【第24話:腐食する夜】
王都を出て二日目の夜。 僕たちは街道を少し外れた森の中で、最低限の焚き火を囲んでいた。 馬を休ませるための短い休息だ。 だが、僕もエリルも眠気など微塵もなかった。
「……静かすぎる」
エリルが短剣を握りしめたまま、闇を見つめる。 昨日感じた「不気味な静寂」は、夜になってさらに深まっていた。 虫の声一つしない。風の音さえ、何かに遮られているように重い。 焚き火の炎も、いつもより暗く、頼りないオレンジ色で揺らめいている。
パチッ。 薪が爆ぜた音に、僕たちは過敏に反応して肩を跳ねさせた。
「レイン。……囲まれてる」
エリルが低く告げた。 【危機察知】が、全方位からの接近を告げているらしい。 だが、僕の【気配察知】(隠密の派生)には、明確な「生体反応」が映らない。 いるのに、いない。 まるで、泥の塊が動いているような、曖昧な気配。
「数は?」 「十……二十。増えてる」
僕たちは背中合わせに立ち、武器を構えた。 ガサリ。 茂みが揺れた。 現れたのは、一匹のウルフだった。 いや――かつてウルフ「だった」ものだ。
「う、ぅあ……」
喉が鳴るような、湿った唸り声。 その姿を見て、僕は嘔吐感をこらえるのに必死だった。 毛皮は半分以上が抜け落ち、赤黒い筋肉が剥き出しになっている。 皮膚の至る所にどす黒い腫瘍のような膨らみがあり、そこから黄色い膿がポタポタと垂れ落ちていた。 片目は溶けてなくなり、もう片方の目は白濁して虚空を見つめている。
『鑑定』。
【汚染されたフォレストウルフ】 Lv. 12 状態:崩壊(進行度:末期)、痛覚消失、狂暴化 弱点:火、聖属性
「……なんだよ、これ」
ゾンビ(アンデッド)じゃない。 心臓は動いている。生きているんだ。 生きながらにして腐り、溶け、ただ「食欲」と「破壊衝動」だけで動く肉塊。
「来るッ!」
エリルの警告と同時に、ウルフが跳躍した。 速い。腐っているのに、リミッターが外れたような異常な瞬発力。 エリルが迎撃する。 ミスリルの短剣が閃き、ウルフの首を正確に刎ね飛ばした。
ズシャッ!
鮮血ではない。ヘドロのような黒い体液が撒き散らされる。 だが、恐怖はそこからだった。 首を失った胴体が、止まらないのだ。 勢いのまま僕たちに突っ込み、鉤爪を振り回してくる。
「死んでない!? 首がないのに!」 「レイン、下がれ!」
エリルが胴体を蹴り飛ばすが、その足にも黒い体液が付着する。 スーツがジュッといやな音を立てて煙を上げた。 酸だ。体液そのものが猛毒になっている。
「キシャアアアアッ!!」
森の奥から、次々と異形たちが現れた。 ウルフだけじゃない。ゴブリン、大蝙蝠、そして熊。 種族もバラバラな魔物たちが、一様に腐り落ちた姿で、よだれを垂らしながら押し寄せてくる。 共通しているのは、あの「不健康な紫色の空」と同じ色のマナを纏っていること。
「エリル、触れるな! 斬るんじゃなくて燃やす!」
僕は前に出た。 物理攻撃じゃキリがない。細胞ごと焼き払うしかない。 指先を群れに向ける。 手加減はなしだ。
『拡散火弾』――カスタム:【焼夷】
撃ち出したのは、貫通力ではなく「燃焼」に特化した粘着性の火球。 着弾と同時にベチャリと広がり、激しい炎となって燃え上がる。
「ギャガガガガガッ!!」
異形たちが火だるまになる。 ようやく悲鳴らしきものが聞こえた。 肉が焼ける嫌な臭いが充満する。 それでも、奴らは止まらない。火だるまのまま這いずり、僕たちの足を噛もうとする。
「しつこい……!」
生命力への執着じゃない。 何かに操られているような、機械的な殺意。 僕はマナを振り絞り、次々と火弾を放った。 エリルも投擲ナイフで距離を取りながら、近づく敵の脚を破壊して動きを止める。
十分後。 森は静寂を取り戻した。 周囲には、黒炭と化した肉塊が転がっているだけだ。 僕たちは肩で息をしながら、その惨状を見下ろした。
「……レイン。これ、病気?」 「いいや。もっとタチが悪い」
僕は燃えカスの一つに近づき、深く『鑑定』した。 マナの汚染。 大気中のマナが変質し、生物の遺伝子情報を書き換えている。 放射能汚染に近い。
「この森のマナが毒になってるんだ。弱い魔物から順に、身体が耐えきれずに変異した」
そして、僕は最悪の想像に行き着く。 ここは故郷まであと少しの場所だ。 もし、この汚染が村まで届いていたら? 魔物よりもマナ抵抗力の低い人間が、これを吸い続けたら?
「父さん……」
父さんが倒れた理由。 Lv.46の強靭な肉体を持つ父さんが、なぜ? いや、逆だ。 父さんは「強すぎる」からこそ、大量のマナを無意識に取り込んで循環させている。 毒を、誰よりも多く吸い込んでしまったんじゃないか?
「……急ごう、エリル。休んでいる暇はない」 「ん。馬、怯えてるけど……走らせる」
僕たちは疲れ切った馬を励まし、再び闇の中へと走り出した。 背後には、腐った死骸の山。 それは、これから向かう故郷の未来図かもしれない。 焦りが、喉を焼き尽くしそうだった。




