【第28話:狂信の宴】
ぬちゃり、と。 塔の一階フロアに足を踏み入れた瞬間、靴底に伝わってきたのは、濡れた臓器の上を歩くような不快な感触だった。 壁も、床も、天井も。 すべてが黒い粘膜のような物質で覆われ、至る所で赤いパイプ――血管が脈動している。 空気は濃密すぎて、呼吸するたびに肺が焼けるようだ。
「……最低の趣味ですわね」
セリアが鼻と口をハンカチで覆い、嫌悪感を露わにする。 この空間は生きている。 侵入者という異物を消化しようと、壁から消化液のような酸が滲み出している。
だが、それ以上に異質なものが、広間の奥に整列していた。 黒と赤のグロテスクな背景に、あまりにも鮮やかな「白」。 先日街道ですれ違った、サンクチュアリの集団だ。 30人ほどの信徒が、祭壇のような装置を取り囲み、祈りを捧げている。
「……ようこそ、迷える子羊たちよ」
その中心。一段高い場所に立っていた男が、ゆっくりとこちらを振り向いた。 豪奢な金糸の刺繍が入った法衣を纏った司祭だ。 その目は、薬物中毒者のように瞳孔が開ききり、常軌を逸した恍惚に満ちている。
「ここは『神の揺り籠』。偉大なる機神様が、再び目覚めるための聖域である」 「神だ……?」
僕は一歩前に出た。 体中から殺気が溢れ出すのを止められない。
「父さんを石に変えて、母さんの命を削らせた元凶が、神だと?」 「それは『献身』だ。選ばれたのだよ、君の父親は。星を浄化するためのエネルギーとなれることを、誇りに思うべきだ」
司祭は両手を広げ、心底嬉しそうに笑った。
「人類は増えすぎた。穢れたマナを撒き散らす害虫だ。だから機神様が間引きを行ってくださる。我々は、そのための養分となる光栄に浴するのだ」
会話が成立しない。 こいつらの脳味噌は、もう論理で動いていない。信仰という名のバグで埋め尽くされている。
「……エリル、セリア。耳を貸すな」 「分かってる。……吐き気がする」 「ええ。美学の欠片もありませんわ」
僕たちが武器を構えると、司祭は哀れむように首を振った。
「愚かな。神の御前で武器を抜くとは。……跪け(ニール)」
司祭が錫杖を床に突き立てた。 瞬間、不可視の衝撃波が広間を駆け抜けた。 物理的な衝撃ではない。精神に直接作用する「強制命令」。
『精神干渉魔法:【強制服従】』
「うぐっ……!?」
膝が折れそうになる。 脳内に直接、『平伏せ』『崇めろ』『思考を止めろ』というノイズが雪崩れ込んでくる。 セリアが呻き声を上げて膝をつき、エリルも短剣を支えにして必死に耐えている。 Lv.28の司祭クラスが放つ、高位の精神魔法。 抵抗するには、相手以上の精神力か、特殊なスキルが必要だ。
「ハハハ! そのまま頭を垂れよ! そして自らの喉を切り裂き、その血を捧げ――」
「……うるさいな」
僕は顔を上げた。 膝はついていない。 頭痛はする。だが、それだけだ。 僕には**【精神耐性】**がある。あの黒竜王の絶望的な威圧を前にしても、心が折れなかった経験がある。 それに加えて。
スキル【並列思考】――感情プロセスを遮断。 スキル【鑑定】――術式構造の看破。
僕の脳内で、司祭の魔法はただの「信号」へと変換されていた。 恐怖も畏敬も感じない。あるのは、書き換えるべき悪意あるコードだけ。
「な、なぜ立っている……? 私の魔法は、脳の運動野を直接支配しているはずだぞ!」 「お前の魔法は、穴だらけだ」
僕は冷徹に告げ、右手をかざした。
「神だの献身だの、御託はいい。……僕の家族に手を出した代償を払え」
【魔力操作】+【マナ妨害】 複合術式:【術式逆流】
僕は司祭が展開していた魔法陣の「制御キー」となるマナ配列を、鑑定眼で見抜き、そこにノイズを叩き込んだ。 命令のベクトルを、術者自身へと反転させる。
「ギャッ……!?」
司祭が突如として白目を剥き、自分の喉を両手で掻きむしり始めた。 自分の魔法が逆流し、「喉を切り裂け」という命令が自分自身に下されたのだ。
「あ、あががッ……! 止まれ、私の手……ッ!」 「司祭様!?」
周囲の信徒たちが動揺して駆け寄ろうとする。 その隙を、僕の仲間たちが見逃すはずがない。
「よくも……やってくれましたわね!」
セリアが立ち上がり、怒りのままに杖を振るう。
『聖魔法』――【聖域の拒絶】
広範囲の光の波動が放たれ、群がっていた信徒たちを吹き飛ばす。 闇属性や呪いに近い彼らの術式にとって、セリアの純粋な聖なる光は劇薬だ。
そして、影が走る。
「……レインを、侮辱するな」
エリルだ。 彼女は混乱する信徒たちの肩や頭を踏み台にして跳躍し、藻掻き苦しむ司祭の懐へと飛び込んだ。 ミスリルの短剣が、薄暗い塔の中で銀色の軌跡を描く。
「終わり」
ザンッ!!
袈裟懸けの一閃。 司祭の絶叫が途切れる。 血飛沫が黒い壁を汚し、司祭の体が崩れ落ちた。
「ば、馬鹿な……司祭様が……」 「悪魔だ……こいつらは悪魔だ……!」
指導者を失った信徒たちが、恐怖に顔を引きつらせて後退る。 さっきまでの狂信的な態度は消え失せ、ただの怯える人間に戻っていた。
「……失せろ」
僕が低く唸ると、彼らは蜘蛛の子を散らすように出口へと逃げ出した。 追う必要はない。彼らはただの端末だ。 倒すべき本体は、この塔の最上階にいる。
「……ふぅ。助かったわ、レイン」 「危なかったですわ。あんな精神魔法、初見で防げるなんて……やっぱりあなたの脳構造、解剖したいですわね」
セリアとエリルが駆け寄ってくる。 僕は司祭の死体を見下ろし、その懐から「鍵」のような形状をした水晶を拾い上げた。 恐らく、上層へのアクセスキーだ。
「行くぞ。今の戦闘で、塔が完全に僕たちを敵と認識した」
壁の脈動が激しくなる。 天井から新たな魔物が生まれ落ちる気配がする。 ここから先は、この巨大な捕食者との総力戦だ。
僕は水晶を握りしめ、上へと続く螺旋階段を見上げた。 父さんの石化まで、時間は刻一刻と迫っている。




