町の領主邸 - 2 -
夜の町は昼のそれとは少し違って見える。
わたしたちは宿の窓から、人々が寝静まった暗闇の中に降り立つこととなった。
泊まっているわたしたちの部屋は2階にあるから大した高さじゃないけれど、それでも飛び降りるとなると勇気がいる。
ケイン王子が聖術を使って、落下速度を緩和してくれるって言うけれど……。
今から数分前──。
「ここはナサニエルさんにお願いしましょう」
ジェフリーさんがそう言って、わたしは使えるかどうかもわからない聖術を使わされそうになった。
けど、ケイン王子が、
「簡単な術だし、俺がやるよ!俺にやらせてくれ」
その時、妙に積極的だった王子のおかげで、わたしは一先ずピンチを切り抜けたのだ。
ケイン王子、見なおしましたよ!
聖騎士は通常、聖器の扱いが得意な人、聖術が得意な人が2人1組になって、対をつくる。
ペアと呼ばれるものなんだけれど、確かケイン王子は聖器の扱いも聖術も両方とも得意だったハズだ。
これはもちろん『月刊 聖騎士☆通信』に載っていた情報。
そこには、現在ペアを組むことなく、実戦で戦っている人はケイン王子くらいだとも書いてあった。
その事からも、ケイン王子がライアン・フランシス様のモデルじゃないかって噂されているんだけれど。
ライアン様もペアを組まずに、お1人で戦っておられるから……。
けれど『聖なる騎士物語』が発行されたのが、今から5年前。
ケイン王子が聖騎士団に入団したのが、今から約2年程 前だから、モデルって言うのにはちょっと無理があるのよね。
そう言えば、ジェフリーさんのペアの人って、どこに居るんだろう?
実はジェフリーさん。意外や意外、聖術が苦手らしい。だからわたしに聖術を使わせようとしたんだ。
見た目から言って、ちょっとインテリっぽい雰囲気のジェフリーさんは見るからに文系。
だから、てっきり聖術が得意なんだとばっかり思っていた。
人って見かけによらないものだ。
ひょっとして、領主邸に潜入したのってジェフリーさんのペアの人なんだろうか。
わたしがあれこれ考えていると、ケイン王子が早速、聖なる言葉を紡ぎ始めた。
『──重さのない鎖、大地に根を下ろす我らの枷を一時の間、緩めたまえ、進む時間を遅らせたまえ』
聖言と呼ばれるそれは、神であるファーミリアムに捧げる祈り。
『神の御名において、我は祈りを捧げる者、祝福はこの身をもってして人々に与えられん』
聖力を持った者が、その力を込めて祈りを捧げると、その返礼として、祝福が与えられる。
それが聖術の原理とされている。
ケイン王子が唱えるこの術は、確か、スローの術だったと思う。補助術の1つだ。
効果は術をかけられた人の、動作と時間が一時的に穏やかになる、というもの。
反対にクイックファーストという術は、かけられた人の動作や時間が一時的に はやくなるのだと言う。
全部、本で得た知識だから、実際に体験したことはないのだけれど。
『──スロー』
ケイン王子がそう言って、ジェフリーさんに触れた。
聖術は術をかける対象に直接触れることで初めて発動するので、遠隔から、ということができない。
「では、お先に失礼しますね」
そう言ったジェフリーさんの言葉は酷くゆっくりとしているように聞こえた。
本人は普通に話しているつもりでも、起きる現象は遅い。
ゆっくりと窓際に立ち、ゆっくりと窓枠に足をかける。
それから、フワリといった感じに、まるで重さがないみたいに、地面に着地した。
『──スロー』
いつの間に次の術を唱え終わっていたのか、ケイン王子が何の前触れもなく、わたしの肩に触れた。
すると、妙に体が軽くなった気がして、これなら軽く空でも飛べそうな気分なのに、動きが遅い。
自分では普通に動いているつもりなのに……。
わたしは先ほどのジェフリーさんのマネをして、宿の窓から思い切って飛び降りる。
すると、景色はゆっくりと、わたしの目の前を通り過ぎた。
落ちてるだけなのに、まるで空を飛べちゃった気分。
凄い!なんだか人生観が変わっちゃいそうだ。
聖術って結構、便利だったんだなぁ。本を読むだけじゃなくて、実践してみればよかった。
そうすれば屋敷から抜け出す時にもあまり苦労しなくて済んだのに。
わたしの家には外へと続く秘密の抜け道があって、そこには所々に罠が仕掛けてあった。
何のために作られたのかは、わからないけれど。
わたしはそこを屋敷の探検中に発見したのだ。
今思えば、無謀な行動だったと思う。
けれど、幼かったわたしは何の恐れもなくその道を突き進んだ。
……運がよかったんだと思う。
仕掛けられていた罠は大人用だった為か、当時のわたしにはあまり効果を示さなかった。
だって、飛び出た矢は頭の上を飛んでいったし、落とし穴を開くボタンはわたしの体重くらいでは起動しなかった。
段々、大人に近づくにつれ、その道を通るのが困難になっていったけれど。
小さな頃から使いなれた道。
罠の場所もタイミングも知っていたから、避けることは可能だった。
だけど、スローの術を使えていたら、今みたいに窓からヒラリと外に出られたのよね。
聖術を使っていいのは男性だけ、だなんて一体誰が決めたのかしら?
女性の聖術師もいないことはないけれど、世間からは白い目で見られるらしい。
だから聖術を習いたいと言ったわたしに、お父様は反対されたんだと、随分、後になってから知った。
その頃には既に、自分が聖騎士になることは不可能だと気づいていたから、なんと言うこともなかったけれど。
そんなことをしみじみと思い出していたら、いつの間にかケイン王子も、道へと下りて来ていた。
取りあえずは街灯の少ない裏道を通って、なんとかこの町の領主の家へと向かう。
途中まではいいけれど、貴族や商家なんかの立派な屋敷のある通りには裏道なんてないから、家の屋根を伝うという荒業を使うらしい。
それにはやっぱりスローの術が欠かせないのだけれど、術の効果時間がそれほど長くないので、スローの術の籠められた首飾りを渡された。
「こんな便利な物があるなら、最初から使わせてくださいよ」
窓から降りるのもこの首飾りがあれば、わざわざケイン王子が聖言を唱えるまでもなかったのではないかしら。
「この首飾りにも使用時間があるのですよ。1回発動させると30分しか持ちません。スローの術は僕たちの行動する時間も遅らせるので、実質は15分といったところでしょう。15分で宿から領主邸までは辿り着けませんし。この首飾りは一度使うと、次の起動までには最低でも5時間くらいは使えなくなるんです」
わたしの苦情にジェフリーさんが苦笑いで答えた。
「便利なようで、便利じゃない代物なんですね」
首飾りの感想をわたしがそう述べていると、ケイン王子が言う。
「ぐだぐだ言ってないで、さっさと行くぞ!」
どうも、領主邸への潜入が決まってからケイン王子のテンションが違う気がする。
見た目はライアン様に似ているだけあって、美しいのに、どうして中身がこんなにも荒っぽいのか。
……ご両親はどういった教育方針をされていたのかしら?
仮にも一国の王子様なのだから、それなりの礼儀作法や言葉遣いを勉強されたのではないのだろうか。
一体、ケイン王子の身に何が?
そう言えば、ジェフリーさんが何かヒントになるようなことを言っていたような……。
「いいですか?向こうに着いたら、二手に別れましょう。僕は1人で大丈夫ですから、ケインはナサニエルさんと行動してください」
ジェフリーさんの言葉に、あたしたちは同時に答える。
「どうして、コイツなんかと!」
「任せてくださいっ!ジェフリーさん!!」
これは早速、ケイン王子を更生するチャンス到来ね!
まずは聖騎士になってからと思っていたけれど、これ以上、ライアン様と似たような顔で暴言を吐かれたら堪らないもの。
「ケインさん、これが初めての共同作業ですね」
そう言ってわたしがニッコリ微笑んだのに、ケイン王子は顔を顰めた。
何なの。その反応、失礼しちゃう。
わたしの笑顔はそれ1つで、執事のバッスンを騙くらかし、お父様の財布の紐を緩めてきたのよ。
お母様やメイドのジェシカ。子守のターニャには効かなかったけれど。
大抵は笑っていれば、それで誤魔化されてくれたんですからねっ!
「おや。初めて、ですか?……2人は確か昨日トイレで」
「お前ら、俺をおちょくってるのか?」
ジェフリーさんの言葉にケイン王子のこめかみには青筋が浮かんでいた。
「……そう言えば、今朝も何やら」
ケイン王子を無視して、ジェフリーさんが続ける。
「もう、いい」
王子は溜息混じりに顔を背けた。
……あ、なんだか。ちょっと可哀そう。
ケイン王子って、実はいじめられっ子なのね。
なるほど、だから根性がねじ曲がって、こんな性格に。おまけに口まで悪くなって。
「ケインさん。わたしはケインさんの味方ですよ」
だから、わたしの言う事をちゃんと聞いて、立派なライアン様のモデルを目指しましょうね!
そうすれば、自ずといじめられなくなりますから。
「……お前は、また何を言っているんだ?」
訳がわからないといった感じに、ケイン王子は肩をすくめた。
もう、また……。
「お前じゃなくて、ナサニエルです」
わたしが頬を含まらせるのと同時にジェフリーさんが言った。
「では、遊びはこの辺にして、今から真剣に行きますよ。首飾りを起動するには、この飾りの付いたトップの部分を握って、聖力を注ぎます。そして、スローと唱えるだけですから」
ジェフリーさんに言われた通り、渡された首飾りの透明な黄色い球が付いた部分を片手で握りしめる。
聖力を注ぐのなんて、やったことがないから、どうすればいいのかしら。
チラリと2人を覗き見ると、首飾りを手に静かに目を閉じている。
……うーん、よくわからないけれど、取りあえず目を閉じればいいのね。
『スロー』
『……スロー』
横で2人の声がする。
わたしもそれに倣って、口を開いた。
『──スロー』
そう言うと、体が急に軽くなる。
やった!成功したみたい。
これって、わたしが初めて使った聖術ってことになるのかしら?
でも聖言を唱えたわけじゃないから、初めての聖力使用体験と言ったところね。
そもそも、わたしの聖力は髪に表われるくらいに強いみたいだから、使わなきゃ勿体ないわよね。
「おい、ナサニエル!ぼさっとしてないで、さっさと行くぞ!」
お互いにスローの術がかかっているからなのか、ケイン王子の言葉は普通の速さに聞こえた。
「はい!」
「ナサニエルさん、お静かに」
思わず元気よく答えて、ジェフリーさんに窘められる。
「……はあい」
今度は小さく、掠れるような声で答えた。
わたしたちは脇道から、目の前の家の屋根に向かってジャンプする。
高さに少々バラつきがあったものの、なんとか3人とも無事、屋根に上ることが出来た。
それぞれに顔を見合わせて頷く。
それから、闇色の服を纏ったわたしたちは、静かに屋根の上を渡って行った。
……聖騎士って、色々なことをするのね。
魔のモノ達を退治するだけじゃないと言うのは知っていたけれど。
本で得た知識よりも、随分と地味な気がする。
まあ、世の中ってそういうものよね。
わたしは今夜、また1つ大人になった。
酸いも甘いも噛み分けた大人に。