第32話:嵐の前の静寂
土曜日の朝、未明。
カイトは一人、統合ダンジョンの入り口に立っていた。
少し冷たい空気が肺を刺す。だが、その瞳には凍てつくような冷静さと、底知れぬ熱が同居していた。
「……十六層、転移」
転送門が放つ淡い光に包まれ、カイトの姿が消える。
彼が降り立った先は、これまでの草原フィールドとは一変した、永遠の夜に支配された世界だった。
頭上には不気味なほど巨大な月が居座り、銀色の光が波打つ草原を照らしている。十六層から二十層――ここからは「夜の草原」と呼ばれる領域だ。
カイトは『宝物庫』から『雷狼の盾』を引き出し、左腕の重みを確かめる。
レベル32。魔法使いとしては中堅に差し掛かったが、この階層の推奨レベルは45以上。本来ならフルパーティで挑むべき魔境だ。
草むらが不自然に揺れた。
銀色の毛並みを持ち、月の光を反射して輪郭をぼかす狼――ムーンライト・ストーカーだ。
視覚的な「残像」を残しながら、音もなくカイトの背後へと回り込む。だが、カイトは動じない。盾士として数多の戦場を潜り抜けた彼にとって、視覚情報の攪乱など通用しない。
「【複製魔法陣】」
足元に光の紋様が展開される。
直後、死角から襲いかかった狼の爪を、カイトは見ることなく盾の縁で弾いた。
「【炎弾】」
至近距離で放たれた二重の爆炎が、輪郭のぼやけた狼を正面から焼き尽くす。
間髪入れず、草原の奥から甘い香りの霧が漂ってきた。ウィスプ・ランタン。美しい鬼火に見えるそれは、獲物を眠らせ、混乱させる食虫植物の罠だ。
カイトは魔力を練り上げながら、あえて接近した。
「【雷撃】」
本来魔法使いとしての接近された時用の魔法、それを盾の防御力を利用した新たな動き。漂う霧を魔力の雷で霧散させ、敵をしびれさせる。そのまましびれている敵本体に向け、【魔力矢】を連射し、その核を粉砕した。
土曜日、日曜日。ポーションで疲労を誤魔化しながら夜の草原を蹂躙し続けた。
闇に紛れて「影縫い」を仕掛けてくるシャドウ・マンティスに対しては、影を刺される瞬間に【短距離テレポート】で位置を変え、逆にその頭上から魔法を叩き込む。
そして、星のような鉱石を纏ったスターライト・ゴーレム。その頭部から放たれる貫通力の高い「星光レーザー」に対しては、カイトは盾を傾けて直撃しないようレーザーを逸らす。
「……これだ。魔法を使いながらも『防ぐ』、その感覚が分かってきた」
月曜日から木曜日の演習時間。
カイトはクラスメイトたちが驚愕するのを余所に、黙々と階層を進め、レベルを上げ続けた。
【初級経験値ブースト】の効果は凄まじい。格上の敵を二重発動の魔法で効率よく狩り続けることで、カイトの経験値ゲージは狂ったような速度で上昇していった。
そして金曜日の朝。
カイトのステータスには、かつての自分に肉薄する数字が刻まれていた。
『現在のジョブ:魔法使い』
『現在のレベル:48』
金曜日のホームルーム。
教官が教卓を叩くと、室内は静まり返った。
教官は出席簿から目を上げ、教室の一角に座るカイトを鋭い眼光で射抜いた。
「……発表の通り、明日は二十層の合同攻略だ。現在のクラスの状況を確認したが、ほとんどの者が中級職への昇格を済ませている。……だが」
教官の言葉が途切れ、視線がカイトに固定される。
「結城。お前はまだ、初級職のままだろう。レベルは上がっているようだが……それでも中級職には届いていない。どうする。今回の攻略は、これまでとは次元が違う。命の危険もある。……参加を辞退するか?」
その問いに、教室中がざわめいた。
聞こえてくるのは、隠そうともしない嘲笑と蔑みの声だ。
「まだレベル50に届いてないのかよ」
「魔法使い一人で何ができるんだ? 足を引っ張るだけだろ」
「盾士の時はあんなに凄かったのに、今じゃクラスの最底辺か。無様だな」
カイトはそれらの声を、風に舞う塵のように聞き流した。
彼は静かに立ち上がり、教官の目を真っ直ぐに見返した。
「問題ありません。参加させてください」
カイトの短い返答に、嘲笑の声は一段と大きくなった。
「死にたいのか」「自意識過剰だ」と罵声が飛び交う。その重苦しく、排他的な空気を切り裂いたのは、一際大きな、快活な声だった。
「――おいおい! カイト、またお前と同じ戦場に立てるのか! 嬉しいぜ、よろしくな!」
佐藤だった。
彼はクラスの喧騒を力技で黙らせるように、カイトに向かって大きく手を振った。
佐藤たちのパーティーは相変わらず学園の最前線を九条院パーティーと張り合うように走っており、中級職としてのレベルもすでに20を目前としている。実力者である彼が声を上げたことで、クラスメイトたちはバツが悪そうに口を閉ざした。
九条院は何も言わなかったが、その冷徹な瞳はカイトの「変化」を値踏みするように見つめていた。
教官は佐藤を一度黙らせ、改めて全体に向き直った。
その表情には、これまでにない厳しさが宿っている。
「……いいだろう。結城の参加を認める。ただし、自分の命は自分で守れ。……では、明日の攻略目標、二十層守護者の内容を伝える」
教官が黒板に魔力を込める。
そこに映し出されたボスの姿を見た瞬間、中級職へと上がったはずの生徒たちの顔から、一気に余裕がなくなった。
「二十層ボス、名は――」
教官の言葉が紡がれる直前。カイトは静かに、人差し指の『追憶の指輪』をなぞった。
嵐が、始まろうとしていた。




