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【第9話:空を覆う絶望、世界という名の理不尽】

父さんとの剣術修行が始まって一ヶ月。 僕は初めて、街の外にある「迷いの森」の浅い階層へと足を踏み入れていた。 目的は、増えすぎたワイルドボア(野猪)の駆除。 あくまで訓練の一環だが、実戦だ。


「いいかレイン。ボアは突進しかしてこないが、まともに喰らえば大人でも骨が折れる。躱して、横から首を狙え」 「わかった」


父、ガントが後ろで見守る中、僕は草むらをかき分けた。 気配察知は**【隠密】**スキルを持つ僕の得意分野だ。それに、少し離れた木の梢には、エリルが張り付いて援護の構えを取っているのも分かっている。


ガサッ。 茂みから巨大な猪が飛び出した。 速い。だが、見える。


(右足に重心……来る!)


僕は【身体強化】で反応速度を上げ、ボアの突進を紙一重で回避する。 すれ違いざま、父さんから借りたショートソードをボアの首筋に走らせる。 浅い。皮が厚すぎる。 だが、ボアが体勢を立て直そうとした瞬間、何もない空間で足をもたつかせた。 エリルの投石だ。正確にボアの目元を掠めたらしい。 その隙を見逃さず、僕は全体重を乗せて剣を突き刺した。


「……ふぅ」


ボアが動かなくなるのを確認し、剣を引き抜く。 これで三頭目。 僕は汗を拭い、父さんの方を振り返った。


「どう? 父さん」 「……ああ。初めてにしちゃ上出来だ。それに、妙に運がいいな」


父さんは苦笑しながら、周囲の森を見渡した(恐らくエリルの気配には気づいているが、あえて言及していないのだろう)。


「Lv.5にしては動きが良すぎる。レイン、お前は天才かもしれん」


父さんの言葉に、僕は少しだけ胸を張った。 いける。この調子なら、10歳になる頃には父さんに追いつけるかもしれない。 僕には前世の知識も、鑑定も、隠密もある。 この世界は、僕のためにあるゲームのようなものだ――。


そんな傲慢な思考が頭をもたげた、その時だった。


ピタリ、と。 森の音が消えた。 さっきまでやかましく鳴いていた鳥の声も、風が葉を揺らす音も、虫の羽音も。 全てが唐突に、スイッチを切ったように止まった。


「――ッ!?」


父さんの顔色が、一瞬で蒼白になった。 普段の余裕ある態度は消え失せ、目が見開かれ、脂汗が噴き出している。


「レイン! 動くな!!」


父さんが叫ぶような、けれど押し殺した声で命じ、僕の体を乱暴に引き寄せて大木の根元に押し込んだ。 そして自分もその上に覆いかぶさり、完全に気配を消した。


「父さん……?」 「声を出すな! 息もするな! ……祈れ!」


父さんの腕が震えている。 あのLv.45の、元近衛騎士の父さんが、震えている? 直後、空が暗くなった。 雲ではない。 「何か」が、太陽を遮ったのだ。


ズズズズズ……と、重低音が大気を震わせる。 上空を、巨大な質量が通過していく。 僕は父さんの腕の隙間から、恐る恐る空を見上げた。


黒。 視界を埋め尽くすのは、漆黒の鱗。 翼だけで森全体を覆うほどの、圧倒的な巨体。 ドラゴンだ。 お伽話やゲームに出てくるような生優しいものじゃない。 生物としての格が違う。あれは、空を飛ぶ災厄そのものだ。


僕は本能的な恐怖で心臓が破裂しそうになりながらも、震える視線をその「絶望」に向けた。 知りたい。あれは何だ。 この世界の頂点にいる存在の、正体が見たい。 僕は奥歯が砕けるほど噛み締め、魔力を視神経に叩き込んだ。


『鑑定』――!


バチンッ!!


脳内で何かが弾ける音がした。 同時に、両目から血が噴き出すような激痛が走る。


【警告:解析不能】 【警告:格差過大】 【警告:精神汚染の危険あり】


赤い文字が視界を埋め尽くす。 それでも、僕は情報の断片を無理やり抉じ開けた。


【黒竜王・ニーズヘッグ】 種族:古龍エンシェント・ドラゴン Lv. 180 状態:ただ、在る


「……あ、ぐ……」


レベル、180。 父さんの4倍? いや、レベルの数値は単純な足し算じゃない。対数的に強さが跳ね上がるはずだ。 Lv.45が「超人」なら、Lv.180は「神」に近い。 僕(Lv.5)なんて、道端の塵ですらない。 あの竜にとって、僕たちは「敵」ですらないのだ。ただの風景の一部。踏み潰しても気づかない蟻。


竜は一度も地上を見ることなく、悠然と飛び去っていった。 ただ通り過ぎただけ。 それだけで、森の魔物たちは恐怖で失禁し、気絶していた。


風圧が遅れてやってくる。 大木がミシミシと悲鳴を上げ、葉が嵐のように舞い散る。 それが収まってから数分後。 父さんはようやく僕を解放し、地面にへたり込んだ。


「……はぁ、はぁ、はぁ……」


父さんの鎧は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。 僕は涙と鼻水、そして目から流れた一筋の血を拭いながら、呆然と空を見つめていた。


「父さん……あれは……」 「……黒竜王だ。この大陸の『主』の一柱だよ」


父さんは震える手でタバコを取り出し、火をつけようとしたが、手が震えて上手くつかない。


「俺が王都の騎士だった頃、一度だけ遠目に見たことがある。……軍隊が一つ、ブレス一発で消し飛んだ」 「……勝てないの?」 「勝つ? バカを言え」


父さんは自嘲気味に笑い、煙を吐き出した。


「あれは『災害』だ。台風や地震に剣で勝とうとする奴がいるか? ……俺たち人間にできるのは、通り過ぎるのを待つことだけだ」


僕は自分の手を見た。 さっきボアを倒していい気になっていた自分が、死ぬほど滑稽に思えた。 この世界は、広いなんてもんじゃない。 理不尽なほどの暴力が、空の上を悠々と飛んでいる。 僕が目指していた「強さ」なんて、あの竜から見れば誤差ですらない。


「……」


木の上から、エリルが降りてきた。 彼女もまた、顔面蒼白で足がガクガクと震えている。普段の冷静な仮面は剥がれ落ち、ただの怯える子供に戻っていた。 僕はエリルの肩を抱き寄せ、父さんを見た。


「父さん」 「……なんだ」 「僕は、強くなりたい」


言葉の意味が変わった。 今までは「楽に生きるため」「守るため」だった。 でも今は違う。 あんな理不尽な存在に、ただ祈るだけの蟻でいたくない。 いつか、あの空を見上げても絶望しないだけの、本当の力が欲しい。


「……あれを見ても、まだそう言えるのか」 「うん。……むしろ、燃えてきた」


強がりじゃない。 恐怖の裏側で、僕の「魂」が震えていた。 前世では、社会という理不尽に押しつぶされて死んだ。 今世でも、また理不尽に怯えて生きるのか? 冗談じゃない。


父さんは僕の目をじっと見つめ、やがて短くなったタバコを踏み消した。


「……いい目だ。だが、修羅の道だぞ」 「望むところだ」


父さんは立ち上がり、僕の肩を強く叩いた。


「帰るぞ。今日はもう狩りどころじゃない」


僕とエリル、そして父さんは、逃げるように森を後にした。 背中に残る黒竜の残滓。 それは僕の心に、消えない恐怖と、それを超えるための強烈な渇望を刻み込んだ。

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