【第80話:天狗の湯船】
ヌエを鎮めたその夜。 天狗の隠れ里は、かつてないほどの熱狂に包まれていた。 広場には巨大な焚き火が焚かれ、天狗たちが秘蔵の「仙酒」や山の幸を振る舞っている。
「ガハハ! 飲め飲め異人たちよ! 今夜は無礼講じゃ!」 「……イズナ、お前もだ! 裏切り者だが、今は英雄だ!」 「へっ、調子のいいこった……」
イズナがかつての友人たちに囲まれ、照れくさそうに盃を干している。 良かった。彼女の居場所は、まだここにあったのだ。
「で、だ。……なんで俺がこんなことになってるんだ?」
僕は温泉――里の最上部にある、雲海を見下ろす露天風呂『天狗の湯』にいた。 湯加減は最高だ。硫黄の香りと薬草の香りが混じり、疲労が溶け出していくようだ。 だが、状況がカオスすぎる。
「キャーッ! ガル様! その上腕二頭筋、もう一度ピクつかせてくださいまし!」 「素敵! まるで岩盤のような大胸筋! 抱きつきたいわ!」 「ぬんっ! 筋肉は世界共通の言語! ……さあ触れるがいい、これが『サイドチェスト』だ!」
なぜか、ガルが天狗の娘たち(翼を生やした美女たちだ)にモテモテだった。 どうやら天狗族は「強さ」と「筋肉」を至上の美徳とするらしい。 獅子族でマッチョなガルは、彼女たちにとってアイドルのような存在なのだ。
「……解せぬ」
僕は湯船の隅っこで、手ぬぐいを頭に乗せて小さくなっていた。 Lv.28のCランク冒険者兼Sクラス委員長。 だが、ここではただの「筋肉のないヒョロガリ」扱いだ。
「……ふふ、レインくん。こっちは平和だよ……」
湯気の向こうから、エリスの声がする。 女湯とは岩一つ隔てた隣だ。
「あら、そちらは賑やかですわね。……こちらはエリスさんがお湯を紫色に変えてしまったせいで、貸切状態ですわ」 「……効能たっぷりの薬湯なのに……みんな逃げちゃった……」 「エリルは?」 「……ん。泳いでる」
バシャバシャと水音がする。 どうやら、あちらも平常運転らしい。 僕は苦笑し、夜空を見上げた。 満天の星。 ヴォルカの噴煙で霞んでいた空とは違う、澄み切った闇。
「……良い月じゃな」
背後から声がした。 長老だ。 彼はタオルを腰に巻き(翼が濡れないように巧みに畳んでいる)、僕の隣に浸かった。
「……騒がしくてすみません」 「構わん。里がこれほど活気づくのは数十年ぶりじゃ。……礼を言うぞ、レイン」
長老は懐(どこに入っていたんだ?)から徳利を取り出し、僕の盃に注いだ。
「さて。……風呂上がりに話そうと思っていたが、今でも構わんか?」 「機神の話ですか?」 「うむ。……お主らが探している『左腕』。そして、この世界の成り立ちについてじゃ」
長老の目が、鋭く光った。 周囲の喧騒が、遠のいていくような感覚。
「我ら天狗は、古来より『空』と『星』を観測する一族じゃ。……西の教団は『神の裁き』と言うが、我らの解釈は違う」
長老は夜空を指差した。
「星は生きている。……人間がマナを使いすぎ、汚染しすぎれば、星は自らを守るために『抗体』を生み出す。それが魔王じゃ」 「父さんから聞きました。……人口調整システムだと」 「そうじゃ。だが、一つだけ間違いがある」
長老は盃を煽り、重い口を開いた。
「魔王はシステムではない。……『星喰らい』の幼生じゃよ」
「……は?」
「この星の寿命は尽きかけておる。……魔王が人類を滅ぼした後、その膨大な魂とマナを喰らい、魔王は成体となり……星そのものを喰らって宇宙へ旅立つ。それが、この星の『最期』のシナリオじゃ」
背筋が凍った。 人類の間引きどころじゃない。 魔王の覚醒は、惑星そのものの死を意味する。 教団は、人口を減らせば星が延命すると信じているが、それは魔王(幼生)に餌を与えて成長させているだけなのかもしれない。
「そして『機神』……あれは古代人が作ったものではない」 「え?」 「あれは、遥か昔に宇宙から落ちてきた『星喰らいの死骸』を、古代人が兵器として改造したものじゃよ」
衝撃の事実。 機神もまた、魔王と同質の存在。 毒をもって毒を制す。 だからこそ、機神は魔王に対抗できる唯一の手段であり、同時に暴走すれば世界を滅ぼす危険性を孕んでいるのだ。
「……禁足地にある『左腕』は、その中でも特殊じゃ。あれは『拒絶』の権能を持っておる」 「拒絶?」 「物理、魔法、そして運命すらも弾き返す最強の盾。……それゆえ、誰も触れることができぬ。我々が封印していたのではなく、あれが我々を拒絶していたのじゃ」
長老は僕を見た。
「だが、お主ならあるいは……。右腕(剣)を持つお主ならば」
「……試してみますよ」
僕は残りの酒を飲み干した。 話のスケールが大きすぎて眩暈がする。 だが、やることは変わらない。 星が死ぬとか、宇宙とか、知ったことか。 僕はただ、僕の居場所を守るために、邪魔なものをぶっ飛ばすだけだ。
「……おう、若いの! 筋肉の話を聞けぇ!」
ガルの声が現実に引き戻してくれる。 僕は風呂から上がり、長老に一礼した。
「長老。……のぼせそうなんで、あがります」 「フォッフォッフォ。……若さは良いものじゃ。精進せよ」
脱衣所に出ると、火照った体に夜風が心地よい。 世界は滅びに向かっているらしい。 だが、今は風呂上がりの牛乳が美味い。 それで十分だ。
明日は禁足地。 最強の盾との対面だ。 どんな拒絶だろうと、Sクラスの厚かましさでこじ開けてやる。




