【第14話:泥だらけの一本】
「行くぞ、エリル! 散開!」
僕の号令と共に、エリルが弾かれたように右へ、僕が左へと走る。 父さんは動かない。ただ、その眼球だけがギョロリと動き、僕たち両方を同時に捉えている。
「小賢しい真似を」
父さんが鼻を鳴らす。 僕は走りながら、掌に魔力を集中させる。 高威力の【火弾】じゃない。今の僕のマナ残量じゃ、あと数発が限界だ。 なら、質より量だ。
「散れ! 『拡散火弾』!」
指先から数十発の小さな火の粒をばら撒く。 威力は クラッカー程度。だが、視界を塞ぐ幕にはなる。 パンパンパンッ! と乾いた破裂音が周囲を包む。
「煙幕か。古典的だな」
父さんは腕を一振りし、風圧だけで煙を吹き飛ばした。 だが、その瞬間にはもう、エリルが背後に迫っていた。 彼女の短剣が、父さんのアキレス腱を狙う。 父さんは振り返らず、バックステップでエリルの足を踏みつけようとする。
「っと……!」
エリルは紙一重で回避するが、体勢を崩される。 そこへ父さんの蹴りが飛ぶ。 速い。重い。 だが、その動きを僕は見ていた。
『鑑定』――全開!
脳が焼き切れるような負荷。 父さんの筋肉の収縮、重心の移動、魔力の流れ。すべてを数値として視る。 Lv.46の完璧な肉体。隙なんてない。どこにもない。 ……いや、あるはずだ。 人間である以上、絶対に「綻び」はある!
視ろ。過去を視ろ。父さんの歴史を視ろ!
【ガント】 状態:右膝古傷(雨天時疼痛:微)、重心左寄り
(……そこか!)
見つけた。 右膝。かつて近衛騎士時代に受けたであろう、深い刺突の痕跡。 完治しているように見えるが、長年の酷使で「爆弾」を抱えている。 父さんは無意識に、右足への負担を避ける動きをしている。踏み込みが、左に比べてコンマ数秒浅い。 そして昨夜は雨が降った。地面は湿っている。古傷が痛む条件は揃っている。
「エリル! 右だ! 右を潰せ!」
僕は喉が裂けんばかりに叫んだ。 理屈はいらない。僕の指示は絶対だ。 エリルは回避の勢いを殺さず、地面を転がりながら、父さんの「右足」へと特攻した。 自分の身を守ることを捨てた、捨て身のタックル。
「なにっ!?」
父さんの表情に、初めて焦りが浮かぶ。 弱点を正確に見抜かれた動揺。 父さんは反射的に右足を引こうとする。 その瞬間、右膝に負荷がかかる。 ピクリ、と父さんの動きが一瞬止まった。
(今だッ!!)
僕は剣を投げ捨てた。 今の僕に必要なのは武器じゃない。質量だ。 僕は全力で地面を蹴り、無防備になった父さんの懐へと弾丸のように飛び込んだ。
「うおおおおおっ!!」
「ぬぅっ!」
エリルが右足にしがみつき、僕が上半身ごと父さんの胴体に体当たりする。 二人掛かりの全体重をかけた突撃。 それでも、父さんは岩のように動かない。 Lv.46の筋力が、僕たちを押し返そうとする。
「くっ、ぞ……重いんだよ、クソ親父ぃぃッ!」
僕は歯を食いしばり、残った全てのマナを足の裏から放出した。 【身体強化】と【噴射】の合わせ技。 物理法則を無視した推進力。
「……!」
父さんの右膝が、カクンと折れた。 古傷の痛みと、想定外の負荷、そして泥濘の地面。 バランスが崩れる。 巨体が傾く。
ズザザッ……!
父さんは倒れまいと踏ん張ったが、支えきれず、ついに片膝を地面についた。 ドスン、と重い音が響く。
静寂。 荒い息遣いだけが聞こえる。 僕とエリルは父さんにしがみついたまま、肩で息をしていた。 父さんの右膝は、泥にまみれていた。
「……一本、だよね?」
僕が掠れた声で聞く。 父さんはしばらく無言だったが、やがて「ふっ」と息を吐き、僕とエリルを両脇に抱えて軽々と立ち上がった。
「……ああ。一本だ」
父さんは僕たちを地面に下ろすと、自分の右膝についた泥をパンパンと払った。
「古傷を狙ったな? それも、俺が一番踏ん張りの効かないタイミングで」 「……勝てばいいんだろ」 「全くだ。戦場で『卑怯』なんて言葉を吐く奴から死んでいく」
父さんはニヤリと笑った。それは、今まで見た中で一番、誇らしげな笑顔だった。
「合格だ。……行け、レイン、エリル」
その言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けて、僕はその場にへたり込んだ。 エリルも隣で大の字になっている。 全身泥だらけで、痣だらけ。 でも、勝った。 あの「黒竜王」を見た日から5年。僕たちはついに、最初の壁を越えたのだ。
「……準備はできてるのか?」 「うん。荷物はまとめた」 「そうか」
父さんは懐から、小さな革袋を取り出し、僕に放った。 受け取ると、ジャラリと重い音がした。金貨だ。それもかなりの枚数が入っている。
「餞別だ。装備を整えろ。……それと」
父さんは腰に差していた短剣を抜き、エリルに渡した。
「エリル、お前にはこれをやる。俺が昔使っていた『ミスリルの短剣』だ。今のなまくらよりはマシだろ」 「……いいの?」 「レインを守る盾になるんだろ? なら、牙も鋭くしておけ」
エリルは短剣を恭しく受け取り、深く頭を下げた。
「……命に変えても」
朝日が高く昇る。 旅立ちの時間だ。 母さんは厨房の窓から顔を出し、泣きながら手を振っていた。きっと止めると決心が鈍るから、出てこなかったのだろう。
「行ってきます、父さん」 「ああ。……死ぬなよ」 「当たり前だ。僕は生き延びて、いつかあの竜だって超えてみせる」
大口を叩き、僕は歩き出した。 隣には新しい短剣を腰に差したエリル。 背中には、父さんから教わった「強さ」と「覚悟」の重みを感じながら。
宿屋「銀の杯」亭が見えなくなるまで、僕たちは一度も振り返らなかった。 目指すは王都。 冒険者ギルドの本部がある、出会いと欲望の街だ。 僕の、そして僕たちの本当の冒険が、ここから始まる。




