旅人と歯車、少女と意志
どこまでも続くのは灰色の世界。そこは空も、地面も、見渡す限りが灰色だった。
そんな世界の、灰色の砂が積もった砂漠。そこには金色に輝く歯車が一つ。砂に埋もれていたが一際存在感を放つ歯車を、ひとりの旅人が薄汚れた指を伸ばしてつまみ上げた。
その歯車は世界に色を点す鍵となる。
だが、旅人にはそれがただの歯車にしか見えなかった。しかし、それでも彼は手に取った。この世界で唯一色を持つ特異点ということ……、そして歯車が呼んでいた気がして。
旅人はそれを握り締め、その場を去る。その歯車を必要としている場所に向かうため。
手の中で歯車が訴えるように輝く。こちらだ、こちらにきてくれと。ただ目的を達成するため、旅人は導かれるままに……。
声ならざる声は響く。生きる意味をなくしていた旅人は、死ぬ前の一興だ、と自嘲の笑みを浮かべて足を運ぶ。
足場の悪い砂場をただひたすらに旅人は歩んだ。
灰色の森、灰色の湖、灰色の荒野……。様々な場所を通り過ぎ、やがて旅人は辿り着く。朽ちた塔へと。
手にしてからずっと握り締めていた金の歯車が訴える、ここの天頂へと連れていけと。
果てしなく伸びる空をつく朽ちかけた塔。旅人はそれを見上げ、呟いた。
「これが私の最期の生きる目的となるのか」
果てしなく伸びる塔。ゆっくりと、まるで誘うかのように開いている扉の中に入る。
「お待ちしておりました」
塔の中にはひとりの少女。彼女は礼儀正しい綺麗なお辞儀をして旅人を迎え入れた。
「さあ、こちらへ……」
彼女は丁寧な動作で旅人を階段へと誘う。
少女はどこか儚い雰囲気をまとっていた。触れれば今にも崩れそうな砂の城のように。雪のように解けてしまいそうなそんな淡さも。
「…………」
旅人は何も口にはせず、ゆっくりとした振り払う動作で誘いを断った。
旅人は自分の意志で階段に足をかける。螺旋状の階段を一段一段踏み締めながら旅人は上り始める。少女はその後ろをただ微笑を浮かべながらついてきていた。
この少女が何者なのかわからない。この塔の守護者か何かか……、人間であるのかさえも旅人には理解できなかった。
「なにを考えて上るのですか、あなたは」
突然に少女の柔らかい声が問うてくる。
「…………」
だが、旅人は答えない、答えられない。口を開こうとすると歯車が熱を持ち、なにも言うなと訴えるのだ。
少女はそれをわかっていながら聞いてきたのか……。そんな疑問がふとよぎったが、旅人にはわからない。ただ歯車が促すままに足を運び続ける。
この塔に至るまでに疲労はかなり溜まっていたはずだったが、不思議なことに今は全く疲労を覚えなかった。旅人はぐるぐると永遠にも近い階段を上り続けた。
終わりがないのでは……、と疑問に思ったところで巨大な扉が目の前に現れる。
誰かが侵入することを拒むかのようにずっしりとした鉄の扉。取っ手などないその扉に手をかける。
「開けるのですか?」
少女の少し固い声を無視して、旅人はゆっくりと扉を押し開けた。
四方の壁のうち、三方向が吹きさらしになっている最上階にたどり着く。陽の光に染まった暖かい空気が旅人と少女のことを迎えてくれた。
その空間の中央には巨大な鐘。歯車と同じ金色の、大きな大きな鐘。
ゆっくりと旅人は一歩を踏み出す。
「あの鐘を動かすのならば……」
旅人を止めようとするかのように少女が声を響かせた。
「あなたの時は終わってしまうかもしれないのですよ……」
旅人は振り返らずに答えた。
「このような灰色の世界がこのまま続くというのならば、私に時など必要ない。ただ私は色の点ったこの世界を一度でいいから見てみたいのだ。そのためならばこの命も惜しくはない」
旅人の口からは咄嗟にその言葉が紡がれた。
「そうですか……」
少女は表情を変えずに、しかし納得したような声で呟いた。
旅人は再び歩きだす。自身に課せられた使命を成し遂げるために。
鐘に近づけば歯車が一つだけ欠けた機械が。ぽっかりと空いた穴が歯車を誘うように、明滅を繰り返す。
その明滅に反応するかのように、歯車から急かすような念が旅人の頭の中に流れてくる。
旅人はそっと、金の歯車を穴に近づけた。カチリという音をたて、歯車はピッタリと穴に嵌まった。
旅人はそれを確認すると、二人ほどの人が入れるのガラス張りの空間へ迷いもなく向かった。なぜそこに向かったのかわからない。ただ、導かれるようにその空間に入り込んだ。
そこの中央の柱には一つのスイッチと透明な結晶体。それに手を伸ばしかけたその時、
「待って!」
少女の切羽詰まった声がわんわんとガラス張りの部屋の中に響いた。何十にも重なった声を聞き、旅人は少しだけ振り返る。
「もしあなたがそのスイッチを押してしまったら、あなたは命を落としてしまいます」
悲しげに少女が呟く。
なぜ彼女は見ず知らずの人間の死を悲しむのかが旅人には理解できない。塔に入ったばかりの頃は少女は自ら彼を此処へと誘おうとしたというのに。
「私には記憶がない。気づいたら旅をしていた」
そして旅人は語りだす。これまでの自身の気持ちを。
「生きた心地すらしないまま私は旅を続けていた。そんなときに見つけた金色の歯車から、私は何かを感じ取ったのだ」
機械に嵌められた歯車を眺めながら旅人はそう口にした。
「……変わらないのですね」
旅人の言葉を聞いた少女は、まるでおかしなことでも聞いたかのように微笑を浮かべた。
「その意志の強さ……、それでこそあなたです。私はもうあなたを止めることはしません」
旅人には彼女の言っていることを何一つ理解することはできなかったが、彼女の中でつかえていた何かが消えたことは理解できた。
「そうか。……なら」
旅人がスイッチを押す。すると、スイッチの上に存在している結晶体が赤く輝きだした。
「……ッ!」
まるで身体から力が抜けていくかのように旅人は膝から床に崩れ落ちる。いくら身体に力を入れようとしてもうまくいかない。
旅人がふと結晶に視線を移すと、結晶の輝きが大きくなっていくことに気づく。
それを見て理解する。この結晶が自分の生命力を吸い取って鐘を動かすエネルギーに変換していることを……。
旅人の生命力を吸い上げた機械がゆっくりと動き始める。
歯車が回り、軋むような音が漏れる。そして……。
鐘の音が世界に鳴り響く。
大きな鐘だが、透き通る音色が辺りに広がっていった。
「まだだ……」
旅人はガラスにもたれ掛かりながらも外に目をやった。
吹きさらされた部屋から見える世界に色が点っていく。
灰色だった森は緑に、その森の奥にある湖は水色に。
旅人は視線を違う方向に移動させる。
遠くに見える火山の頂上は赤く、岩肌は黒く。そして、遥か高い空はどこまでも青く澄み渡っており、ところどころで浮かぶ真っ白な雲がゆったりと風に流されていた。
「これが、私の見たかった世界……」
見惚れる。色の点った世界に……。その美しい世界に心を奪われる。自身がもうすぐで命を落とすことも忘れるほどに。
「あなたはとうとう夢を叶えました」
少女が優しい笑みを浮かべながら、ガラス越しにそう口にした。。
「ああ。こんなに素晴らしいものは初めてだ」
鮮やかに輝く金髪と透明な白い肌を持った、人形のように美しい少女に旅人は微笑みかける。初めて見せたそれは、心の底からこぼれてくる笑みだった。
「ありがとう青年。私にこのような素晴らしいものを見せてくれて」
背後から突然聞こえてきた男性の声に旅人は振り返る。
そこにはひとりの老人。誰かと似た顔立ちをした、穏やかそうな表情を浮かべている老人がいつのまにかそこに存在していた。
「……そうか。だから私はここに導かれたのか」
老人を見て旅人は理解する。自分がここに導かれた理由を。自分がここに来た理由を。
「……私はもう充分満足した。あなたもそうだろう?」
ガラスにもたれながら色の点った世界を眺めている旅人が老人に問い掛ける。
「もちろんだ。そんなことはお前もわかっているだろう?」
老人も世界を眺めながら旅人に問い返した。
「そうだな……。それじゃあ、」
『行こうか』
お互いにそう口にすると旅人はゆっくりと目を閉じた。
「……さようなら、父さん」
幸せそうな表情を見せている旅人を眺めながら少女はそう呟いた。彼女も旅人と同じように、幸せそうな表情ではにかんでいた。
世界に響く鐘の音は、その日一日中鳴り続けていた。
* * *
「……昔、灰色で閉ざされた世界に色を解き放とうとする男性がいました」
穏やかな風が吹き抜ける緑溢れる森。その中で切り株に腰を掛けて座っていた少女が膝に乗せた本を開き、語り始める。
「しかし、この世界の知識と技術では世界に色を点すことは不可能でした。せいぜい私のような人形を作り出すのが精一杯」
膝に乗せた本をめくる。まるで本に書いてあることを読むように……、そして子供に聞かせるかのように優しい声で彼女は言葉を紡いでいく。
「だから彼は契約したのです。この世界の外側に存在する神と……」
その本の中にはひとりの人間が巨大な黒い影に対して大きく手を広げているイラストが描いてあった。
「神は膨大な知識と技術を彼へと受け渡しました。それによって彼は長い年月をかけて金色の鐘を完成させます」
ページをめくる。次に描いてあったのは老いた男性が金色の鐘を作り上げたイラストだった。
「しかし、神といってもその神は邪神だったのです。その邪神によって彼はとある宿命を課せられます」
少女は再びページをめくる。
「鐘を鳴らすには人間の命を代償とすること。そして、それは自分自身であること……」
「聞いてみると簡単なことのように思えるかもしれません。けれど邪神は残酷。機械から歯車を一つ抜き取ると、それを世界のどこかに捨ててしまいました」
黒い影が一つの歯車を砂漠へと放り捨てる。空高くから落とされた歯車は灰色の砂に埋もれ、そのほとんどが見えなくなっていた。
「鐘を作ることに長い年月をかけ過ぎた彼にとって、世界を巡り、その歯車を探すことはもう不可能なことでした」
はいつくばるかのように嘆く老人。彼の瞳からこぼれ落ちた涙が床に斑点を作っていく。
「しかし彼は諦めきれなかった。……だから彼は行ったのです。神から授けられた知識と技術を使うことで、今現在の心と記憶を歯車に閉じ込め自分自身を若返らし、若い自分を歯車と鐘のもとに導くことを……」
ひとりの青年は金色の歯車を握り締め、ただひたすらに世界を歩む。歯車に導かれるように鐘を目指しながら。
「そして、旅人として世界を巡った彼は成し遂げたのです。この世界に色を点すことを……」
少女がパタリと本を閉じる。それは物語の終わりを意味していた。
「私は父から、若返った父が塔に訪れたときに鐘まで導くことを任されました」
森の中を吹き抜ける風が少女の鮮やかな金髪をなびかせる。その髪は、まるでそれ自体が輝いているかのように太陽の光を反射していた。
「はじめは言い付けどおりに動いていました。しかし、鐘まで導けば父はまた、しかも永遠にいなくなってしまう。それが嫌で私は途中で父を止めようとしてしまった」
彼女は申し訳なさそうな表情を一瞬だけ見せた。しかし、直後には普段どおりの優しい微笑を浮かべていた。
「けれど父と会話をして私は理解したのです。彼の意志の強さを……」
透き通るような白い肌をした少女は、座っていた切り株から立ち上がる。
「父さんは私に素晴らしい世界を見せてくれた。それに大切なことを教えてくれた」
少女は歩きだす。目前に見えるのは空高くまでそびえ立つ朽ちかけた塔。
「あの塔が崩れるまで、私は父さんの作った鐘を守りつづけます」
少女はほがらかに微笑みながら塔へと向かっていく。そして、小さな……、本当に小さな声で彼女は呟いた。
「なぜならそれが、私の意志だから……」