんな僕らを見て淡く微笑んでいた。彼女は夏目さんをどう思ったのだろう。僕の目からだと、二人は相性がいいと思う。明るい夏目さんと、静かな小夜。うん、なんだかお似合いだ。


「それにしても本当に綺麗な子だね。肌も白くて……」


「あっ、夏目さん、くすぐったいですっ」


 と思っていたら、夏目さんが小夜の身体をいじくりまわしていた。髪に触れたかと思えば腕を撫で、そして胸をまさぐり腰に手を回す。小夜は声を必死に押し殺すもかすかに漏れ出てしまい、それがなんだか官能的だった。


「に、兄さんっ」


 助けを求めるように僕を見つめてくる小夜。一方で、僕はこの素晴らしい光景を目に焼き付けていた。


「くふふ、君のお兄さんは硬派な人間だと思っていたけど、意外にもそうじゃないみたいだね」


「そんなことないですっ。兄さんはいつもわたしを助けてくれます!」


 そんなことない、と僕も言いたかった。僕が小夜を助けたシーンなんて果たしてあっただろうか。この半年を振り返ってみてもまるで記憶がない。

 しかし、小夜にそう言われてしまったらこれはもう助けるほかない。周囲の視線が若干気になり始めたというのもあるが。


「夏目さん。それくらいで、勘弁を」


 僕がそう言うと、夏目さんは素直に小夜を解放した。

 小夜は夏目さんから素早く離れ、僕の後ろに身を隠す。かわいい。


「くっくっ、嫌われちゃったかな?」


 夏目さんは楽しげな様子で、僕の背後にいる小夜を覗き込んでいた。小夜の表情は窺えないが、たぶん警戒心を露にしているだろう。

 それにしても眼福だった。あんな反応をする小夜は初めて見たので新鮮だった。

 こうして人間関係を繋げていくことで、新しい発見があるのだとしみじみ思っていると、そろそろ電車が到着する時間になった。

 未だに小夜をいじっている夏目さんに声をかけ、僕らはホームへと急いだ。



 通勤通学の時間帯ということもあり、車内はそれなりに混雑していた。これが都会だったら間違いなく満員電車なのだろうが、この地域はまだ幾分余裕がある。

 奇跡的に二人分の席が空いていたので、小夜と夏目さんに座ってもらった。僕は彼女たちの傍に立っている。


「それでね、薫くんはそこで大きな声で芝居を打ってくれて」


「そんな兄さん、想像できないです……」


「くっくっ、私はそれが彼との出会いだったからね。普段こんなに物静かだとは思わなかったよ」


「……」


 小夜には僕がどうやって夏目さんを助けたかについては濁していたのだが、夏目さんが今すべて教えてしまっていた。なんだか恥ずかしい。

 小夜は信じられないという面持ちで僕を見る。ま、僕もやるときはやる男よ。


「わたしは、兄さんが一騎当千の強さで夏目さんを守ったのだと思っていました」


 驚きのベクトルがまるで違っていた。小夜は僕のことをなんだと思っているのか。そんなふうに見られていたことに僕が一番驚いた。


「くふふっ、そんな薫くんこそ想像できないけどね」


「いえ、兄さんは剣道を嗜んでいたと聞いています。そんな兄さんが口八丁だけでやり過ごすなんて……」


「ほう? そうなのかい? 薫くん」


「……中学時代は、剣道部だったけど。でも、護身とかには、そんなに」


「そうなのですか」


 小夜は表情こそ平然としたものだが、心なしか落胆したような声色だった。いやいや、君の兄はそんなもんですよ。


「小夜は、高校で何か部活とか」


 そろそろ僕の話は打ち切ってもいいだろう。それに部活については元から訊いておきたいことだった。


「まだ決めてないです。……夏目さんは、何か部に所属しているのですか?」


「いや、私は帰宅部だね」


 夏目さんが帰宅部ということは初耳だった。ちなみに僕も帰宅部である。

 帰宅部で一年過ごした僕から、小夜にアドバイスしたいことがある。


「部活に入ったほうが、友達はできる」


「くっくっ、やけに実感がこもってるね。貫禄すらあるね」


 夏目さんのからかいを華麗にスルーして、僕は真面目な顔をして小夜を見つめた。帰宅部でも友達ができないわけではないけれど、部活というコミュニティーに所属すれば確実に友達ができるはずだ。

 小夜は中学時代、吹奏楽部だったそうだ。その経験を活かし、高校でも吹奏楽部に所属するのもいいだろう。ほかの部活に興味があるならそっちを選ぶのもいい。


「そうですか。いろいろ見学してから考えようと思います」


 前向きな答え、なんだろうか。ま、何をするのも小夜の自由だ。


「帰宅部も楽しいよ。帰り道に友達とお茶したり、買い物したり。自分の好きなことができるからね」


 夏目さんがさらっとそんなことを言った。

 それは僕の憧れている高校生活の極みといっていいものであった。放課後を楽しく過ごせるかどうかは友達の有無といっても過言ではない。帰宅部の活動とはすなわち、友達と遊ぶということに他ならないのだ。

 友達がいない僕はその時間いったい何をしていたかというと、勉強か読書である。無論、読書とは漫画を含んだものである。

 これほど一人で完結してしまっている生活もない。もし僕の生活を映像化したら、全編無音でモノトーンなものになるだろう。これを観た人は異常な不安感と虚無感に苛まれるに違いない。僕は絶対観たくない。

 ひとり絶望感に浸っている中、小夜は弾んだ様子で話していた。


「高校生らしくていいですね。わたしもそういうことしてみたいです」


「そのときは私とお茶しようか。ガールズトークってやつだね」


「ふふ、是非」


 そんなやりとりをきっかけに、男の僕にはよくわからないガーリーな話が二人の間で始まった。僕は所在なさげに外の風景を眺めるのみ。あーあー、暇だなー。

 ふと気付いたように夏目さんが顔を上げ、僕を見る。


「おや、薫くん。どうしたんだい? そんな空ろな目をして」


 完全におちょくられている。僕は泣いてもいいのかもしれない。


「僕も、女の子だったら、よかったのだろうか」


「くふふっ、か、薫くん、ごめんね。今のは私が悪かったよ。くっくっ」


 夏目さんはすがすがしいほどに笑っている。謝られている気がここまでしないのも珍しい。

 でもまあ、二人が楽しそうに会話をしていると僕もなんだか楽しいので、そんなに悪い気もしていなかった。なにより、普段あまり見ることのない小夜の笑顔を見られたことが、僕は嬉しかった。



 家の最寄り駅から三つ目の駅で降り、そこから歩いて学校に向かう。

 二人が和気藹々と話している後ろで、僕は今日の目標を立てていた。

 同性の友達をつくる、これだ。もちろん異性の友達だってつくれるものならつくりたい。無理だが。

 そんなことをむっつり考えながら歩いていると、学校が見えてきた。学校前の長い坂を上っていく。これが地味につらい。

 坂を上りきり正門を抜け、昇降口へ向かう。小夜は一年生なので、ここで別れることになる。

 これから新しい環境に飛び込んでいく小夜に、激励の言葉を送ることにした。


「小夜、はじめは色々大変だろうけど。頑張って」


「はい。でも大丈夫です、入学式の日にお友達ができたので」


 あ、そうなの。すでに僕よりランクが上じゃないか。むしろ激励されるべきは僕じゃないのか。

 小夜は、僕と夏目さんに「いってきます」と告げ、一年生の下駄箱に向かっていった。そのまま小夜の背を見送っていると、同じクラスと思われる女の子と挨拶を交わしているのが見えた。本当に無用な心配だったことを思い知る。

 その様子を見ていた夏目さん。


「くっくっ、頑張らなきゃいけないのは薫くんだよね」


「……」


 何も言い返せない。ほんと、頑張るべきは僕である。


「それにしても、君にあんな綺麗な妹さんがいるなんて驚いたよ。小夜ちゃん、きっとクラスで人気者になるだろうね」


「僕も、そう思う」


「一方、薫くんは」


「……」


「くふふっ」


 意地悪な夏目さんである。でも不思議とからかわれても嫌じゃない。

 これも彼女の人徳によるものなのだろう。もしこれが僕の父さんだったら悪態のひとつもつかずにいられない。

 いつまでも外で立っているのも変なので、僕らも下駄箱で靴を履き替え、教室へ向かった。



 夏目さんと共に教室に入ると、数人の女子が「おはよー」と夏目さんに声をかけてきた。そのときすでに僕は疾風の如き早さで彼女から距離を置いており、最初からそこにいましたと言わんばかりに自分の席に着いていた。

 夏目さんの隣に居座ることで、新たな人間関係を形成できた可能性はもちろんあるのだが、しかしいきなりクラスの女子数人を相手取るのはいささか分が悪い。というか怖い。というかおこがましい。早い話が逃げたのである。

 それに今日の目標は同性の友達をつくることだ。僕に異性の友達なんて二年くらい早い。夏目さんは、神様が僕に許した例外中の例外である。何せ、彼女は天使なのだ。

 そんな妄想に耽るのもそこそこに、僕は友達づくりの作戦を立てることにした。

 まず、僕が人と話すためには何かしらのきっかけが必要である。これも甘えと言えば甘えだが、僕のコミュニケーション能力を考えれば仕方ないことである。

 しかしきっかけを窺っている間に高校を卒業していました、なんてことになったら笑えない。本当に些細な、ほころびのようなきっかけを逃さないようにしたい。

 例えば、誰かが消しゴムを落として、それを僕が拾ってあげる事で何か展開が……。


「……いや、逆に僕が消しゴムを落とすというのも」


「私がそれを拾えばいいのかい?」


「……」


 いつの間にか夏目さんが隣の席に戻ってきていた。しかもまた独り言を聞かれてしまうという始末。恥ずかしい。

 それに、夏目さんが拾ったところで意味が無い。僕がほっこりとした気持ちになるだけだ。

 彼女が楽しげな様子で言う。


「友達づくりの作戦かい?」


「そう。今日は、男友達をつくりたい」


「そっか。でも、それって対女の子用の作戦じゃない?」


 言われてみればそうかもしれない。男の消しゴムを拾い拾われしたところで、何か展開するとも思えない。


「……けど、他に名案が」


「あるよ」


 自信満々に言う夏目さん。

 是非ともその策を伝授してほしい!


「いいかい? まず廊下を全力で走る」


 ……。


「そして廊下の角で女の子とぶつかる」


「女の子ではなく」


 やたらとクラシカルな作戦だった。彼女はそういうシチュエーションが好みなのだろうか。不良に絡まれているときも白馬の王子様とか夢見る少女のようなことを言っていたし。落ち着いた物腰からは想像しにくいが、結構少女趣味らしい。


「やっぱり、消しゴムを落としてみるのが、今の最善手か……」


「くっくっ、でも仮に君が消しゴムを落として、誰も拾ってくれなかったら……」


 夏目さんの恐ろしすぎる言葉に、僕は臓腑から震え上がった。

 黙り込んだ僕の様子を見た夏目さんは、聖母マリアを思わせる慈愛に満ちた表情で言う。


「安心していいよ。最後には私が拾ってあげるからね」


 僕はこの作戦を破棄し、別の作戦を練ることにした。夏目さんに消しゴムを拾ってもらったら最後、ほっこりするどころか泣いてしまいそうな気がする。

 消しゴムがダメとなれば、どうするか。

 そもそも男友達というものは策を弄してつくる類のものではないと思うのだ。なんとなく話すようになって、なんとなく仲良くなって、なんとなく友達になる。そんな感じではないだろうか。まあ、そのなんとなくの部分が難解すぎるから困っているのだが。


「薫くん、私わかったよ。男友達といったらやっぱり喧嘩だよ。誰かに喧嘩をふっかけて、殴り合いの末に友情ゲット。これがベストじゃないかな」


「……それができるなら、普通に友達もつくれるような」


「でも君は話すのが苦手そうだし、拳の方が語れるんじゃない?」


「僕は、穏健派なので」


「くふふ、そうだよね」


 このご時世、喧嘩をふっかけようものなら謹慎か最悪、退学も考えられる。ついでにクラスメイトに不信感も植え付けることができるだろう。そもそも喧嘩なんてしたら僕が一方的にボコボコにされる展開は目に見えており、友情を育むような互角の戦いができるとはとても思えない。僕の拳はせいぜい固いおせんべい相手にしか語れない。

 彼女の笑えるようで笑えない冗談を受け流し、黙考する。


「ミステリアスな転校生が来たり、薫くんが女の子のパンツを偶然見ちゃうみたいなイベントがあるといいんだけどね」


 夏目さんがそんな妄言を口にしたところでチャイムが鳴った。彼女の声色は半ば本気であった。



 ミステリアスな転校生がやってくることは当然なく、何のイベントも桃色ハプニングも起こらずに昼休みを迎えた。

 孤高の戦士にとって昼休みとは、ある意味では休息の時間と相反するものである。

 一年の頃を振り返る。

 まず一人飯が基本なので、周囲から妙な注目を浴びることも少なくない。だがそれは時間が経てば慣れるものである。周りも僕も。ただ、周りでは友達同士でグループを形成して昼食をとっているので、異常なまでの疎外感を感じるというのはある。

 それなら教室を出ればいい、当然のごとくそれに帰結する。

 そうして一人で居ても不自然でない場所を探したはいいが、はっきり言ってそんな場所はトイレしかなかった。外に出たところで何やらボール遊びをしている暇人がいるし、大木の下のベンチには幸せの絶頂に達しているようなカップルがいるし、図書室は飲食禁止だし、化学室や美術室といった教室などもなんやかんやで使われている。さすがに便所飯を決行する気にはならず、最終的には自分のクラスに落ち着いた。そして一人で一年間昼食をとり続けたのである。

 今日は二年生になってから初めての昼休みだ。これが意味するところは、クラス内における最初期の人間関係がわかるということである。どんなグループや派閥があるのか、どの人物が求心力やカリスマを持っているのか、それに付いて行く人はどれだけいるのか、弾かれ者は誰か、他のクラスに行く人はどれだけいるのか、それらが一目瞭然になる、というと大袈裟だが、ある程度は昼休みでわかる。

 ヒエラルキーの様相がまざまざと見せつけられるこの時間は、僕にとって居心地のいいものではなかった。

 しかし! 一年の頃と違い、今の僕は孤高の戦士ではないのだ。その重すぎる鎧を脱ぎ捨て、今こそ普通の高校生と変わらぬ青春の一ページを刻んでいきたい。今こそ地の底を這いつくばっている現状から脱出したい!

 そんな万感の思いを胸に、夏目さんに声をかける。


「夏目さん、その、是非お昼を一緒に」


「うん。一緒に食べよっか」


 奇跡。そして青春の訪れ。

 正直なところ、断られると思っていた。

 当然のことながら彼女は僕以外にも友達がいるので、織姫と彦星が如く、昼休みは絶対一緒に居ようね、というような約束を友達と交わしているのではないかと思っていたのだ。

 しかし思いの外あっさり彼女は了承した。僕の予想を良い意味で裏切ってくれた天使こと夏目さんには、ただただ信仰心が芽生えるばかりである、こんな調子で青春を全うできるのか不安になってくるが、今はこの幸せを充分に噛みしめたい。

 僕らはお互いの机をくっつけて昼食を食べ始めた。僕も夏目さんも弁当だ。


「なんであいつが夏目さんと飯食ってんだ?」


「知らん。うまいことやったんじゃねぇの」


 それまで舞い上がっていた僕の気持ちが、どこからか聞こえたそんな会話で急速に冷えた。確かに今の状況は分不相応ではあるのだ。

 ……おかしい、誰かと一緒に食べる弁当は一人で食べるより美味しいというのが定説なのに、今の僕は弁当の味がまるでわからなかった。


「あー、いいなぁ。俺も後でチャレンジしてみよっかな。夏目さん可愛すぎる……」


「やめとけやめとけ。ありゃ彼女のきまぐれだ。いつもはツインテの子としか食わねえ」


「言われてみればツインテの子いないな。自分のクラスで食ってんのかな」


「そうなんじゃね。……いや、噂をすればだ」


 その会話を聞き、教室の入口を振り返る。

 そこには一人の女子生徒が立っていた。長い黒髪のツインテールと、大きなつり目が特徴的だ。つり目というのは得てして細目の印象があるが、彼女の場合は目がぱっちりと大きいので、ただの美少女だった。すらっとした体型で脚が驚くほど長い。読者モデルなんて軽く蹴散らせるくらいのモデル体型だった。短めのスカートのおかげで太ももがやたらと眩しい。

 ツインテールの子はつかつかと夏目さんに歩み寄ってきた。先程の会話から察するに、夏目さんの友達だろうか。

 ツインテールの子は眉を寄せ、冷たい声で言った。

 

「ちょっと、ケイ。私を放置して何をしているの?」


「ん? 見てわからないかな。薫くんとお弁当を食べてるんだけど」


 ツインテールの子は見るからに不機嫌な様子だ。それなのに夏目さんは平然とした様子で弁当を食べている。これは、あまりよろしくない状況ではなかろうか。

 ツインテールの子は僕に視線を移すと、明らかに怪訝な目つきになった。


「なぁに? この出口のないトンネルみたいな目をした男は」


 婉曲的にひどいことを言われた。確かに目に光がないけども……。

 ツインテールの子は品定めするように僕を見ていたが、目以外には言及せず、夏目さんの近くにあった席に腰を下ろした。


「くふふっ。有紗(ありさ)、目が死んでるは言い過ぎだよ」


「いいえ、言い過ぎなんてことないわ。ていうか、そんなこと言ってないでしょ」


 意地悪な夏目さんである。確かに目が死んでるけども……。

 ツインテールの子は有紗という名前らしい。うーん、僕の記憶にはない名前だ。

 僕が頭をひねっていると、夏目さんがツインテの子に僕を紹介していた。


「彼はね、佐久良薫くんって言って、私の貞操を守ってくれた恩人なんだよ」


「奪われそうになったの間違いじゃなくて?」


「いろいろと、違う」


 これはさすがに黙っていられなかった。まず夏目さんの貞操発言からしておかしい。間違ってはいないのかもしれないが、わざわざそんな言葉を使う必要はないと僕は思う。ほれみろ、教室が少しざわついたじゃないか。違うんです違うんです、僕が貞操を奪おうとしたわけではないのです。

 夏目さんはお構いなしと言わんばかりに続ける。


「薫くん、紹介するね。このツインテは相坂有紗(あいさかありさ)って言って、イニシャル通りの貧乳だよ」


「ケイ!?」


 ほーう。制服の上からだとよくわからないが、夏目さんがそう言うならそうなんだろう。僕的には、貧乳というよりスレンダーという言葉の方がしっくりくると思う。胸はともかく、何度見ても美脚である。


「ちょっとあなた、勘違いしないでくれる? 私は決して貧乳ではないわ」


「はあ」


 貧乳ではないならどれ確かめさせなさいぐへへ、などと言えるわけもなく、曖昧な返事しかできない。

 相坂さんはまだ何か言いたげな様子で僕を睨んでいたが、僕が何も追及してこないのを見て安堵の息を漏らしていた。あ、この子貧乳なんだな。


「ま、いいわ。ケイ、二年になってもお昼は一緒よ」


「んー、君がこっちに来るならいいよ。私がそっちに行くのは面倒」


「仕方ないわね……」


 どうやら彼女は夏目さんとお昼を一緒したかったようだ。好かれてるなー夏目さんは。

 しかし待てよ? そうなると、僕はこの場に居られないのではないだろうか。あのツインテの子の性格を考えるに、「ちょっとあなた、女の園に居座るつもり?」などと言って、僕を排斥する可能性がある。


「薫くん、大丈夫かな? 有紗が一緒でも」


 夏目さんが上目遣いで訊いてきた。それは反則である。

 僕はノーと言える日本人だと自負しているが、上目遣いのおねだりだけは例外かもしれない。まあ、今回はもとよりノーと言うつもりはなかったが。


「もちろん。というか、僕が居ても、大丈夫だろうか」


「大丈夫じゃないわね」


「大丈夫だよ、薫くん。ありがと」


 僕は、お礼を言われるようなことじゃないと首を振った。しかし案の定、相坂さんには拒否された。つらい。

 こうして三人で昼休みを過ごすことになった。一年の頃を考えると革命的な進歩である。

 それにしても、この相坂さんも夏目さんに劣らず美少女だ。さり気なく周りを見れば、彼女をちらちらと窺っている男子が何人かいる。中には、彼女と目を合わせたいのかずっと熱い眼差しを向ける猛者もいた。気付いているか、相坂さん。

 彼女はそんな周囲の視線を気に留めることなく、夏目さんに突っかかるような口調で話しかけていた。彼女の態度は喧嘩腰にしか見えないのだが、多分それは好意の表れなのだろう。

 僕も悪態をついたり、冗談を飛ばせるような友人を早く見つけたい。夏目さんとはこれからそういう関係になりたいと思っているのだが、果たしてどうなることやら。

 僕が羨望の眼差しを彼女たちに向けていると、それまで数多の視線をガン無視していた相坂さんが疎ましげに言う。


「ちょっとあなた、いやらしくて暗い目で私達を見ないでくれる?」


「暗い目……」


 いやらしいより暗いの方が個人的には傷つく。男の大多数はいやらしいので、そう言われてもショックじゃない。

 それにしても、いやらしい上に暗い目って。なんだか犯罪者みたいでぞっとする。……自分で考えていて悲しくなった。


「薫くんは無表情なだけで目は普通だよ。ちょっとヘドロみたいに濁ってるけど」


「ヘドロ……」


 ちょっとヘドロってもはや意味がわからない。

 

「ケイ、あなた結構言うわね」


「くふふっ、だって、薫くんって目のこと言われると表情が変わるから。それを見たくてね」


「そうなの? ずっと無表情じゃない」


「変わるよ。有紗が暗い目って言ったときもしょんぼりしてたからね」


「ふぅん、まったく応えてないと思ってたわ。ごめんなさいね」


「ごめんね、薫くん」


「……」


 この二人、まったく反省しているようには見えない。別にいいですけどね、ええ。

 それより、さっきから気になっていたことがある。


「相坂さん、ケイというのは……」


「ニックネームよ。蛍だからケイ」


「くっくっ、有紗が読み間違えただけじゃない」


「うるさいわね」


 なるほど。そういう理由だったのか。

 ニックネームもそうだが、やはり名前で呼ぶと親しさが増す。それは彼女たちを見てもそうだし、周りの人を見ていてもそうだ。

 夏目さんは僕のことを名前で呼んでくれている。彼女は誰に対しても名前で呼ぶスタンスなのかとはじめは思っていたが、休み時間の彼女の様子を見るに、全員を名前で呼んでいるわけではないことがわかった。つまり、彼女は記号的に、機械的に僕の名前を呼んでいるわけではなく、親しみを込めて名前を呼んでくれていたのだ。……たぶん。

 ……よし。僕も勇気を出して夏目さんのことを名前で呼んでみよう。いい加減自分から行動しないと何も進展しない。名前で呼び合える素敵な友達関係になりたい。

 僕は居住まいを正し、夏目さんに目を向け、心臓をバクバクさせながら切り出した。


「夏目さん。その、蛍と呼んでも、いいだろうか」


 そう言ってからすぐに後悔の念が湧き始める。

 まだ早すぎた。僕ごときがおこがましい。身の程を知れ僕。気持ち悪がられてジエンド。クラスメイトの嘲笑の的。相坂さんからの罵倒。そんなマイナスイメージがどんどん溢れて止まらない。汗も止まらない。

 だがそれは杞憂だった。


「くっくっ、いいに決まってるよ。名前で呼んでくれたほうが嬉しいね」


 夏目さんは、いや蛍は満面の笑みを浮かべて了承してくれた。

 僕は心底ほっとし、やりきったという充実感を覚えていた。これは確実に一歩前進と言える。やったぞ、僕!


「ちょっとあなたたち、妙なやりとりしないでくれる? もうかゆいったらありゃしないわ」


「混ざりたいのかい?」


「ばかじゃないの?」


 相坂さんが頬杖をついて嘆息した。

 確かに傍目からだと恥ずかしいやりとりに見えたかもしれない。しかし、僕にとっては重大な事だった。

 それから昼休みが終わるまで、蛍は相坂さんをからかい、相坂さんはそれに反抗していた。僕はその様子を微笑ましく見守っていたが、相坂さんによる「そのコールタール色の目で見るのやめてくれる?」という台詞でひどく落ち込んだ。黒い涙が出るかと思った。



 午後の授業も終え、放課後になった。

 かつての僕なら何も迷うことなく一人でさっさと下校していただろう。しかし今は違う。

 やはり、高校生ともなれば友達と一緒に帰路につくのがまっとうと言えよう。西日でひとつ寂しい人影を落とす毎日にさよならしなければなるまい。

 そう思い昨日と同様に蛍と一緒に帰ろうかと思ったのだが、彼女は多数のクラスメイトと話していてとても一緒に帰る提案をできるような状況じゃなかった。よーし、今日は一人で帰っちゃうぞー。

 心で泣きながら教室を出ると、廊下には相坂さんが立っていた。何やらイライラとした様子である。蛍のことを待っているのだろうか。

 僕が声を掛けようかどうか迷っていると、相坂さんがこちらに気付き、つかつかと歩み寄ってきた。こ、怖い。


「確か佐久良とか言ったわね。一人で帰るの?」


 先程までのピリピリした雰囲気は影を潜めているが、しかし嗜虐的な笑みが浮かんでいる。一人で帰って何が悪い!


「はい。帰ろうと、思ってます」


 何故か敬語になってしまった。彼女の高圧的な物言いを受けると、どうも身が縮こまってしまう。彼女は生粋の女王様に違いない。前世は卑弥呼かクレオパトラか。


「ふぅん、そうなの。私、ケイと一緒に帰る予定なんだけど、あなたも来たら?」


「いいんですか」


「本当は嫌だけど。あなた、ケイの友達なんでしょう?」


 友達の友達は他人というが……、相坂さんはよっぽど蛍を信頼しているらしい。蛍の友達という理由だけで、僕の同伴を許してくれるのだから。しかし本心を隠す気がないあたりさすがである。


「ねぇ、ケイを呼んできなさいよ」


「……蛍はクラスの人と話していて、声をかけづらいというか」


「そうなの。ならしょうがないわね。私もそういうところに割って入るのは無理だわ」


 相坂さんが溜息をついてそう言った。

 意外だった。気の強そうな彼女なら、人の輪を無理矢理にでも引きちぎって蛍をかっさらうくらいはできそうなものだが。


「相変わらずケイは人気者ね。まったく、どれだけ待たせるのかしら」


 壁に寄りかかって腕を組み、仏頂面になる相坂さん。その姿がやたらと様になっていて、一瞬見惚れてしまった。不機嫌な顔が可愛いというのも凄いなと思う。


「相坂さんにも、人気者の雰囲気が」


「ばかね。私は違うわよ」


 首を振って否定された。ツインテールが気だるく揺れる。

 

「あなたは見るからに不人気そうよね。ベッドの下みたいに暗い目をしてるもの」


 僕はそんなに不気味な目をしているのだろうか。ベッドの下って。

 目に光を集めようと窓から外を見ていると、相坂さんから視線を感じた。そちらを見ると、彼女は戸惑っているような、怒っているような、よくわからない表情をしていた。

 そして彼女が何か言おうと口を開いた瞬間。


「や、おまたせ。あれ、薫くんも待っててくれたの?」


 蛍が教室から出てきて、ニコニコと微笑みながら声を掛けてきた。

 すると、相坂さんがずんずんと蛍に歩み寄り、至近距離から文句をぶちまけていた。

 遅いのよ、私は待つのが嫌いなの、置いてくわよ、むかつく、八方美人、ばか。

 そんな相坂さんはまるで駄々をこねる子供のようで、妙に可愛らしく見えた。

 しかし、少しして僕の視線に気付いた相坂さんに、「その光の届かない深海みたいな目で見るのやめてくれる?」と言い放たれひどくへこんだ。マリアナ海溝の如くへこんだ。



 僕ら三人は駅に向かって歩いていた。まあ傍目には、女の子二人とその後をついていく不審な男に見えるかもしれない。いや、この考えはあまりに悲しすぎる。あるいは自意識過剰というものだろう。

 僕はネガティブな気持ちを振り払い。目の前で繰り広げられている会話に集中した。


「それで、有紗は相変わらずクラスで孤立してるのかい? D組だったよね」


「そんなわけないでしょ。見くびらないでくれる?」


「そっか。誰と仲良いの?」


「それは、あれよ。……なんて言ったかしらねあの子は。ちょっと名前が出てこないわ。喉まで出かかってるんだけど。もう舌の上で転がしてるくらいなんだけど」


「くふふっ、なら早く言ってよ」


 相坂さんはクラスに友達がいないらしい。考えてみれば、完全女王様気質な相坂さんは、甲子園の時の松井くらい敬遠されそうな人である。それに彼女の鋭い目つきは身をすくませるほどの威圧感があるので、僕なんかは失禁も辞さないほどの恐怖を覚えた。多分、彼女のクラスメイトは近寄りがたいと思っているはず。


「私のことはいいわ。……あなたはどうなのよ。目の暗さだけは一流のあなたは友達がいるのかしら?」


 露骨な矛先逸らしである。彼女は目だけこちらに向けて、小馬鹿にしたような口調で言った。

 その物言いを受けて、目の前で揺れる綺麗なツインテールをこれでもかと触りまくってやろうかと思ったが、さすがにそれはアウトなので普通に言い返すことにした。


「目の鋭さと、口の悪さが一流の君と、大して変わらない」


「なっ!?」


 相坂さんは身体ごとこちらを振り向き、目を丸くしていた。蛍は肩を震わせている。

 実のところ、僕は相坂さんの言葉が不快だったからあんなことを言ったわけじゃない。いやまあ多少は不愉快ではあるけれど、目が暗いのは事実なのだ。

 僕は彼女の現状に大いに親近感を覚えていた。クラスに友達がいない、あるいは少ないという共通点がわかり、どうにも彼女は対等の存在に思えてならない。だから少し突っ込んだことを言ってみたくなったのだ。

 しかしあくまで対等なのは立ち位置だけであり、それ以外の能力においてはまた別の話であることも、当然理解している。

 相坂さんはしばし絶句していたが、やがて静かに話しだした。


「言い返せるじゃない。ちょっとびっくりしたわ」


 そのとき、彼女は一瞬だけ険のない柔らかな表情を覗かせた。普段からこの調子だったら友達なんて片手の桁数くらいはできるのではないかと思った。

 その表情をもっと見たかったが、すでに彼女は仏頂面に戻っており、前を向いて歩き出していた。

 僕がぼーっとその後ろ姿を眺めながら歩いていると、蛍が僕の隣に並び小声で教えてくれる。


「有紗はね、……んー、なんていうか、本音で話せる人としか会話したくないんだ。だから初対面の相手でも辛辣なこと言うんだけど、それで嫌われちゃうから面白いよね」


「聞こえてるわよ、ケイ」


 前を歩く相坂さんが睨みを利かせてきたが、蛍はそれを無視して話し続けた。

 蛍曰く、相坂さんは上っ面だけの薄っぺらい関係というものが嫌いらしく、人間関係は狭く深くを基本としているそうだ。そのうえ彼女は人の好き嫌いが激しいため、友達と呼べるような人は本当にごくわずかしかいないらしい。蛍はそのうちの一人ということだ。


「性格の悪い頭のイカれた女だと思ったかしら?」


 相坂さんが前を向いたまま、吐き捨てるように言う。

 確かにいささか尖ったスタンスではあるようだが、僕としては「ああ、そういうのもあるんだなあ」と思ったにすぎない。つまるところ、彼女の辛辣さはある種のフィルターなのだ。彼女の本質に触れるためには、そこを乗り越えなければならない。

 しかし、僕は蛍から彼女について話を聞いたからそんなふうに考えることができるが、何の知識もなく罵倒されたら……やはり好感は抱かないだろう。

 いや、今はそんな仮定の話はいい。せっかくレアな話を聞けたのだ。ここは多少なりとも彼女の本質に近づいてみたい。きっと根っこの部分では優しい女の子に違いないのだ。

 では、どうしてこんな性格になってしまったのか。

 僕は自慢の妄想力を働かせて、あるひとつの仮説を立てた。おそらく、過去にこんなエピソードがあったのではないかと思う。

 ――相坂有紗が中学一年生の頃。当時の彼女は、男を何一つ知らない純情初心な女の子だった。好きなものはお花、将来の夢はお菓子屋さん、雲はわたあめでできている、そんなことを真面目に言い切りそうな夢見がちな少女だった。そんな少女のもとに、ある一人の男子がやってくる。その男子はサッカー部のエースで、容姿はアイドル顔負け、運動能力は言うまでもなく、性格も温厚篤実、そんなモテるために生まれてきたような完璧超人だった。夢見る乙女が彼に恋心を抱くのもはや必然だった。しかしその男子は完璧過ぎたがゆえに裏の性格を持っていた。外面だけを見て本質を捉えていない女どもが忌々しくて仕方ない、そんな思想を持つ彼は、有紗を弄ぶためだけに近づいていたのだ。最初こそ有紗に優しく接していた彼だったが、最終的には有紗を邪険にし、ありもしない風評を流した。そのせいで女子はもちろん男子からもビッチだの淫乱だの身に覚えのない謗りを受けることになってしまった。遊ばれていたことを理解した彼女は、それ以来人を信じなくなった。将来の夢はお菓子屋さんから悪人を断罪する法律家へと変わり、好きなものはお花からバールと六法へと変わり、雲はわたあめではなく水蒸気であることを理解した。彼女は大きな瞳に涙を浮かべ、しかし零さないように空を仰ぎ、水蒸気の塊を見つめながらもう二度とあんな男に騙されないことを誓ったのだった――。

 そんなエピソードがあるに違いない。そう考えたらなんだか彼女が愛おしくなってきた。悪い男に誑かされちゃって可哀想に。

 僕は目の前で揺れるツインテールに優しく語りかけた。


「……男に遊ばれた過去から、そんな性格になってしまったことを考えると、相坂さんが不憫でしょうがな」


「はぁ? あなたね、あんまり変なこと言うと右ストレート入るわよ?」


 ……あれ? 全然本質に近づけた気がしない。

 ふと隣を見れば、蛍がまたしても俯いて肩を震わせていた。笑いすぎである。



 相坂さんは上り線の電車で帰るということなので、駅で別れた。

 僕は蛍と一緒に下りの電車に乗っている。すぐ隣に蛍が座っているのでなんだか落ち着かない。もっとポップに言うと、ドキドキしている。友達である前に、蛍は女の子なのだ。そりゃ緊張の一つや二つはしますわな。なんか良い香りとかするし。

 蛍はいつものように微笑みながら話しかけてきた。


「どう? 有紗と仲良くなれそう?」


「……僕は、仲良くなりたいと思ってるけど」


 彼女から願い下げではなかろうか。僕ごとき根暗が彼女のお眼鏡にかなうとは思えない。


「そっか。じゃあ有紗次第なんだね。……有紗の目の前で消しゴム落としてみる?」


 蛍がいたずらっぽく笑って言うので、首を振って返す。

 それを実行したら最後、あの鋭い眼光で見下されることが容易に想像できる。そもそも拾ってくれないだろうし、クラスが違う。

 どうしたら彼女と仲良くなれるのだろうか。


「相坂さんの、好きなものとか」


 まずは彼女について知ることが重要だろう。もしかしたら意外な共通点があるかもしれない。僕は漫画と小説が好きなので、その分野なら話せることもあるはずだ。


「んー、なんだろうね。甘いものが好きかな」


 甘いもの……。


「しかし、女子は総じて甘いものが好きなのでは」


「くっくっ、それは偏見じゃないかな。まあ確かに私も好きだけどね」


 僕も甘いものは人並みに好きであるが、甘いものトークをできる自信はない。あそこのケーキバイキングよかったよ~、なんて暗い目の男がるんるんに言い放ったら時が止まる可能性すらある。

 甘いものから攻めるのは保留にし、別の角度から攻めたい。


「他には、何か」


「うーん……あ、それを有紗に訊いてみたらいいんじゃないかな?」


 蛍が名案を思いついたというような顔をする。

 だが確かにそれは名案だった。彼女にお近づきになるための話題を話題にする。これを最初にすべきだったのだ。

 こういうことがすぐに思い浮かばないあたりに僕のコミュニケーションスキルの低さがうかがえる。

 密かに落ち込んでいると、蛍が思い出したように言う。


「ところで、男友達はできたのかい?」


「……明日こそは」


「そっか。頑張ってね」


 蛍の激励は素直に嬉しいが、含み笑いはいただけない。



 ◇◇◇



 翌日の昼休み。相坂さんが弁当の入った小さなバッグを片手に教室に来た。そして昨日と同じように近くにあった椅子を持って蛍の机に身を寄せる。その際、僕に対ししっかりと嫌そうな目を向けることも忘れない。これじゃ友達はできませんわな。

 昼休みも半ばに差し掛かったとき、昨日蛍と電車の中で話して思いついた質問を彼女に繰り出してみた。


「相坂さんは、休日なにをして過ごしていますか」


「なぜあなたにそんなことを教えなくちゃいけないのかしら」


 まあ予想できた返事ではあるのだが、実際に正面からそう言われるとそのダメージはなかなかに大きい。五臓六腑にズシンと来る。ちょっと心拍数が上がった。

 しかし彼女の気持ちもわかる。目の暗い得体のしれないヒエラルキー底辺の男にパーソナルなことを話すのは躊躇われるだろう。つまり、彼女の警戒心を優しく解いていく必要がある。

 ここは己がプライベートを存分にさらけ出し、僕という男が人畜無害の好青年であることを強くアピールしなければなるまい。


「僕は休日、本を読んで過ごしています」


 相坂さんの隣にいる蛍が吹き出していた。何を笑っているのか。僕は大いに真面目である。

 件の相坂さんは、「はぁ?」と今にも言わんばかりの怪訝な目つきになっていた。

 そしてその目つきのまま、


「……だから?」


 と短く疑問を投げかけられた。

 あれれ? おかしいな。こちらが話したから次はそちらですよ、という王道パターンにならない。

 いやいや落ち着け。彼女の言い分もわかる。そっちが勝手に話したのであって、こっちは言うつもりはない、そういうことでしょう。わかるわかる。

 ここはいたって下手に、お姫様のご機嫌を伺うように、彼女の心を引き出していかなければなるまい。


「有り体に言って、僕は、君のことが知りたいのです」


 極めて真摯に、英国紳士さながらの物腰で言い放った。この愚直な言葉を彼女は受け取ってくれるだろうか。


「……ふぅん」


 お? 辛辣な言葉が返ってこない。これはうまく言ったのではなかろうか。


「でも私は教えたくないわ。ついでに、あなたのことも特に知りたくない」


 なんてひどい言い草だろう。これは根っこの部分から性格が腐っているのではないかと、僕もそろそろ疑ってしまいそうである。

 いやいや落ち着け、それは早計だ。

 これが恋愛ゲームだったらまだ序の口の段階のはず。僕は恋愛ゲームをやったことはないが、世に言う『ときメモ』なんかもこういう攻略の難しいキャラクターがいて、プレイヤーはその子と仲良くなるために必死になったはずである。僕は今その状況に立っているのだ。それに恋愛ゲームと違って僕の目的は友達になることなのだ。恋人と比べたらそのハードルは大分低くなっているはず。

 そうして僕がなんとか自分を奮い立たせようとしていると、脳裏に誰かの声がもやもやとリフレインしてきた。

 ――現実とゲームは違うぞ、ハッピーエンドが必ずあると思うな、現実に選択肢はなく、また答えもない、現実は大概ハードモードで辛いものなんだ――。

 これは誰の言葉だっただろうか。……思い出した、僕の父さんの言葉だ。

 なぜ頑張ろうとしているところを邪魔しにくるのか。僕の父さんはよっぽど僕に友達をつくって欲しくないらしい。なるほど、相坂さんが美少女だから妬んでいるのか。それならば、僕はなおさら彼女と仲良くならねばなるまい。脳裏に蔓延る父さんよ、残念だったな、僕はこの美少女と友達になってみせる!

 父さんのネガティブな箴言を逆に奮起の材料とし、再び彼女に対峙する。

 押してダメなら引いてみろ!


「……わかりました。僕は今後、君が貧乳であるという情報だけを持って、君と接しようと思います。ダブルエーカップの相坂さん、ご機嫌うるわしゅう、今日はとても良いお天気ですね。その慎ましい胸で、いま何をお考えでしょうか。お花のことでしょうか、勉学のことでしょうか、それともやはり豊乳の策でしょうか。驚異的な胸囲を誇る相坂さん、外をご覧になって下さい。桜がひらひらと散っています。すべての花が散る頃には今度は葉で緑に色づき、初夏の気配が伺えるようになるでしょう。そしていずれは紅葉し、豊穣の秋を迎えることでしょう。そんな季節になっても、君の吹けば飛び散ってしまいそうな胸は案の定豊かにならず、泡沫の夢と消えてなくなってしまうのかと思うと、僕は悲しくて君の胸を見据えることができません。ああ、おいたわしや。哀れな胸を持つ相坂さん。どうかその揺るがない胸に絶望せず、今日という日を強く生き抜いて欲しい。アーメン」


 彼女の胸を凝視しながら一息に言い切ると、彼女は顔を赤くし、鋭い目を更に鋭くし、僕に怒声を浴びせた。ちなみにその横では蛍が机に突っ伏していた。


「あなたね、いい加減にしなさいよ!? 誰が貧乳しか特徴のない女だって!?」


 激昂する彼女に対し、僕は冷静に彼女の貧乳を見つめ、言い返す。


「しかし僕は、君について貧乳であることと、相坂有紗という名前しか、知らない」


「さっきからどこ見て喋ってるのよ!?」


 彼女は両腕で自分を抱くようにして言う。


「……そのように、唯一の特徴を隠されてしまっては、僕は君を相坂さんと認識できない」


「はぁ!? 他でも認識できるでしょう!?」


 もちろんできるが、問題はそこじゃない。


「僕は、君の口から、貧乳以外のことを聞きたい」


 今度は彼女の目を見つめて言った。

 彼女はしばらくその鋭い目で僕を睨み返していたが、やがて溜息をつき、力を抜いた。


「……わかったわよ。だから、その見てると不安になる目でこっち見るのやめて。それと、断じて貧乳じゃないから勘違いしないで」


 決定打は僕の挑発という名の説得ではなく、暗い目だったらしい。なんというか、泣きたくなった。

 そうして一段落ついたとき、僕らが周囲から注目されていることに気付いた。おそらく相坂さんがヒステリックに叫んでしまったので、何事かと思われたのだろう。しかし割りとすぐにその視線も感じなくなったので、相坂さんにはよくあることなのかもしれない。蛍に対しても怒ってそうだし。


「で、何を聞きたいのよ」


 相坂さんがそっけない態度で言う。可愛らしい。

 よし、ここはオーソドックスなところから攻めよう。


「……では、趣味なんかを」


「くふふっ、まるでお見合いだね」


 密かに笑い続けていた蛍がようやく復活した。そして相坂さんの神経を逆撫でするような事を言う。

 相坂さんは蛍の言葉を無視し、答えてくれる。


「趣味は特にないわね。特技だったらピアノかしら」


「ほう」


 そう頷きつつ腕組をしている彼女の手を見る。なるほど、細く綺麗な指をしている。この容姿でピアノを華麗に弾いたらさぞかし絵になるだろうなぁ。

 そんな彼女の姿を僕が無言で想像していると、その本人が尖った口調で言う。


「……聞きたいことはそれだけ?」


「は。いや、他にも……えーと、休日は」


 当初の質問を忘れていた。これを聞いてみたい。


「それなんだけど、特に言うこともないのよね。のんびりしてるわ」


「なるほど」


 僕も本を読む以外は、ただ自堕落に過ごしているし、休日はそんなものかもしれない。


「で、他には何を聞きたいの?」


 何を訊けばいいだろうか。好きな男のタイプでも訊いてしまおうか。いや、これは無理だ。一笑に付されるに決まっている。まずい、焦りで何も思い浮かばない。

 痺れを切らした相坂さんが追い打ちをかける。


「さっきの長口上の勢いはどうしたのよ」


「あれは、その、つい口走ってしまったというか。申し訳ない」


 僕の慌てふためく姿を見て、彼女がようやく笑顔を見せた。いささか嘲笑の成分が強いが、そこは気にしない。基本的には仏頂面な彼女なのだ。

 その後の相坂さんは、貧乳と言われたことへの復讐と言わんばかりに僕の暗い目をからかったり、抑揚のない口調を馬鹿にしたりと大忙しであった。そして昼休みが終わるまで僕をいじり倒し大いに満足したようである。

 蛍はその有り様を見て常に笑っていたのだが、少しは僕を助けてくれても良かったと思う。

 まあ何にせよ、相坂さんと長く会話できたことが僕は嬉しかった。

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