【第32話:銀の杯に満たす誓い】
その夜、宿屋「銀の杯」亭は、久しぶりの静寂と安息に包まれていた。 従業員たちは疲れ果てて眠り、両親も一階の主寝室で休んでいる。 僕たち三人は、僕がかつて使っていた二階の自室に集まっていた。
狭い部屋だ。 子供の頃は広く感じたが、12歳になり、外の世界を知った今では、天井が低く感じる。 ベッドは一つ。机と椅子。そして窓辺に小さなテーブル。
「……ここが、レイン様が育った部屋ですのね」
セリアが興味津々といった様子で、部屋の中をキョロキョロと見回している。 彼女は今、ドレスではなく、母さんが貸してくれた簡素なワンピースを着ていた。 公爵令嬢には似つかわしくない粗末な服だが、その輝くような銀髪と気品は隠しきれていない。 むしろ、そのアンバランスさが妙な色気を醸し出している。
「何もない部屋だろう。公爵家の屋敷とは比べ物にならないさ」 「いいえ。……とても『機能的』で、落ち着きますわ。それに、あなたの思考の原点がここにあると思うと、壁のシミひとつさえ興味深いです」 「……変態」
エリルがボソリと呟き、ベッドの端に腰掛けて短剣の手入れをしている。 彼女もまた、リラックスした格好だ。 ただ、その瞳だけは常に僕を追っている。
僕は窓辺の椅子に座り、窓の外を見上げた。 夜空には満月。 塔が崩れ、空気が澄んだおかげで、星がよく見える。 だが、僕の心は晴れてはいなかった。 父さんから聞いた「世界の真実」。それが重くのしかかっている。
「……二人とも、聞いてくれ」
僕が切り出すと、セリアもエリルも動きを止め、真剣な表情で僕を見た。
「父さんから聞いた話だ。……この国の王家と『サンクチュアリ』は繋がっている。あの塔も、魔王システムも、奴らが意図的に運用しているものだ」
僕は包み隠さず話した。 人類を間引くためのシステム。それを権力維持に利用する王家。 父さんがその真実を知って逃亡したこと。 そして、僕たちがその「不都合な真実」に触れてしまったこと。
「つまり、これからの僕たちの敵は、モンスターじゃない。……この国そのものだ」
重い沈黙が降りた。 Cランク冒険者になったばかりの子供たちが、国家転覆レベルの秘密を抱え込んでしまったのだ。 普通なら逃げ出す。あるいは、関わりを拒絶する。
しかし。
「……ふふっ」
最初に笑ったのは、セリアだった。 彼女は楽しそうに、あるいは呆れたように肩を震わせた。
「呆れましたわ。間引き? 人口調整? ……そんな前時代的で非効率なシステムに、我が国の予算が使われていたなんて」
彼女の瞳に宿るのは、恐怖ではなく、科学者としての義憤だった。
「星の自浄作用だと言うなら、それを制御し、循環させる技術を開発するのが人間の叡智でしょう? それを放棄して、ただ殺して数を減らすなんて……怠慢ですわ。美しくない」 「……怖くないのか? 相手は王家だぞ」 「私は『真理』の探究者です。間違った理が世界を支配しているなら、それを正すのが私の義務。……それに」
セリアは悪戯っぽく微笑み、僕の方へ身を乗り出した。
「あなたとなら、もっと面白い景色が見られそうですもの。この国を敵に回してでも、ついて行く価値がありますわ」
なんという肝っ玉だ。 公爵令嬢という立場を捨ててでも、知的好奇心と僕への興味を優先するとは。
「……レイン」
次に、エリルが口を開いた。 彼女は磨き終わった短剣を鞘に収め、ベッドから降りて僕の足元に座り込んだ。 まるで、忠実な騎士のように。
「私は、難しいことは分からない。国とか、魔王とか、どうでもいい」
彼女は僕の膝に手を置き、真っ直ぐに僕を見上げた。 その灰色の瞳には、一点の曇りもない。
「私が知ってるのは、レインが私を拾ってくれたこと。……私に『価値』をくれたこと。それだけ」 「エリル……」 「レインが行く場所が、私の居場所。……たとえ地獄でも、世界の果てでも、背中は私が守る」
胸が熱くなった。 孤独な転生者として始まった二度目の人生。 けれど僕はもう、孤独じゃない。 最強の頭脳を持つ魔導師と、最強の刃を持つ暗殺者が、僕の隣にいる。
「……ありがとう。二人とも」
僕は二人の頭に手を置いた。 セリアのサラサラとした銀髪と、エリルの少し硬い黒髪。 どちらも愛おしい、僕の相棒たちだ。
「約束する。……僕たちは誰も死なない。父さんたちも守り抜く。そして、このふざけた世界のルールを、僕たちが書き換えてやる」 「ええ、楽しみですわ!」 「……ん。やってやる」
重い誓いは、夜の静寂に溶けていった。 明日にはここを発ち、修羅の待つ王都へ戻る。 その前の、束の間の安らぎ。
「ところで、レイン様」
ふと、セリアが妙に艶っぽい声を出した。 彼女はチラリと、部屋にある唯一のベッドを見た。
「この部屋、ベッドが一つしかありませんわね」 「……そうだな。僕が床で寝るよ」 「いいえ! パーティのリーダーを床に寝かせるわけにはいきません! ……ここは、三人で川の字になるのが合理的かと!」 「は?」
セリアが顔を赤らめつつも、グイグイと迫ってくる。
「ふ、不可抗力ですわ! 寒い夜ですし、お互いの体温で暖を取るのもサバイバル術の一環……!」 「却下。……セリアは床」
エリルが冷たく言い放ち、ベッドの枕元を陣取った。
「あ、あなたちょっと独占欲が強すぎましてよ!? レイン様は私の研究対象でもありますの!」 「レインは私の。……あんたは研究所で寝ればいい」 「なんですってー!?」
ギャーギャーと騒ぎ始める二人。 さっきまでのシリアスな空気はどこへやら。 僕は大きくため息をつき、しかし、こみ上げてくる笑いを堪えきれなかった。
「……ははっ」
僕の笑い声に、二人がキョトンとしてこちらを見る。
「いいよ、もう。みんなで寝よう。……明日は早いんだ」
結局、狭いシングルベッドに三人で無理やり潜り込むことになった。 右にエリル、左にセリア。 僕は身動き一つ取れない状態で、二人の温もりと、甘い髪の匂いに包まれることになった。 窓の外、月が静かに輝いている。 世界の敵になろうとも、この温かさだけは守り抜く。 そう心に誓い、僕は泥のような眠りへと落ちていった。




