閑話:side九条院紗夜
名門、九条院家。
その名に恥じぬよう、私は幼い頃からあらゆる「最強」を求められて生きてきた。期待に応えるのは当然の義務であり、同世代の誰よりも前を歩み、誰よりも気高くあること。それが九条院紗夜という人間に課せられた不変の命題だった。
だからこそ、あの日、演習後のダンジョンで彼を最初に見かけた時、私は言いようのない衝撃を受けたのだ。
彼は当時、まだ一介の盾士に過ぎなかった。しかし、その瞳。泥臭い基礎訓練を繰り返す彼の瞳には、並の生徒にはない、重く鋭い「力強さ」が宿っていた。
他のパーティーメンバーが談笑しながら帰路につく中、彼は一人、残光が消えるまでメイスを振り、盾を構え直していた。その勤勉さと、初級職とは思えぬ無駄のない挙動。
(……もしかしたら)
いつしか私は、彼を「気になる人」として認識し始めていた。それは淡い恋心などという生温いものではなく、いつか、この私が横に並び立つことを許すかもしれない唯一の対等な存在への、期待に似た予感だった。
しかし、その期待は残酷な形で裏切られることになる。
彼が盾士としてレベル50、初級職の極致に達したあの日。学年で一番早く中級職へ転職し、私が至れていない高みに昇るだろうと確信していた矢先、彼は「別の初級職」へと転職した。
……失望だった。
勝手に期待を寄せ、勝手に彼を評価していたのは私だ。けれど、目の前で至宝の如き才能を自ら溝に捨てるような彼の選択に、私は激しい怒りさえ覚えた。
「……あなたには失望したわ」
思わず言ってしまった言葉に少しの後悔を覚えつつも、彼のことを意識の外へ追いやった……はずだった。
なのに。
盾士とは全く勝手が違うはずの魔法使いになっても、彼はやはり「彼」のままだった。20層の合同攻略で見せた、一分の隙もない的確なスキル発動。後衛でありながら戦場全体を俯瞰し、まるですべての事象を予見しているかのような立ち回り。
そして彼は遠回りをしたはずなのに、誰よりも早く中級職をカンストさせた。
けれど、そこで選んだ職が大魔法使いだと聞いた時、私はもうわからなかった。
上級職が存在しない「ハズレ職」。
何故こんなにも無駄と思えるようなことばかりするのか、彼が何を目指し、どうしてそれほどの才能を無駄遣いし続けるのか。問い詰めたい気持ちを抑え、私はただ、沈んでいく彼の背中を悲しく見つめることしかできなかった。
――そして、運命の30層攻略。
第三十層で私たちを待っていたのは、教官の事前説明とは似ても似つかぬ、地獄の化身だった。
【深淵の処刑人】。
その存在を認識した瞬間、私の魂が警鐘を鳴らした。これは戦っていい相手ではない。逃げなければ、死ぬ。
教官たちが捨て身の攻撃を仕掛け、しかし赤子のように一蹴される光景を目の当たりにし、クラスメイトたちは恐慌に陥った。撤退の指示。我先にと出口へ殺到する人々。
その混乱の中、死神の鎌が、逃げ遅れた鈴木さんを捕らえた。影の鎖に絡め取られ、引きずられていく彼女。
(助けなきゃ……!)
そう思うのに、私の身体は恐怖に縛られ、一歩が出ない。
だが、その絶望を切り裂いたのは、やはり彼だった。
「【四子竜撃】……!!」
大魔法使いというジョブではあり得ないほどの、暴力的とも言える魔力の奔流。八体もの魔竜がボスを飲み込み、その隙に彼は鈴木さんを救い出した。
……けれど、その力ゆえに、死神の殺意が彼に固定される。
凄まじい速度で肉薄する大鎌。逃げるのに後衛職の彼では間に合わない。
その時、私の頭から思考が消えた。
なぜ、そんな真似をしたのかは分からない。ただ、身体が勝手に動いていた。
私は彼の身体を突き飛ばし、代わりに迫りくる衝撃を正面から受け止めた。
内臓が焼けるような衝撃。視界が火花を散らし、私は彼と共に床を転がった。
「逃げなさい……結城君。早く……皆を連れて」
痛みを堪え、気丈さを装って私は彼に告げた。
彼は後衛の中級職。今の一撃で、彼の高火力魔法ですらボスには通用しないことが分かってしまった。ここにいても、彼は殺されるだけだ。
私なら……上級職の近接職である私なら、命と引き換えに逃げるだけの時間を稼ぐことくらいはできるかもしれない。
私は血を吐きながら立ち上がり、死神へと向かっていった。
惨めな戦いだった。
今までの研鑽がすべて無駄だったと嘲笑うかのように、私の細剣は外套の一片すら傷つけることができない。裏拳一つで吹き飛ばされ、身体中の骨が軋みを上げる。
それでも、私は九条院家の娘なのだ。クラスメイトを置いて逃げることなど、死んでもできない。
せめて一矢……。
その願いも虚しく、私は無慈悲に床へと叩きつけられた。
視界の端で、クラスメイトたちが動くこともできず、ただ震えているのが見える。
(ああ……私は、何をやっているのかしら……)
薄れゆく意識の中。
彼が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
だめ。逃げて。そう叫びたかったけれど、喉からはヒューヒューと漏れる呼吸の音しか出ない。
……ごめんなさい。
頭上で、巨大な大鎌が死の軌道を描いて振り下ろされる。
私は最期までその死神の相貌を睨みつけた。九条院紗夜として、心まで折れてはいないという、あまりにも無為で、あまりにも誇り高い意地を張って。
――キィィィィィィン!!
鼓膜を劈くような、高く鋭い金属音が鳴り響いた。
死の衝撃は、いつまで経っても来ない。
「え……?」
信じられない光景が、そこにあった。
目の前には、彼が。結城君が立っていた。
なぜ。どうして。
あの距離を、走って間に合うはずがない。そもそも彼は後衛職のはずだ。なのに、どうして。
彼の手に握られた、見たこともないほど美しく、白銀に輝く剣。
彼は、誰も敵わなかった死神の攻撃を、たった一振りの剣で平然と受け止めていた。
呆然と、その背中を見つめる私に、彼は肩越しに言ったのだ。
「遅くなってごめん、九条院さん」
その声を聞いた瞬間、私の心臓が、恐怖とは別の理由で大きく跳ねた。
そこからの光景は、もはや「戦闘」と呼べるものではなかった。
彼はボスの猛攻をすべて見切っているかのように鮮やかに弾き返し、間髪入れずに反撃を仕掛けていく。
見たこともない技術だった。
剣筋を追うように幾重もの魔法陣が展開され、刃に属性の魔力が宿る。
「剣に魔法を、纏わせている……?」
騎士の技と、大魔法使いの術。それらが完全に融合し、一つの「暴力」となって死神を解体していく。
今まで何一つ通用しなかったはずのボスが、苦悶の声を上げ、結城くんの一振りに怯え、退がっていく。
私たち全員を絶望の淵に追い込んだ死神を、たった一人で、一方的に追い詰める白銀の輝き。
その、あまりにも美しく、あまりにも圧倒的な彼の後ろ姿に。
私は、追い求め、いまだ届いていない「最強」の正体を、確かに見た気がした。




