魔物の種 - 6 -
何も考えずに前に出てしまったわたしは、取りあえず懐に仕舞っておいたはずのナイフを探した。
ケイン王子から借りた聖器のナイフ。
聖力を籠めていない聖器なんて、普通の武器と殆ど変わらない。
今のわたしに注ぎ込める聖力なんて、ほんの少ししか残っていない。
だけど、それでも、魔物の根を滅することはできなくても、進む方向ぐらいなら変えられるはず。
そう思って、黒装束の前方についた隠しポケットに手を入れてみるけれど、見つからない。
……あ、あれ?ない。どこにやったのかしら?
仕舞っておいたのは、ズボンのポケットだったのかも。
急いでズボンの両サイドを探るけれど、そこにもないみたい。
どうしよう。鋭い根の先がすぐそこに迫っていた。
もう、ダメ。わたしは咄嗟に目を瞑ってしまう。
最初の時みたいに素手で応戦しようなんて考えられなかった。
誰だって痛いのは怖いでしょう?
何もしないよりは、そうしておけば良かったなんて、それは後から考えた事。
後悔というものは、頑張っても先には出来ないんだもの。
ナイフが見つからなかった時点で、わたしは軽いパニック状態だった。
これも後から思ったんだけど、飛び出す前にちゃんとナイフがあるのか確認しておけばよかったのよ。
逃げたい。逃げ出したい。
でも、わたしがこの場から退くと、後ろに居るベアトリス卿たちはどうなるのだろう。
わたしはその場で、なるべく痛みがありませんように。そう祈りながら、ただ目を閉じてじっとしているしかなかった。
それしか思いつかなかったんですもの。
けれど、それからしばらくしても、襲ってくるはずの衝撃はなかった。
……あれ?痛くない?
恐る恐る目を開けてみる。
すると、そこには苦笑いするケイン王子の顔。
少し顔色がおかしい気がするけれど。
王子の顔が凄く近い。
だ、ダメですよ、ケイン王子。
人様の前でキスするなんて、わたしにはできません。
まあ、それこそわたしの日課は、ライアン・フランシス様(肖像画)に接吻する事でしたけれど。
それとこれとは話が随分と違ってくるものです。
それに、そんなに近寄られても、わたし、まだ心の準備が……。
欲求不満が溜まっていらっしゃるのかしら、ケイン王子。
でも、今は状況をよく考えて行動して下さい。
そんな場合ではなく、わたしは魔物に狙われたベアトリス卿をお助けしなくてはいけないの。
それとも、これは夢?夢なのかしら?
「馬鹿……ナサニエル、お前……飛び出し、といて……目、瞑ってんじゃねぇ、よ」
なんですって。馬鹿はケイン王子よ。
人様に向かって馬鹿って言う人が馬鹿なんですからね。
と言う事はわたしも馬鹿と言うこと!?
そんな馬鹿なって、わたしったら本当に馬鹿だった。
よく考えて、どうしてケイン王子がわたしの前に居るのか。
そんなこと、すぐに分ったのに。
本当に情けない。情けなくて、泣けてくるわ。
途切れ途切れな言葉を残して、ゆっくりと崩れ落ちるケイン王子の姿を見るまで、自分が助けられた事に気がつかなかった。
──う、そ。
ケイン王子の胸から突き出ているそれは何?
灰色で、鋭く尖った木の根の様な……それ。
わたしは倒れたケイン王子の体を何とか受け止めた。
そのまま床に座り込む。
部屋に敷き詰められた赤い絨毯、それからわたしの黒い衣服が、実際の色よりも濃く、染められていく。
膝に感じる生ぬるい感触。
それが王子の体から流れ出る度に失われていく、彼の顔色。
やめて、嘘よ。
これでは立場が逆ではないの。
ナサニエル・レインはライアン・フランシス様を庇うのよ。
それなのにどうして?
倒れているのはわたしではなく、ケイン王子なの?
馬鹿よ、馬鹿。ケイン王子は本当の馬鹿。
ガキは嫌いだって言ってたじゃない。
ううん、人間が嫌いなんだって。
でも、そんなことをいいながら、一番面倒見がいいのはケイン王子、あなたよ。
自分の目の前で、命が消える所を見たくない、だなんて。
カッコつけて、自分がそれをして、どうするのよ。
わたしだって見たくないわ。
だって、そんなの辛すぎるもの。
「ケイン、さま?」
わたしの喉はカラカラで、出てきた言葉は掠れていた。
「ケイン!」
王子の名前を叫び、ジェフリーさんが魔物の残りをその一太刀で処分する。
ジェフリーさん、焦り過ぎて敬称を忘れているわ。
「ケイン君!!」
念には念をと、ブライアンさんが朽ち果てた魔物の残骸に浄化術を施し、こちらへと駆けてきた。
これで、もう大丈夫ね。魔物は退治された。
「……ケイン、お兄様?」
すぐ後ろからテレサ姫の声がした。
彼女は何故か、この部屋のクローゼットから姿を現した。
手にはペンとメモ帳がしっかりと握られている。
屋敷の外に避難されたはずよね?
ずっと、そのクローゼットの中にいらしたのかしら。
テレサ姫はヨロヨロとこちらに近づいてくると、その表情を崩した。
「しっかり、しっかりして下さい!お兄様!!」
ああ、どうしましょう。涙で視界がはっきりしない。
目の前には血まみれの王子。それから、それに泣き縋るテレサ姫の姿が。
……表情の乏しい姫が泣いている。
ケイン王子、あなたの妹様が泣いているわ。
寝てないで、そろそろ起きたらどうなの?
「──ナサニエル」
そう、呼んでくれたのがケイン王子ならよかったのに。
最初、自分が呼ばれている事に気がつかなかった。
……そうだったわ。わたしはナサニエル・レイン。
「ナサニエル」
ロアンお爺さんがもう一度、その名前を呼んだ。
わたしは声がする方へゆるゆると顔を上げる。
視界の先には毛むくじゃらのロアンお爺さんと、青い顔をしたジェフリーさん。
それから大きな瞳に涙をいっぱい溜めたブライアンさんが居た。
その奥には無事、救出することに成功したマイケルさんとベアトリス卿。
後、黒髪の少年(名前は知らない)が、心配そうにコチラの様子を窺っている。
「すまんが、お前さんの力を貸して貰えんかの?」
ロアンお爺さんの言葉に、わたしは首をかしげる。
この期に及んで、何に力を貸せと言うの?
わたし、ケイン王子を守れなかった。
ケイン王子はライアン・フランシス様ではないけれど、わたしが守ると誓った相手。
どうして、何がいけなかったのかしら。
そうね、わたしがいけなかったんだわ。
何も考えずに飛び出して、そして身動きが取れなくなった。
わたしが、わたしが死ねば良かったのよ。
だって、わたしことなんて、誰も必要としていないでしょう?
お父様とお母様はわたしを居ない事にしたいみたいだし、わたしが聖騎士になったって、大して役に立てそうもない。
ただ物語の中の主人公に憧れていただけ。
出来れば自分もそうなりたいと思って努力してみたけれど、いざ実行しようとしても、思うようにはならなかった。
何とかなる、という根拠のない思いこみで、ケイン王子をこんな目に。
「考えとる時間はない。お前さんしかケインは救えん」
王子を救う?
「だって、だってこれって、こんなに血がいっぱい」
もう、死んでいるんでしょう?
さっきからケイン王子の体温が感じられない。冷たくて。
冷たいってことは死に近づいてるってことで……ケイン王子はまだ生きているの?
ロアンお爺さんの言葉に驚いているのはわたしだけじゃなかった。
ジェフリーさんもブライアンさんも目を丸くしている。
「何をなさるおつもりですか、ロアン様」
「ケイン君、助かるの!?」
2人の言葉にロアンお爺さんが頷く。
「たぶん、じゃがの」
──たぶん。
「大丈夫じゃ。ほんの少しでいいから力を貸して貰えんかの?」
優しい声でわたしを安心させるように、ロアンお爺さんが囁く。
「……ち、から?」
聖力はたぶん、もう殆ど残っていないと思うけれど。
「そうじゃ。ワシが今から唱える言葉を繰り返してくれるだけでいい。傷口に、こう手を当てての」
「こう、ですか?」
わたしは恐る恐る、ケイン王子の傷口を抑え過ぎないように、そっと両手を重ねておいた。
「そうそう。上出来じゃ」
ロアンお爺さんは満足そうに頷いた。
「では、いくぞ」
張り詰めた空気が部屋全体を覆う。
その中は奇妙なくらいに静かだった。
みんな、息を止めて、ロアンお爺さんの声を待つ。
「古より伝えられし始まりの言葉」
ロアンお爺さんの言葉を一言一句逃さないように、耳を傾ける。
『──古より伝えられし、始まりのエルザミア』
エルザミアって何かしら?
「其れは我が名」
『──其れは我が名』
誰かの名前?
「神は言葉であり、言葉は神である」
『──神は言葉であり、言葉は神である』
これって、聖言よね。聞いた事、ないけれど。
「すなわち我は神である」
『──すなわち我は神である』
神って誰が?ファーミリアム様のこと?
「この世にある全ての物は神々によって創られた」
『──この世にある全ての物は神々によって創られた』
何故かしら、体が熱い。
「創世の力をもってして、いま一度、彼の者に祝福を与えん」
『──創世の力をもってして、いま一度、彼の者に祝福を与えん』
その時、体の奥底から、何かがどっと、重ねた手のひらを伝って、ケイン王子の体へと流れ込んだ気がした。
すると目の前が真っ白になって、視界が戻った頃には、頬に赤みが差したケイン王子の姿。
……よかった。傷も塞がっているわ。
辺りを見回すと、ジェフリーさんもブライアンさんも、そしてテレサ姫も目をシバシバさせていた。
この部屋にいる人全員。ベアトリス卿もあの男の子も。
眩しい思いをしたのはわたしだけじゃなかったのね。
ロアンお爺さんは例外だけれど。
あの眉毛は突然の光からも目をカバーしてくれるのよ。
羨ましくはないけれど、少し便利かもしれない。
ちょうどそんなことを考えていると、ロアンお爺さんが、いきなりわたしを引っ張った。
「え、ちょっと」
あ、待って。
ケイン王子の体をずっと抱え込んでいたものだから、足が痺れて動けない。
けれど、ロアンお爺さんはそんな事お構いなしにわたしを引っ張る。
「早くせい」
「あっ」
勢いよく立たされて、ケイン王子の体が床に落ちた。
下は絨毯とはいえ、なんだか凄い音が聞こえたような……ゴンって。
わたしはロアンお爺さんに引かれたまま、部屋の外へと向かった。
廊下に出てすぐ、こちらからは部屋の様子が窺えるけど、向こうからこちらは見えない場所。
そこで、ロアンお爺さんがわたしを振りかえる。
「すまんの。神力が切れてしまったようじゃ。体が元に戻っておる」
「え!?」
シンリョクって何?
そう思ったけれど、体と言われて、ロアンお爺さんの視線の先を見る。
わたしの体。着こんだ黒い服。首にかかっているのは、ケイン王子の腰紐。
そして、見下ろしたその先には……。
元々は存在していて、でもここ数日間は存在していなかった膨らみがあった。
代わりに慣れてきていた股間の物体が消えている。
……ど、どういうことなの!?
驚くわたしにロアンお爺さんが言った。
「指輪で、お前さんは祈ったじゃろう?聖騎士になりたいと」
「ど、どうしてそれを?」
神様しか知らないはずなのに。
……あ、そう言えばケイン王子やジェフリーさんは知っているわね。
信じてもらえなかったけれど、全て話したもの。
ロアンお爺さんはそれを聞いたのかしら?
「今、お前さんが女子というのがバレるのは非常にまずい。まだ時期ではないんじゃよ」
ロアンお爺さんは言った。
「だから力が戻るまでは暫くの間、これで胸を隠して。後、これを羽織っておきなされ。幸い、お前さんの事は誰も見ておらんでの」
そう言って、どこから取り出したのか、ロアンお爺さんはサラシと、わたしが特注していた聖騎士の服もどきを渡してきた。
「ほれ、皆が気づかぬうちに」
ようやく目が慣れてきたみんなは、辺りをキョロキョロと見渡して、それから無事生還したケイン王子の様子に歓喜の声を上げていた。
喜びのあまり、わたしやロアンお爺さんが居ない事にも気付いてない様子。
……なんだか、ちょっぴり切ないわ。
わたしは服の上からサラシを巻いた。
そうしてから、大きめのなんちゃって聖騎士服を身にまとう。
その時、水に浮く泡のようにポッカリとある考えが浮かんだ。
「あ、あの……ロアン様は……」
神様なの?ファーミリアム?
でも確か、神はこの世の物とも思えぬほど美しく、光輝く桃色の髪は甘く艶やかで、瞳は流れる血潮のごとく赤いのだと神殿が発行している聖書に書いてあったはず。
「皆まで言うな」
ロアンお爺さんの見えない瞳。
そのフサフサの眉毛の奥には、きっと赤い瞳が隠されているのね。
人の価値観とは様々だもの。
聖書を書いた人にとって、ロアンお爺さんの姿は美しく、白髪は桃色に映ったのかもしれない。
そう言う事なんだわ。
「あ、あの、はい!」
わたし、今、神と対面しているのね。ファーミリアムと。
この事実には誰も気づいていないのかしら。
ロアンお爺さんは神殿の幹部だと言っていたし、ひょっとして姿を隠して人々の暮らしを見守っていらっしゃるの?
──そうなんですね、ロアン様。
わたしが確認の意味をこめて見つめると、ロアンお爺さんは頷いた。
──わかりました。そう言うことならば、わたしは全面的に協力させて頂きます。
ロアンお爺さんが神だなんて、誰にも言いません。
「お前さんの夢は叶うよ」
ロアンお爺さんはそう言って、ゆっくりと頷いた。
ご褒美ですか?察しの良いわたしにご褒美ですね!
わたしの夢……わたしの夢は、
「わかりました!わたし、立派な聖騎士になります!!」
まだまだ未熟者だけど、一生懸命努力します。
わたしは1つの事にのめり込めるタイプだから。
「それから、それから……ケイン様のことも任せて下さい!」
わたしは言った。声高らかに。
きっとケイン様を神も認める立派なライアン・フランシス様にして見せますからね。