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【第2話:情報の価値】

額のタンコブを母さんの魔法――手かざしによる微弱な治癒魔法だろうか――で少し和らげてもらった僕は、一階の食堂へと抱えられて降りた。


「レイン、今日は大人しく座っているのよ。お店が忙しいからね」


母のマリアは、厨房に近いカウンターの端、僕専用の少し背の高い椅子に僕を座らせた。目の前には、湯気を立てる野菜スープと、大人が食べるものより少し柔らかく焼かれたパンが置かれる。 時刻は朝のピークタイム。 宿屋「銀の杯」亭の食堂は、朝食を求める宿泊客と、朝酒をあおる荒くれ者たちでごった返していた。


(……うるさい。それに、臭い)


鼻をつくのは、焼けた肉と脂の匂い、安酒のツンとする刺激臭、そして何日も風呂に入っていない人間特有の汗と泥の臭気だ。 前世の僕なら、この不潔さに顔をしかめて部屋に逃げ帰っていただろう。 だが、今の僕は逃げない。スプーンを握りしめ、スープを口に運ぶ。塩気が強く、少し泥臭い根菜の味。美味くはないが、温かい。これが「生きる味」だ。


僕は口をもぐもぐと動かしながら、目を皿のようにして周囲を見渡した。 やるべきことは一つ。**【鑑定】**の検証とレベル上げだ。


(まずは、無機物から)


手元のスプーンを見る。『鑑定』。 視界に文字が浮かぶ。


【木のさじ


次は皿。


【素焼きの皿】


パン。


【ライ麦パン】


(……地味だ。あまりにも地味すぎる)


名前が出るだけ。それ以上の情報は一切ない。材質、価値、耐久度、そんなものは見えない。 前世のRPGなら、「鑑定」なんて便利なスキルは最初から詳細が見えて当たり前だった。だが現実はシビアだ。 僕はパンを齧りながら、視界に入るものすべてに『鑑定』をかけ続けた。 テーブル、椅子、床、窓枠、空のジョッキ、壁の傷……。 百回、二百回。 こめかみの奥がじわじわと熱くなり、鉛が入ったように重くなっていく。これが恐らく「魔力マナ」の消費、あるいは精神的な疲労なのだろう。


かつての僕なら、ここでやめていた。「疲れた」「意味がない」「飽きた」。そう言い訳をして、スマホを眺めて時間を潰していただろう。 だが、今の僕は4歳児の小さな体を強張らせ、歯を食いしばってスキルを回し続けた。


(やめるな。続けろ。この程度の頭痛がなんだ。死ぬ苦しみに比べれば、こんなものは蚊に刺された程度だ)


汗が頬を伝う。 食堂の喧騒が遠のくほどに集中し、僕はターゲットを「モノ」から「ヒト」へと切り替えた。


ちょうど、カウンター席に座っていた一人の男が立ち上がった。 革鎧に身を包み、腰にはショートソード。無精髭を生やした、いかにも「駆け出しの冒険者」といった風情の男だ。


『鑑定』。


【ボリス】


男の名前はボリスと言うらしい。 ボリスは下品な音を立ててゲップをし、銅貨を数枚カウンターに叩きつけると、仲間らしき男に話しかけた。


「おい、行くぞ。今日は森の手前でゴブリン狩りだ。昨日みたいなヘマすんじゃねえぞ」 「わーってるよ。……あ? なんだこのガキ、人の顔じろじろ見やがって」


仲間らしき男――スキンヘッドの大男が、僕の視線に気づいてギロリと睨みつけてきた。 怖い。 本能的な恐怖で心臓が跳ねる。大人の、それも暴力を生業にする人間の威圧感。 僕は反射的に視線を逸らしそうになったが、テーブルの下で自分の太ももをつねって耐えた。 見るんだ。情報を抜くんだ。ただ怯えるだけの子供で終わるな。


『鑑定』。


【ガストン】


(ボリスと、ガストン……)


名前はわかった。だが、それだけだ。こいつらがどれくらい強いのか、危険なのか、それがわからない。 もっと深く。もっと詳しく。 僕は祈るように、いや、呪うように念じた。 名前の向こう側を見せろ。


ズキリ、と脳髄に鋭い痛みが走った瞬間だった。


『――鑑定スキルの熟練度が一定値に達しました』 『鑑定スキルがLv.2になりました』


脳内に響く無機質なアナウンス。 直後、視界に浮かぶ文字列が「パチン」と弾けるように変化した。


【ガストン】 種族:人族 職業:戦士(Lv.4)


見えた。 職業と、レベルだ。 Lv.4。それが高いのか低いのかはまだ比較対象がないからわからない。だが、隣にいたボリスにも鑑定をかけると**【戦士(Lv.3)】**と出た。 恐らく、駆け出しの冒険者としては平均的な数値なのだろう。


僕は興奮で震える手を押さえ、次に視線を向けたのは、カウンターの奥で手際よくジョッキを洗っている父、ガントだった。 宿屋の親父。気のいい、けれど厳格な父。 彼の背中を見つめ、念じる。


『鑑定』。


表示された文字列を見て、僕は息を呑んだ。


【ガント】 種族:人族 職業:元・近衛騎士(Lv.45)


(……は?)


レベル、45? さっきの冒険者たちがレベル3や4だ。桁が違う。 それに職業。「元・近衛騎士」? ただの宿屋の親父じゃなかったのか? 父さんの分厚い胸板、腕の古傷、そして客が喧嘩を始めそうになると一睨みで黙らせる迫力。その全ての理由が、数値として裏付けられた。


衝撃と同時に、強烈な安堵感が胸に広がる。 この家は安全だ。少なくとも、Lv.45の「元・近衛騎士」が守ってくれている限り、ゴブリンやゴロツキ程度に襲われて死ぬことはない。 僕は、最強のシェルターの中にいる。


「……ふ、へへ」


安心して、力が抜けた。 頭痛が限界を超え、視界が暗転する。 椅子からずり落ちそうになった僕を、素早い動きで回ってきた父さんが受け止めた。


「おいレイン! どうした、顔が真っ青だぞ!」 「あ……父、さん……すごい、ね……」


うわ言のように呟いて、僕は父さんの太い腕の中で意識を手放した。 魔力切れ(マナ・ダウン)。 それは不快な感覚だったが、暗闇に落ちていく僕の胸には、確かな「成果」の温かみが残っていた。

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