【第94話:蒼き廃都の散歩者】
ズズズ……ン。 海賊の潜水艦『リヴァイアサン号』が、深海都市アトランティアの「外縁部」にあるドックに着底した。 ハッチが開く。 本来なら、6000気圧もの海水が鉄砲水のように押し寄せ、僕たちを一瞬で圧殺するはずの瞬間だ。
「……あれ? 水が入ってこないぞ?」
先頭で飛び出したガルが、キョトンとして自分の手を見ている。 ハッチの外は、確かに海水で満たされている。 だが、僕たちの周囲だけ、まるで透明な薄い膜に覆われているかのように、水が弾かれていた。
「さあ、降りましょう。……私の最高傑作、**【深海適応結界】**の性能実験ですわ!」
セリアが胸を張り、優雅にタラップを降りていく。 僕たちも続く。 海底の地面に足がついた。 ふわふわと浮くわけでもなく、水の抵抗で動きが鈍るわけでもない。 まるで、地上の夜道を歩いているかのような感覚。
「……不思議な感覚だねぇ。水の中なのに、服も濡れないし、息もできる」
イズナが興味深そうに、結界の境界線を指で突く。 指先から先だけが水に濡れ、冷たさを伝えてくる。
「どういう理屈なんだい、旦那?」 「簡単なことさ。……僕たちの皮膚の表面1ミリに、超高密度の『空気の膜』と『重力制御』を固定しているんだ」
僕は歩きながら解説した。
「普通の水中呼吸魔法だと、水の抵抗(粘性)までは消せないから、動きが鈍くなる。だからセリアに頼んで、**『水を排除する』**方向で術式を組んでもらった」 「つまり、俺たちの周りだけ常に『陸上』があるってことか!?」 「ご名答ですわ、筋肉さん! さらに重力魔法で浮力を相殺していますから、海底をしっかりと『歩く』ことができますの!」
セリアが得意げに鼻を鳴らす。 これなら、戦闘になっても地上の感覚のまま戦える。 Sクラスの火力を維持するための、必須環境だ。
「……すごい。昔の魔法使いでも、こんな芸当はできなかった」
人魚のラピスが、感心したように呟く。 彼女は本来、水中を泳ぐ種族だが、今は僕たちに合わせてヒレを魔法で足に変え(人魚族特有の変身魔法だ)、一緒に歩いている。
僕たちは、都市の大通りへと足を進めた。 そこは、言葉を失うほど美しく、そして残酷な光景だった。
建物はすべて、透明感のある水晶や珊瑚で作られている。 街灯の代わりに、発光する海藻やクラゲがゆらゆらと漂い、都市全体を淡いブルーの光で照らし出していた。 音のない世界。 だが、その静寂を破るように、教団が残した爪痕が刻まれている。
「……見て」
エリルが指差す。 大通りの中央には、巨大なクレーターが穿たれていた。 空から撃ち込まれた「光の杭」の跡だ。 美しい水晶の塔はへし折られ、瓦礫が散乱している。 本来なら賑わっていたであろう広場には、誰もいない。 ただ、壊れた楽器や、逃げ惑った際に落としたであろう装飾品が、砂に埋もれているだけ。
「……誰も、いないのね」
ラピスの声が震える。 死体すらない。 おそらく、海の藻屑となって消えたか、あるいは潮流に流されたか。 あまりにも静かすぎる廃墟。
「……うふふ、ここはいい場所……。悲しみのマナが沈殿してる……」
エリスだけが、水を得た魚(あるいは霊)のように生き生きとしているが、その言葉がかえって都市の死を際立たせていた。
「行こう。……王宮はあそこだろ?」
僕は気まずい沈黙を破るように、都市の一番高い場所にそびえる、真珠色に輝く城を指差した。 あそこなら、都市の中枢機能があるはずだ。 左脚に関する記録も、残っているかもしれない。
僕たちは瓦礫を踏みしめ、王宮への階段を登り始めた。 水中とは思えないほどクリアな視界。 頭上を見上げれば、遥か彼方に海面からの微かな光が揺らめいている。 深い、深い海の底。 ここは世界から切り離された、蒼い墓標だ。
「……絶対に、許さない」
ラピスが小さな拳を握りしめ、呟いた。 その怒りは、僕たち全員の胸にも静かに燃え移っていた。 美しいものを壊し、踏みにじった教団。 その報いを受けさせるために、僕たちは進む。
王宮の巨大な扉が見えてきた。 その奥で待つものが、希望か、それとも教団からの嘲笑か。 僕たちは覚悟を決め、その扉に手をかけた。




