【第112話:泥濘(ぬかるみ)の悪意】
感動の再会は、不快な「音」によって引き裂かれた。
ジュルリ、ジュルリ……。
ブリッジの床、壁、天井。 至る所から、コールタールのような黒い泥が滲み出し始めていた。 それはただの液体ではない。 星喰らいの残滓。 本体が消滅してもなお、世界を喰らい尽くそうとする「飢餓」の本能そのものだ。
『……オオ……喰ワセ……ロ……』
泥が鎌首をもたげ、人の形を模していく。 その虚ろな目が捉えたのは、蘇生したばかりの僕――レインだった。 僕の魂に残る「星の外側の匂い」を、最期の餌として狙っているのだ。
「……ッ!」
僕は立ち上がろうとしたが、膝が笑って力が入らない。 指一本動かせない。 マナは空っぽだ。今の僕は、ただの無力な子供でしかない。
「レイン!」
泥の槍が、僕の喉元に迫る。 死ぬ――そう思った瞬間。
ザシュッ!!
銀色の閃光が走り、泥の槍を霧散させた。 エリルだ。 彼女は僕の前に立ち塞がり、ミスリルの短剣を構えた。
「……させない。レインには、指一本触れさせない」
彼女の背中が、以前よりもずっと大きく見えた。
「うおおおおッ! 往生際が悪いぞ、ヘドロ野郎ッ!」
ドゴォッ!! ガルが突進し、壁から湧き出した泥の群れをタワーシールドで押し潰す。 筋肉と鉄の壁。
「……うふふ、死に損ないは嫌いじゃないけど……レインくんを虐めるのは許さない……」
エリスが影を広げ、泥の動きを縛り付ける。 セリアは僕の横で膝をつき、必死に防護結界を展開しようとするが、彼女も魔力が尽きかけている。
「くっ……! まだですわ! 私がレイン様を蘇らせたのです! 誰にも奪わせませんことよ!」
仲間たちが戦っている。 僕を守るために。 だが、泥の量は増すばかりだ。 要塞の残存エネルギーを食らい、再生しようとしている。
『……喰ウ……全テ……』
巨大な泥の波が、ブリッジ全体を飲み込もうと押し寄せる。 Sクラスの戦力だけでは、押し切られるか。
「――生徒が頑張ってるのに、教師が寝てるわけにゃいかねぇな!」
ヒュンッ! 巨大な処刑鎌が旋回し、泥の波を一刀両断にした。 ヴァン先生だ。 彼女は酒瓶(空だ)を放り捨て、獰猛な笑みを浮かべて前に出た。
「ここは通さん。……俺の可愛い生徒たちに手を出した罪、万死に値するぞ」
さらに、横から眩い光が差し込む。
「光よ、邪悪を払え!」
レオンハルトだ。 彼の義手――**【アガートラーム】**から放たれた光刃が、泥を焼き払う。 勇者の光。それは不浄な存在にとっての劇薬だ。
「レイン、下がっていろ! 今度は僕たちが君を守る番だ!」 「レオンハルト……先生……」
頼もしい背中が並ぶ。 だが、それでも泥は止まらない。 執念深く、粘着質に、隙間を縫って僕に殺到する。
その時。 黒い影が、僕の目の前に舞い降りた。
「……チッ。掃除の時間は終わったはずだろ?」
カズヤだ。 彼は全身血まみれで、立っているのが不思議な状態だ。 だというのに、その手にはしっかりと刀が握られている。
「カズヤ! お前、その怪我で!」 「うるせぇ。……俺を倒した男が、こんな泥遊びで死ぬなんざ、認めねぇよ」
彼は笑った。 そして、刀を構えた。 気力も体力も限界のはずだ。 だが、彼の刃は錆びつくどころか、研ぎ澄まされた冷気を放っている。
「……見とけよ、レイン。魔法もスキルもねぇ……ただの『意地』の一撃だ」
泥の巨人が、カズヤに向かって牙を剥く。 カズヤは動かない。 呼吸を整え、世界と一体化する。
「消えな」
『無明流』――【残月】
一閃。 それは、あまりにも静かな斬撃だった。 だが、その軌跡に残った真空の刃が、空間ごと泥の群れを微塵切りにした。 再生? させない。 概念ごと断ち切る、修羅の剣。
「……すげぇ」
泥が崩れ落ち、ただの黒いシミへと変わっていく。 カズヤの一撃が、星喰らいの最後の執念を断ち切ったのだ。
「……ふぅ。これで文句ねぇだろ」
カズヤが刀を納め、ふらりとよろめく。 レオンハルトが彼を支える。
「……借り、返したぜ」 「ああ。……助かったよ」
ブリッジに静寂が戻る。 今度こそ、本当に終わりだ。 黒い泥は蒸発し、窓の外からは、夜明けの光が差し込み始めていた。
「……みんな」
僕は震える足で立ち上がった。 エリルがすぐに肩を貸してくれる。 ガルが、エリスが、セリアが、先生が、レオンハルトが、カズヤが。 全員が、僕を見て笑っている。 ボロボロで、泥だらけで、最高に格好悪い笑顔で。
「……ありがとな」
僕の言葉に、全員が親指を立てたり、ピースサインを返したりした。 一人じゃ勝てなかった。 一人じゃ、戻ってこれなかった。 この「繋がり」こそが、僕がこの世界で手に入れた最強のスキルだ。
ズズズ……。 要塞が大きく傾く。 限界だ。動力炉が停止し、墜落が始まる。
「……さあ、ずらかるぞ! ここはもう墓場だ!」
ヴァン先生が叫ぶ。 僕たちは互いに支え合いながら、出口へと走った。 最後の大脱出。 Sクラスの冒険は、全員生還じゃなきゃ終われない。
「走れぇぇぇッ!!」
僕たちの笑い声が、崩壊する要塞に響き渡った。




