落し物は嘘をつかない
傘が四十七本ある。
数えたのは私だ。数え終えてから、静かに後悔した。
県立西高・旧校舎一階・元印刷室。扉の上の札には手書きで「遺失物保管庫」。中には傘の森のほかに体操着・単語帳・水筒・片方だけの上履き、その他もろもろがスチール棚三本と床の段ボールにみっちり詰まっている。埃と古い布と、うっすらインクの油の匂い。印刷室だった頃の名残らしく、床には機械の脚の跡が四つ、日焼けの逆で白く残っていた。
「全部で三百くらい、かなあ。数えたことないけど」
前任の係、二年の戸倉忍先輩はのんきに言った。
話は昼休みに遡る。一年三組の学級会で、委員と係の割り振りがあった。花形の学級委員から順に埋まっていき、最後まで残ったのが「遺失物管理係」だった。仕事内容、不明。活動場所、旧校舎。立候補、当然ゼロ。くじになり、私が引いた。周りは「ドンマイ」と言った。辞書を引き直したくなる響きだった。
で、放課後。引き継ぎに現れた先輩と、この物置に立っている。
ここまでの半日、貧乏くじの被害者のつもりでいた。扉が開いて、考えが変わった。
三百件。全部、捨てられる。
「早瀬さん、いま笑った?」
「気のせいです」
扉の裏に、黄ばんだ貼り紙が一枚ある。規定は三条きりだ。
「一、拾得物はすべて台帳に記載すること」
「二、返却の際は受取欄に署名をもらうこと」
「三、公示より二週間、申し出なき物品は処分してよい」
三条目を、二度読んだ。
「処分、できるんですか」
「できるけど、誰もやらないよ。もったいないし、なんか悪いじゃん。物にも、人にも」
「やります」
即答した。
先輩が半歩引いた。
弁解しておくと、物が嫌いなわけではない。逆だ。実家は駅裏で買取と販売の店をやっている。持ち込まれた品に値段をつけ、磨いて棚に出し、次の持ち主へ渡す。物は動いてこそ物で、止まった物は場所の泥棒になる——店の壁の標語は私が書いた。祖父の受け売りでもある。
査定は物に訊け、が祖父の口癖だ。物は嘘をつかない。嘘をつくのは売り値と、人間のほうだと。
だから、値段もつかず持ち主も現れない品が三百件、鍵のかかる部屋で埃をかぶっている光景は、私には軽い地獄に見える。
台帳は代々の大学ノートの束で、今は十二冊目だった。先輩が最後のページに引き継ぎ事項を書いてくれる。丸っこい、緊張感のない字。
「鍵はこれ。係用ね。もう一本は職員室の貸出用。……あれ、予備がもう一本あったはずなんだけど。まあ、出てきたら渡すよ」
「必ず」
「あと、窓口は昼休みだけ開ける。届け物の受付と、取りに来た人の対応。月に数人だけど」
「盛況ですね」
「皮肉は引き継がなくていいから」
その日のうちに棚卸しを始めた。
「初日から?」
先輩は呆れて、それでも最後まで付き合ってくれた。
手順は実家仕込みだ。棚の端から一点ずつ手に取り、状態を見て、台帳と突き合わせ、番号札を貼る。
ビニール傘、三十一本。買取不可。商品価値より場所代のほうが高い典型だ。骨の折れた学校指定傘が九本に、折りたたみが六本。残る一本は蛇の目で、これは誰の物か深く考えたくない。
「それ、演劇部が文化祭で使ったやつだと思う。終わったら取りに来なかったんだよね」
「覚えてるんですか」
「物は覚えてないけど、届けに来た顔は覚えてる」
妙な特技だと思った。私は逆だ。顔は覚えないが、物なら覚える。
体操着が一袋——刺繍の姓と年度から見て、持ち主はとうに卒業して成人している。英単語帳。書き込みは最初の三十ページで途絶えていた。世界共通の挫折の形に、つく値段はない。片方だけの上履きに至っては、もう哲学だ。片方を失くした人は、どうやって下校したのか。
スチール棚の二段目、奥まった位置に、その弁当箱はあった。
花柄の二段重ね。角の塗装が白く擦れている。鞄の中で毎日運ばれた品の擦れ方で、それも年単位だ。蓋には名前シールを剥がした跡。糊の縁がまだ粘るから、剥がされたのは最近になる。開けると箸が一膳、洗われて、乾いて、収まっていた。
台帳を引く。
「品名、弁当箱。花柄の二段」
「拾得日、四月十五日」
「拾得場所、中庭、植え込みの奥」
「拾得者、用務員。剪定作業中」
「植え込みの、奥?」
「刈り込みの日に見つかったんだって」
落し物が落ちる場所じゃない、とは思った。思っただけで流した。傘が四十七本ある部屋では、違和感は安売りされる。
棚に戻そうとしたとき、先輩が何か言いかけた。
「それは——」
「それは?」
「……いや。持ち主、来るかもしれないからさ。処分の順番、後ろのほうにしてあげて」
「順番は台帳どおりです」
下校時刻ぎりぎりまでかかって、処分予定の一覧を作った。未返却、締めて三百十二件。うち第一陣の公示対象が百件。
「明日の朝、掲示板に貼ります。二週間後、この部屋を空にします」
先輩は傘の森を見渡してから私を見て、頼もしいような怖いような、と笑った。
◇
翌朝、昇降口の掲示板に公示を貼り出した。
「遺失物処分予告。下記の物品は五月八日をもって処分します。心当たりのある者は旧校舎一階、遺失物保管庫まで」
以下、品名が百件、番号つきで並ぶ。花柄の弁当箱は三十七番だった。控えは手元に置き、番号と棚の対応も一覧にしてある。二週間後に迷いなく捨てるための、いわば処分の予習だ。
昼休み、開けたばかりの窓口に最初の客が来た。
「これ、音楽室の前に落ちてて」
女子生徒が差し出したのは、ワイヤレスイヤホンの片方だった。台帳に品名と場所と日付を書き、拾得者の欄に彼女の組を書く。規定の一条が動く瞬間を、はじめて自分の手でやった。悪くない事務だ。物がどこで止まったか、帳面に残る。
入れ違いに、先輩がのんきに顔を出した。
「おつかれ。あ、これ。予備鍵、出てきたよ」
「早いですね」
「机の奥にあった」
受け取って、素直に喜んだ。——この時点では。
窓口番を先輩に任せて、公示の控えと棚との突き合わせに回った。処分は二週間後でも、準備は今日からだ。
三十七番の棚の前で、手が止まった。
空いている。
弁当箱が、ない。
まず自分の記憶を疑い、次に台帳を引いた。
記入が、増えていた。
「四月十八日、持ち主返却済」
備考欄に一行。受取欄の署名は、ない。
おかしな点は三つある。
第一に日付。十八日は先週だ。昨日の棚卸しで、私はあの弁当箱を現物で確認している。手に取り、蓋を開け、箸まで見た。先週返された物が昨日まで棚にあるはずがない。つまりこの一行は、あとから日付を偽って書き足された。
第二に規定の二条。署名のない返却は、この帳面の上では返却ではない。あの弁当箱は行方だけが消えて、身分は落し物のまま宙に浮いている。
第三に、字だ。
最終ページを開き、昨日の引き継ぎメモと備考欄を並べる。「返」の跳ね方、数字の閉じ方。丸っこい、緊張感のない字。同じ手だった。
顔を上げる。窓口の向こうで、先輩はイヤホンの子と談笑していた。誰とでも三十秒でああなる人らしい。
その場では何も言わなかった。査定は物に訊け。人に訊くのは、物の証言が揃ってからでいい。
放課後、職員室で鍵の貸出簿を確かめた。昨日の放課後から今朝まで、保管庫の欄に貸出の記録はない。係用の鍵は昨日から私のポケットの中。それでも今朝の扉は施錠されたままで、こじ開けた傷ひとつなかった。
——出てきたら渡すよ、の予備鍵は、使い終わってから出てきたらしい。
貸出簿を返し、二年二組へ向かった。
◇
「戸倉先輩。三十七番の件で」
「……はい」
「日付を偽った記入。署名のない返却。引き継ぎメモと同じ筆跡。貸出簿に記録はなく、あの扉を開けられる鍵は三本だけ。係用は私のポケット、貸出用は動いていない。残る一本は、今日の昼に「出てきた」予備鍵です。以上です」
廊下の隅まで歩いてから、先輩は観念したように両手を軽く上げた。
「まとめ方が刑事なんだよ、早瀬さん。……盗んだんじゃないよ」
「知っています。盗む人は台帳に「返却済」とは書きません。あれを書いた人は、それが正しい姿だと思っている。返したんですね。持ち主に、直接」
頷きが返る。
「朝、公示を見たんだ。三十七番と、処分って文字。それで、まずいと思って。……あいつは窓口に来られないから」
「来られない」
「先週、一回だけ窓口の前まで来たんだ。昼休みの終わりかけに。で、何も言わずに帰った。気になる顔だったから、あとで捕まえて話を聞いた。——事情があるんだよ」
事情。うちの店のカウンターにも毎日届く、世界で一番かさばる荷物だ。
「規定を飛ばした自覚は」
「ある。でも規定より先に、あいつの昼飯の問題なんだよ。悪かったとは思うけど、順番はそっちが先だ」
開き直りではなく、本気でそう思っている顔だった。厄介なのはこういう人だ。
「先輩。署名のない返却は、規定の上では返却じゃありません。あの弁当箱は帳面の中で宙ぶらりんのまま、五月八日を待つことになる。私はそれが気持ち悪い」
「一件くらい、よくない?」
「一件の嘘を通した帳面は、全部の頁が疑わしくなります。うちの店なら、帳簿一行の嘘で信用が丸ごと飛びますよ。受取の署名をもらいに行きます。持ち主のところへ、案内してください」
「……事情ごと、記録する気?」
「記録するのは署名だけです。事情は、署名の邪魔をするなら聞きます」
先輩は長いこと私の顔を眺め、負けた側の息を吐いた。
「口、堅い?」
「店の娘です。買取カウンターは告解室と同じですよ」
◇
案内されたのは教室ではなく中庭だった。件の植え込みの前に、線の細い男子がひとり立っている。上履きの学年線は私と同じ一年の色。先輩が先回りして、話は通してあったらしい。
「蓮見。……こっちが早瀬さん。係の、新しい人」
蓮見くんの両手に、あの弁当箱があった。それが、突き出すように差し出される。
「返します。これ、保管庫に戻してください。それで処分の日が来たら、そのまま——」
「断ります」
箱は受け取らなかった。彼の指が、蓋の角の白く擦れたあたりを握り込んでいる。手放す人間の持ち方ではなかった。
「……署名をしたら、残るんですよね。僕があれを「中庭の植え込みの奥」で失くした人間だって、あの帳面に」
台帳は公文書ではないし、進んで読む人間もいない。けれど彼の中では、読まれるかどうかより、残るかどうかの問題であるらしかった。分からなくはない。うちの店にも、売った記録を残したくない客はたまに来る。
「蓮見くん。ひとつ、商売柄の話をします」
弁当箱を指さす。
「角の擦れは、鞄で毎日運ばれた品の擦れ方です。年単位の。名前シールの糊はまだ粘っていたから、剥がされたのはこの春。中の箸は洗って乾いていました——落とした弁当の中身じゃない。一度家に帰り、洗われ、拭かれて、それからあの植え込みに来た。そして「奥」。あそこは物が落ちる場所じゃなくて、押し込む場所です」
グラウンドから、遠く野球部の掛け声が聞こえた。彼は何も言わない。
「あれは落し物じゃない。捨てられた物です。——ここまでは全部、物が勝手に喋ったことです。私は誰にも訊いていません」
蓮見くんは植え込みを見た。四月のはじめより葉の増えた、刈り込まれたばかりの緑を。それから、白状する側の順番で息を吸った。
「……笑われたんです。柄と、中身を、まとめて」
うちは弁当を親父が作るんで、と彼は言った。箱は昔から家にある物をそのまま使っている。この柄は、と言いかけて、そこだけ飲み込んだ。私も訊かなかった。カウンターの流儀だ。
四月の二日目、柄と、卵焼きの甘さと、その全部をまとめてからかわれた。翌朝とっさに「弁当箱を失くした」と嘘をつき、ついてしまってから、本当に失くすしかなくなった。
植え込みに押し込み、昼は購買のパンにした。父親は何も訊かず、翌週から千円札で昼食代を渡すようになったという。
「パン、うまいか、って一回だけ訊かれました。うまいって答えました。……それも嘘です」
嘘は二個になった。数えている本人の顔だった。
「取り返しに行こうとは、したんです。何回も。窓口の前までは行ったんです。でも、行けば名前を書くんでしょう。帳面には拾われた場所も書いてあるんでしょう、「植え込みの奥」って。……嘘が、形になって残る」
だから今朝の公示に青くなり、先輩に泣きついた。先輩は規定を飛ばして返してやった。それで終わるはずが、規定のほうが追いかけてきた。
——私のことだ。
台帳を開き、三十七番の頁を彼に向けた。
「訂正します。まず、これは誤記なので」
例の一行に定規で二重線を引く。消しはしない。消すのは訂正ではなく改竄だ。線の下に続けて書く。
「右は誤記。四月二十四日、持ち主判明。中庭にて返却、受取確認」
「拾得場所は消せません。事実だからです。ただ、蓮見くん。この帳面が言っているのは「中庭で弁当箱を失くした一年生がいた」——それだけです。捨てた、とはどの行にも書いていない。物はよく喋りますが、帳面は訊かれたことにしか答えません。そして、この帳面に訊きに来る人間は」
傘が四十七本並ぶ部屋を思い浮かべる。
「いません。在庫の山に埋もれた頁です。断言します」
「……署名って、フルネームですか」
「規定は「署名をもらうこと」としか言っていません。苗字だけで有効です」
蓮見くんは、はじめて少しだけ息を吐いた。笑ってはいない。ただ、蓋の角を握り込んでいた指がほどけた。私の差し出したペンを受け取り、受取欄に細い字で二文字書く。書き終えて、もう一度だけ植え込みを見た。
「……ありがとうございました。それと、すみませんでした」
「謝る相手は、帳面じゃないと思います」
彼は箱を抱え直し、小さく頷いて、帰っていった。その背中に先輩が「またな」と声をかけ、返事の代わりに、箱が少しだけ持ち上がった。
◇
翌朝、昇降口で蓮見くんとすれ違った。鞄の横に布の包みが提がっていた。中身は見ていない。見なくても、角の形で分かった。
◇
放課後、保管庫の前に先輩が立っていた。予備鍵は昨日のうちに職員室へ納めたから、今日は正しく、ただの来客だ。
「手伝うよ。前任者として。三百十二件、一人じゃ返しきれないでしょ」
「処分しきれない、の間違いでは」
「返せば減るのは同じじゃん」
同じだ。悔しいことに、完全に同じだった。返却は最速の処分。うちの店で言うなら仕入れ即売却、在庫ゼロは商売の理想形だ。
それに、認めたくはないが実証もされている。物の証言だけなら、私は蓮見くんを「嘘つきの一年生」として帳面に残して終わっていた。物を読む目と、人を覚える目。窓口には両方あるほうが、たしかに回る。
「顔と事情はそちらの担当です。物と帳面はこちらで持ちます」
「割り振り早いなあ。……ねえ、早瀬さんはさ、なんでそんなに捨てたいの」
「別に」
それ以上は訊いてこなかった。買取カウンターの流儀が、この人にも少しはあるらしい。
台帳の三十七番の行に定規を当て、繰越の数を直す。未返却、三百十一件。ついでに処分予定の控えを出して、何件かに印を付けた。処分より先に、返せそうな物の印だ。方針転換ではない。効率の見直しと呼んでほしい。
「それ、演劇部の蛇の目にも付けといて」
「顔、覚えてるんですね」
「物は覚えてないけどね」
傘は、まだ四十七本ある。明日から減らす。
◇
閉め際、繰越を直したついでに検算したくなった。台帳の繰越は十二冊分。どこかで狂っていない保証はない。束のいちばん下から、最初の一冊を抜く。表紙は色が抜け、綴じ糸が緩んでいた。
開くと、最初の頁に第一号がいた。
「一番。万年筆。黒、キャップに疵」
「拾得場所、旧音楽室」
「状態、未返却」
日付の元号は、二つ前だった。
万年筆。昨日の棚卸しの記憶を浚う。——ない。傘は四十七本まで数えたのに、万年筆は一本もなかった。第一号は台帳の上にだけ在って、この部屋のどこにも無い。
欄外には、時代も濃さも違う筆記具の字が並んでいた。
「捜索」
「捜索」
「見つからず」
歴代の係が、代替わりのたびに書き足してきたらしい。いちばん新しいのは丸っこい緊張感のない字で、その隣が、ひとつ分だけ空いている。
ペンを取って、書いた。
「捜索」
物は嘘をつかない——祖父の言うとおりだ。けれど、あれは半分足りない。落し物は嘘をつかない。嘘をつくのも、隠すのも、探しに来られないのも、いつだって人間のほうだ。
だから、この部屋には係がいる。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
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