魔物の種 - 2 -
ベアトリス卿の話は本当に長かった。
だってまず始まったのは、ベアトリス卿と今は亡き奥方様(屋敷の本館に飾ってあった肖像画の人物)との出会いから。
「おい、その話は必要なのか?」
ケイン王子が言った。
「それはもちろんですとも。彼女との出会いがなければ、今のわたしは存在しなかった」
そして始まったのは、その奥方様がどんなに素晴らしい女性だったかという話。
「ベアトリス卿。あなたの奥様が、どれほど素晴らしいご婦人だったのかは、嫌になるほど分かりましたので、そろそろ本題を……」
と、今度はジェフリーさん。
「ジェフリー殿、やはりあなたは分かってくださいますか。そもそもわたしの妻は息子のマイケルを出産した後も、あまり体形が変わりませんでね。以前のように美しかったわけですが、わたしはそのことが心配で心配で……そんな時、どこかの馬鹿な若造が妻に言い寄ってきましてね」
ところが妻はそれを撥ね退けましてね、愛しているのはこのわたしだけだと、そんなことを申すものですから、と今度は惚気話へと発展していった。
……どうしましょう。
ここにも空気の読めない人物が1人。
予想外だわ、ベアトリス卿。
ロアンお爺さんとブライアンさん、それからテレサ姫以外はみんなウンザリした表情を浮かべていた。
それもそのはず、ロアンお爺さんは隣の席で随分と前から、軽くイビキをかいている。
けれど、そのことは遠目から見る限りさっぱり、わからない。
ただ規則的に鼻の下の髭がユラユラと揺れているだけ。
わたしは隣に座っていたから、その事に気付いたの。
ブライアンさんに至っては、もう机の上に突っ伏していた。豪快に居眠りしている。
そして、透かし彫りの豪華なテーブルの上には、ブライアンさんのヨダレが……。
その隣に座っているテレサ姫はと言うと、何やら先ほどから一心不乱に、どこからか取り出したメモ帳にペンで何かを書き込んでいた。
たぶん、ベアトリス卿の話す奥方様のお話を、だと思うのだけれど。
書き留める必要が、あるのかしら……疑問だわ。
「──もう、結構です」
ジェフリーさんが言った。
「まだこれから、めくるめくる愛の活劇があるのですが、お聞きにならないと?」
そう言うベアトリス卿の言葉を無視して、ジェフリーさんはテレサ姫に顔を向ける。
「テレサ様、あなたは全ての事情をご存知なのでしょう?」
ジェフリーさんに無視されて、ベアトリス卿は何だかちょっと寂しそう。
「わかるぞ、クリストファー。お主の気持ち。最近の若者は年寄りの話を聞こうとしない」
先ほどまで、眠っていたはずのロアンお爺さんが、いつの間にかベアトリス卿の隣の席に移動していた。
「髭じじい。お前、さっきまで寝てただろう」
ケイン王子がテーブルに肘をついて、斜め向かいのロアンお爺さんに言った。
「なんと!?このワシを疑うのか?」
「ヨダレ、ついてるぞ。ご自慢の髭に」
ベアトリス卿がロアンお爺さんに、悲しげな眼差しを向ける。
「こ、これはお主の話がつまらなくて寝ていたのではなくてな……」
「……つまらない」
ロアンお爺さんは弁解しようとして、ベアトリス卿を更に落ち込ませていた。
「テレサ様。ベアトリス卿に代わって説明して下さいますか?」
ジェフリーさんの言葉に、姫はメモ帳から顔を上げ、静かに頷いた。
「まず、わたくしが何故ここに居るのかと言いますと……」
テレサ姫はそこで言葉を切った。
「わたくし、一度でよいので囚われの姫というものを体験してみたかったのです」
……えっと、だから今回の事件を起こしたというコトかしら?
「この間の騒動の時には、もし自分が盗賊に攫われた場合に国がどう動いてくれるのか、果たして無事に救出することが出来るのか確かめたかった、と言われていましたね」
確かテレサ姫はジェフリーさんの話によると、以前も偽の脅迫状を自分の父親(つまり国王様)に送り付け、似たような騒ぎを起こしている。
「前回のことは反省しています。あれは想像以上に周りに混乱を招いてしまいました。ですから、今回はケインお兄様の名前を指定させて頂きました」
「おい、お前。今回も十分、混乱を招いてんだよ!」
テーブルに身を乗り出して、ケイン王子が言う。
「大丈夫。お兄様の行動は予想の範囲内です。今の現状はプランBですから」
「どこが大丈夫なんだ!?お前の所為で俺の第3聖騎士団を動かしてるんだぞ!」
「ケインお兄様のではございません。正確にはこの聖トリエスタ王国の聖騎士団です」
それは余計、問題があるのではないかしら。
「屁理屈言ってんじゃねぇー。お前、そういう所はどんどん、あの女に似てきやがって」
……あの、女?
ケイン王子の口から聞き捨てならない単語が耳に入ってきたのですけれど。
一体、どこの誰なの?
わたしの知っている人かしらって……そんな訳ないわよね。
そもそもケイン王子とは最近、数日前に知りあったばかりだもの。
ついつい、その場のノリで修羅場的な発言をしてしまいそうだったわ。
よく考えてみれば、わたしの方が後から現れた女……ではなく、男なのよね。
ケイン王子ったら心に決めた女性がいらっしゃるのに、男であるわたしにあんな愛の告白を?
振られたら死んでしまう……と言うような熱いセリフをおっしゃったの?
なんてことかしら。こんなこと、ライアン・フランシス様だったら……。
そうね、そうよね。
わたしにそんなこと言う資格なんて、なかったのだわ。
わたしだって、ライアン・フランシス様への愛を捨て切れずに、こうやって、いつも王子と比べてしまう。
いくらケイン王子の命がかかっているからと言って、わたしってなんて醜いのかしら。
口では都合のいいことを言って、ケイン王子を弄び。
心の奥ではライアン・フランシス様のモデルとして、相応しい方になって頂きたいと画策している。
いえ、でもこれは神に与えられた使命。
わたしは頑張ろうと心に誓ったのよ。
ケイン王子がライアン・フランシス様に近づけば、わたしは心の底から彼を愛することが出来ると思うの。
やっぱり、どう考えてもライアン様への愛を覆すことは出来ないんだもの。
そうなれば、ここは王子に変わっていただく他ないわ。
そう、これは言わば必然。愛するが為の試練。
ケイン王子はこの世に生を受けた時点で、ライアン・フランシス様になる予定だったのよ。
偶々、名前を付け間違えられただけ。
性格の矯正だって、いまからでも遅くないわよね。きっと。
「あの女とは、マリエッタお姉様のことですね」
テレサ姫が言った。
「それ以外に誰がいる?」
まあ……女と言うのは、ケイン王子のお姉様のことだったのね。
わたしったら、変な誤解をしていたわ。
ケイン王子は男の人が好きなんですものね。
「そんなことより、テレサ様。プランBというのは……プランAもあったという事ですか?」
このままでは一向に話が進みそうもない所で、ジェフリーさんが言う。
「はい、ジェフリー。プランAは本当の義賊「白い風」に、わたくしを誘拐してもらうという計画でした。1年も前から、かの盗賊団の頭目宛てにコツコツと書状を送ってはいたのですが、一向に返事が貰えず。わたくしは妥協策としてプランBを実行することにしたのです」
プランBはプランAに比べて、随分と危険度が少ないのです、そう言ってテレサ姫は少しずれていたメガネをインクの付いた手で直した。
「それが今回の誘拐事件だと?」
ジェフリーさんの言葉にテレサ姫は首を振る。
「正確には誘拐事件ではありません。わたくしは誘拐などされていませんから。ただ、少し趣向を凝らした手紙を陛下宛てに送っただけです」
趣向を凝らした手紙とは、あの脅迫状のことね。
── テレサ・フェイス・トリエスタを誘拐した。姫を返してほしくば、ケイン・フィーダ・トリエスタをネオスの町に連れて来い。
「誘拐ではなく、偽装誘拐だと仰りたいのですか?」
ジェフリーさんが言って、
「偽装でもなんでも、立派な事件だろ、これは」
お前が引き起こした迷惑極まりない事件だ、っとケイン王子が息巻く。
「違います。あの手紙はわたしからすれば──ネオスの町にいるので、ケインお兄様を迎えによこしてください。勝手に外出して申し訳ありませんでした。と、そのような意味合いをこめて送ったものです」
えっと、どの辺りがそうなのかしら?
テレサ姫の発言にケイン王子は、だーっと声を上げると、金色の髪を掻き毟っていらっしゃる。
あれはもう癖の様なものね。矯正するのは大変かもしれないわ。
「まあ、そんな事はこの際、どうでもいいです」
どうでもいい、なんてジェフリーさん。
世の中には思っていても、口に出さない方がいい事があると思うのよ。
ジェフリーさんは深いため息をついて、続けた。
「何故、この町に?」
そう、ジェフリーさんの疑問はもっともだわ。
先ほどケイン王子が言っていたように、ここは国境が近い、南外れの地域。
しかも国の境とは言え、後ろには、そびえ立つ山々。
そしてその山は誰も越えることが出来ない。と言うか、越えても意味がないのよ。
聖トリエスタ王国は大陸の一番、南端に存在している。
だから、山を越えた先には何もない。
存在するのは、塩分を多く含んだ暗い水たまり。
人間が住むことのできない、不思議な土地が広がっている。
そこは足を踏み入れたが最後、ズブズブと奥深くまで吸い込まれてしまうという魔の領域。
人々はそれを海と呼ぶ。
そこを渡るには船と呼ばれる乗り物が必要だとか。
間違っても馬車で乗り入れてはいけない。そのまま帰ってこられなくなるらしい。
……恐ろしいわ。
そして、そんな海には面妖な生物たちが生息している。
他国にはそれを好んで食べる人々がいると言うけれど。
わたしはその魚介類とよばれる生物をお父様の書斎にあった『海の生き物図鑑』で見た。
そこに描かれていた生物は、見たこともないような不思議な形をしていたの。
手足が8本もある生き物がいるだなんて……正確には手が2本で、足が6本。
中には12本なんて、つわものもいたのよ。
……ありえない。
きっと、魔物の一種なのね。
わたしが未知の生物に思いを馳せていると、テレサ姫の声がした。
「わたくしが城を散歩していた時、ちょうど、ベアトリス卿のご子息を乗せた馬車が止まっていたのです」
どうやらテレサ姫がジェフリーさんの質問に答えているようだ。
「つまり、偶々その馬車に乗り合わせ、偶然にこの町に来てしまったと、そう言う事ですか?」
「乗り合わせたというのには少し語弊があります。わたしはその馬車の屋根で昼寝をしていたのですから」
「……昼寝」
姫の言葉にジェフリーさんは絶句してしまった。
「そう言えば、テレサは所構わず昼寝する癖があったな」
と、ケイン王子。
「お恥ずかしい話です。わたくしは城から足を引きずり馬車に乗られるベアトリス卿のご子息、つまりマイケル・ベアトリスの事が気になり、興味本位でその馬車の屋根に身をひそめ、情報収集をしようとしておりました。けれど、ついポカポカと暖かい陽気で寝入ってしまい。気がついた時にはこの町に」
「そういうことですか」
……え、どういうことなの?
今の説明でジェフリーさんはどうやら、納得したみたい。
わたし、みんなの話についていけないわ。
眠いのも我慢して、こうして起きているけれど。
わたしもブライアンさんのように居眠りしてもいいかしら。
もちろん、ヨダレは垂らしません。
ブライアンさんは相変わらず、テーブルの上に水たまりを作っていた。
テレサ姫はそれが自分の方に流れてこないように、ブライアンさんの服の袖で、それを拭いている。
「それにしても、なぜ脅迫状を?」
ジェフリーさんがため息交じりに、そう言った。
「脅迫状ではありません。それに……最初に言いましたでしょう。わたくし、囚われの姫というものを体験してみたかった、と」
テレサ姫はブライアンさんの腕を放して、ジェフリーさんを見る。
「お前、それ、全然理由になってねーからな。そもそも、テレサ。お前に囚われの姫役は無理だ。見た目はそうだな、メガネを外せば何とか……ただ、その中身がなっちゃいねぇ」
「やはり、そう思われますか」
兄であるケイン王子の言葉にテレサ姫は冷静にそう答えた。
何と言うか、わたしって、すっかり部外者よね。
なんだか置いてきぼり感がたっぷりで、寂しいの。
ついさっきまでは盗賊団の一味だとか、何かの陰謀に絡んでいるんじゃないかとか疑われ、なんやかんやと構われていたのに。
今ではすっかり蚊帳の外。
それでいいのだけれど……いいのだけれどね。
「仕方がないから、プランCに切り替えようかしら」
テレサ姫が不穏な発言をした所で、廊下の方が慌ただしくなった。