【第81話:虚空の翁】
翌朝。 僕はエリルだけを連れて、長老に教えられた山道――というより、崖にへばりつく獣道を登っていた。 湿った苔の匂いと、冷たい霧。 ここから先は、天狗たちですら滅多に近づかない「聖域」らしい。
「……レイン。気配がない」
エリルが短剣を抜き、周囲を警戒する。 彼女の**【索敵】**スキルは一級品だ。虫一匹の動きも見逃さない。 だが、その彼女が「何もいない」と言う。 なのに、僕の肌はビリビリと痺れている。 まるで、空気そのものが刃物になったような緊張感。
「……いるよ。そこに」
僕は足を止め、霧の晴れ間にある粗末な庵を見た。 庭先で、一人の老人が竹箒を持って立っていた。 枯れ木のように痩せ細った老人だ。 ボロボロの着流し。腰には、飾り気のない木刀が一振り。 彼はただ、落ち葉を掃いている。 サッ、サッ、という音だけが響く。
「……あのおじいちゃん?」
エリルが怪訝そうにする。 だが、僕は冷や汗が止まらなかった。 **『鑑定』**が、機能しないのだ。
【???】 種族:人間 職業:剣聖(Lv.??) 状態:自然体(無我) 存在感:希薄(風景と同化)
エラーではない。 数値が表示されないのだ。 彼が「そこにいる」ことは分かるのに、敵意も、魔力も、生命力さえも感じ取れない。 まるで、そこにある岩や木と同じ「風景の一部」として存在している。
「……おい、若いの」
老人が手を止めず、背中を向けたまま声をかけてきた。 枯れた、しかしよく通る声。
「殺気と魔力が漏れておるぞ。……せっかくの静寂が台無しじゃ」 「……失礼しました。ご挨拶に伺いました」
僕は努めて冷静に声をかけた。
「異国より参りました、レインと申します。……カズヤという男をご存知ですね?」
ピタリ。 箒の手が止まった。 老人がゆっくりと振り返る。 その瞳は、濁っているようでいて、底なしの井戸のように深く、暗い。
「……カズヤか。懐かしい名を聞いたな」
老人は、僕とエリルをジロリと見た。 たったそれだけで、心臓を鷲掴みにされたような圧迫感。
「あやつは死んだか?」 「いいえ。……世界を壊すための剣として、教団に飼われています」 「そうか。……やはり、斬るしかなかったか」
老人は悲しむでもなく、ただ淡々と事実を受け入れた。 そして、僕の背中にある**【雷神の槍】**に視線をやった。
「お主、面白い獲物を持っておるな。……だが、それではカズヤには勝てん」 「……なぜ分かるんです?」 「お主の武器は『点』を穿つもの。……だが、カズヤの剣は『線』を断つものじゃ」
老人は木刀を帯に差したまま、ふらりと歩み寄ってきた。
「試してやろう。……わしを撃ってみよ」 「は?」 「遠慮はいらん。殺す気で放て」
正気か? 相手は生身の老人だ。防具もない。 だが、僕の本能が告げている。 『撃たなければ、斬られる』。
「……後悔しないでくださいよ!」
僕は**【雷神の槍・改】**を抜き、最速の抜撃を行った。 距離5メートル。 弾丸は装填済み。スタンモードではない、実弾。 照準は老人の足元。
発射!
ズドンッ!!
発砲音。 だが、弾丸は地面に突き刺さらなかった。 カツン、という乾いた音がして、弾丸が明後日の方向へ弾き飛ばされた。
「……なッ!?」
老人は一歩も動いていなかった。 ただ、木刀を鞘(帯)から僅かに浮かせ、納めただけ。 抜刀すらしていない。 鞘の鯉口で、音速の弾丸を「弾いた」のだ。
「遅いな」
老人の顔が、目の前にあった。 いつの間に? 縮地ではない。僕が「瞬き」をした一瞬の隙間に、世界から切り取られたように距離が消滅していた。
トン。 木刀の柄が、僕の喉元に軽く当てられる。
「『撃とう』と思った時、お主の殺気は膨れ上がった。……カズヤなら、その殺気を道しるべにして、弾丸が放たれる前にお主の首を飛ばしておる」
完敗だ。 魔法も、科学も、この理屈の通じない達人の前では無力。
「……あんた、何者だ」 「名はゲンサイ。……ただの老いぼれじゃよ」
ゲンサイと名乗った老人は、木刀を引いた。
「お主、カズヤを止めたいか?」 「……ああ。あいつに借りを返さなきゃならない」 「ならば、教えてやろう。……魔力を捨て、殺気を捨て、虚空となる術を」
ゲンサイは僕の目を見て、ニヤリと笑った。 それは枯れた老人ではなく、獲物を見つけた猛獣の笑みだった。
「カズヤは『武』の天才だった。教えたことを全て吸収し、ただ強くなることだけを求めた。……だが、あやつは『心』を持たなかった。異界から来たあやつにとって、この世界はただのゲーム……斬るための的でしかなかったのじゃ」
彼は空を見上げた。
「ワシの後悔じゃ。……あやつに『刃』を与えてしまったことがな。……レインと言ったな。お主からは、あやつと同じ『異界の臭い』がする。だが……」
彼は僕の胸元――IDカードが入っている場所を指した。
「お主には『守るもの』があるようじゃな。……重りがついておる」 「……重りじゃありません。錨です」 「ふん、言うようになった。……ついて来い。茶くらいは淹れてやる」
ゲンサイは庵へと戻っていく。 僕とエリルは顔を見合わせ、安堵のため息をついた。 認められた。 あのカズヤを育てた怪物に。
「……レイン。あのおじいちゃん、ヤバい」 「ああ。だが、ここなら掴めるかもしれない」
僕は拳を握った。 魔法を斬る剣。 それを攻略するための、魔法使いの「無の境地」。 そして、禁足地にある「絶対防御の盾」を抜けるための鍵。
「……頼みます、師匠」
僕は深く頭を下げ、庵の敷居を跨いだ。 ここから始まるのは、レベル上げではない。 僕という存在を書き換える、精神の修行だ。




