【第95話:水底の嘲笑】
王宮の扉を押し開けると、そこは広大な謁見の間だった。 崩れ落ちた天井から差し込む微かな光が、水中に舞う塵を照らし出している。 その最奥。 かつて人魚王が座っていたであろう玉座の前に、巨大な台座があった。 そして、そこは――空っぽだった。
「……ない。やっぱり」
ラピスがその場に崩れ落ちる。 台座には、無理やり何かを引き剥がしたような亀裂が走り、周囲には切断された魔力ケーブルが散乱している。 機神の【左脚】。 深海を自在に潜行し、空さえも駆ける機動力の要。 それはもう、ここにはない。
「……レイン様。マナ反応がありますわ。台座の上……」
セリアが眼鏡を押し上げ、警戒を促す。 台座の中央に、小さな水晶が置かれていた。 僕たちが近づくと、水晶が不気味な青い光を放ち、空中に映像を投影した。
『――ようこそ、招かれざる客たちよ』
映し出されたのは、痩せこけた男だった。 青い法衣を纏い、手には奇妙な形の杖。 顔色は死人のように白く、目は爬虫類のように細い。
【水の司教:ハイドラ】 所属:サンクチュアリ幹部 推定Lv. 55
『私はハイドラ。この深海都市の「浄化」を担当した者だ』
映像の中のハイドラは、薄ら笑いを浮かべてお辞儀をした。
『君たちがここに来ることは予測していたよ、ガントの息子。……だが、残念だったな。機神の脚は既に我が手中にあり、聖櫃へと組み込まれた』
「……よくも、お父様たちを!」
ラピスが叫び、水弾を放つが、それは映像をすり抜けて壁に当たっただけだった。 ハイドラは嘲るように続ける。
『悲しむことはない。彼らは偉大なる機神の一部となり、星の礎となったのだ。……さて、君たちには礼を言わねばならん』
彼が杖を振るうと、映像が切り替わった。 映し出されたのは、雪と氷に閉ざされた極寒の大地。 そして、その中央に聳え立つ、天を衝くほどの巨大な建造物――教団の本拠地だ。
『我々は北へ帰る。……暗黒大陸ゼノビア。「死の都」にて、機神の最終覚醒を行う』 『指をくわえて見ているか、あるいは……死にに来るか。好きにするがいい』
プツン。 映像が消え、水晶が砕け散った。 静寂が戻る。 残されたのは、怒りと、無力感だけ。
「……ナメやがって」
ガルが拳を壁に叩きつける。 ドンッ! 王宮全体が震えるほどの威力だ。
「北の大陸……ゼノビアか」
僕は呟いた。 そこは、人類の生存圏外。魔物と極寒が支配する死の世界。 そして、古代に機神が暴走し、文明を滅ぼした場所でもある。
「罠ですわね。……わざわざ居場所を教えるなんて」 「ああ。誘っているんだ。……僕たちが持つ『頭部』『右腕』『左腕』を回収するために」
パーツは5つ。 教団が持っているのは「胴体」と「左脚」。 僕たちが持っているのは3つ。 数では勝っているが、向こうには「本拠地」という地の利と、洗脳された「異界の剣士」がいる。
「……どうする、レイン?」
エリルが僕を見る。 迷いはない。行くしかないのだ。 だが、ただ行くだけでは飛んで火に入る夏の虫だ。
僕は砕け散った水晶の破片――ハイドラが映像を残すために使った魔石を拾い上げた。
「……セリア。これ、解析できるか?」 「え? ただの記録媒体の残骸ですわよ?」 「奴はこの映像を送るために、北の本拠地と『通信』を行ったはずだ。……その通信ログが残っていれば」
セリアの目が輝いた。
「座標! ……正確な敵の位置が特定できますわ!」 「そうだ。奴らは親切にも招待状を置いていったが……そこに『裏口』の場所までは書いていないだろうからな」
僕はニヤリと笑った。 ハイドラの慢心が命取りだ。 正面から突っ込むと見せかけて、正確な座標をもとに、敵の防空網の死角から侵入する。
「それに、これを見て」
ラピスが台座の裏側を指差した。 そこには、古代文字でメッセージが刻まれていた。 機神のパーツを守っていた、先代の人魚王が残した遺言だ。
『機神の左脚は、推進力を司る。……だが、その制御キーは別にある』
「制御キー?」 「ええ。……ここにはないわ。父様は、奪われる前に『ある場所』へ隠したのよ」
ラピスが自分の胸元から、真珠のペンダントを取り出した。 淡い光を放つ、美しい宝石。
「これがキーよ。……奴らは『左脚』というハードウェアだけを奪っていった。でも、それを動かすための『ソフトウェア(起動鍵)』はここにある」
大金星だ。 教団は左脚を手に入れたつもりでいるが、それでは完全な性能を発揮できない。 逆に言えば、この鍵があれば、敵の懐に入ってから左脚の制御を奪い返すことも可能だ。
「……勝機は見えたな」
僕は全員を見渡した。
「目的地は北大陸ゼノビア。……教団の本拠地へ殴り込みだ」 「おう! 寒中水泳だな!」 「……うふふ、死の都……ゾンビがいっぱい……」 「今度こそ、決着をつける」
Sクラスの士気は高い。 僕たちは王宮を出て、再び**【リヴァイアサン号】**へと戻った。 深海での用事は済んだ。 次は、空へ。 そして、世界の果てへ。
潜水艦が浮上を開始する。 窓の外、遠ざかるアトランティアの廃墟に向かって、ラピスが静かに祈りを捧げていた。 さようなら。そして、必ず戻ってくる。
海上に出ると、そこには満天の星空が広がっていた。 その北の空に、赤く不吉な星が瞬いているのが見えた。 魔王の覚醒まで、残された時間は少ない。
「……待ってろよ、カズヤ」
僕は北を睨みつけた。 次会う時は、絶対に負けない。 僕たちの「冒険」の成果を、叩きつけてやる。




