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【第10話:凡才の壁】

宿屋「銀の杯」亭に戻ると、店は一種異様な熱気に包まれていた。 普段なら冒険自慢や下世話な笑い話で賑わう食堂が、今夜はただ一つの話題で埋め尽くされている。


「見たかよ、あの影! 森が丸ごと飲み込まれたかと思ったぜ……」 「黒竜王ニーズヘッグだ。間違いない。爺さんの代に一度現れたって話だが、まさか生きて拝めるとはな」 「生きてたのが奇跡だ。乾杯だ! 今日という日を生き延びたことに!」


客たちは恐怖を紛らわせるように酒を煽っていた。 その喧騒の中、僕は機械的にジョッキを運び、空いた皿を下げていた。 耳には客たちの興奮した声が入ってくるが、頭の中は冷え切っていた。


(……レベル180)


あの数字が、焼き付いて離れない。 厨房に入り、洗い物をしながら、僕はこっそりと自分のステータスを呼び出した。


【レイン】 年齢:7歳 職業:宿屋の息子(Lv.5)


「……はは。なんだよ、これ」


乾いた笑いが漏れた。 4歳で前世の記憶に目覚めてから3年。 毎日、両親の目を盗んで魔力操作の訓練をし、筋トレをし、最近では父さんに剣を習い、エリルと共に裏社会のドブさらいまでやってきた。 大人顔負けの思考と、死ぬ気で積み上げた努力。 その結果が、たったのLv.5だ。


確かに、普通の7歳児はLv.1だ。それに比べれば優秀かもしれない。 だが、僕の隣にはエリルがいる。 彼女はこの3年でLv.3からLv.9まで駆け上がった。 彼女は「才能」の塊だ。死線をくぐるたびに強くなる、本物の捕食者。 対して僕はどうだ? 剣も、魔法も、隠密も、経営も。あれこれ手を出した結果、器用貧乏になっているだけじゃないか?


(スキルも、増えていない)


この3年で増えたのは【剣術】と【精神耐性】くらいだ。 あとは既存スキルの熟練度が少し上がっただけ。 劇的な進化も、チート級のユニークスキル獲得もない。 「鑑定」という武器はある。だが、それ自体は敵を殺さない。


『――俺たち人間にできるのは、通り過ぎるのを待つことだけだ』


父さんの言葉がリフレインする。 嫌だ。 あんな絶望的な存在に怯えて、ただ首を垂れて生きるのは嫌だ。 でも、このペースじゃ父さんに追いつくのに何十年かかる? 黒竜王に届く日は来るのか? いや、寿命が尽きる方が先だ。


「……クソッ」


僕は洗っていた皿を、危うく握り潰しそうになった。 焦りが胸を焼く。 前世と同じだ。 周りが就職して出世していく中、自分だけが取り残されていく感覚。 「自分は特別なはずだ」と思い込みたくて、でも結果が出ない現実に打ちのめされる、あの惨めな感覚。


「……レイン。皿、割れる」


背後から声がした。 振り返ると、勝手口の影にエリルが立っていた。 彼女は僕の手からそっと皿を取り上げ、代わりに水で濡らした手ぬぐいを渡してくれた。


「……見てたのか」 「あんたの殺気、漏れてた。……客が怯える」


エリルは淡々と言った。 彼女は厨房の隅にある樽に腰掛け、残飯の骨付き肉を器用に齧り始めた。


「……エリル、君は凄いな」 「何が?」 「もうLv.9だろ。僕の倍近い」 「あんたが色んなことを教えるから。私はそれをやるだけ」


彼女は不思議そうに首を傾げた。 そう、彼女にとっては「強くなること」は呼吸と同じだ。悩みもしないし、疑いもしない。 それが羨ましく、そして少しだけ怖かった。 僕が彼女を育てているつもりだったが、いつか彼女に置いていかれるんじゃないか。 「弱い主」など不要だと、見限られる日が来るんじゃないか。


「……レイン」


エリルが骨を置き、僕の顔を覗き込んだ。 その灰色グレーの瞳は、相変わらず感情が読めないが、どこか真っ直ぐな光を宿していた。


「焦ってる?」 「……まあね。世界が広すぎて、自分がちっぽけに見えたんだ」 「バカなの?」


エリルは鼻で笑った。


「あの竜は、空を飛ぶもの。あんたは、地を這うもの。……這うものには、這うものの戦い方がある」 「這うものの戦い方……」 「私は、あんたが竜に勝てるなんて思ってない。でも」


彼女は懐から、僕が以前「投擲練習用」に渡したただの石ころを取り出した。 それを指先で弄びながら、ニヤリと笑った。


「あんたは、竜が寝てる間に、その喉元に毒を流し込むような男でしょ。……正面から殴り合うことだけが、強さじゃない」


ハッとした。 そうだ。僕はいつの間にか、父さんのような「騎士の強さ」や、黒竜王のような「暴力の強さ」に憧れ、それと自分を比べて絶望していた。 でも、僕の本質はそこじゃない。 Lv.1の時に、Lv.14の傭兵を火ダルマにしたあの時の感覚。 卑怯でも、陰湿でも、格上に一泡吹かせる「知恵」と「工夫」。 それが僕の武器だったはずだ。


レベルが上がりにくいなら、経験値効率の良い狩場を探せばいい。 スキルが増えないなら、今あるスキルを異常な使い方ができるまで磨けばいい。 真正面から勝てないなら、勝てる状況を演出すればいい。


「……ありがとう、エリル。目が覚めたよ」


僕は手ぬぐいで顔を拭き、深く息を吐いた。 焦りは消えていない。 けれど、その焦りはもう「惨めな停滞」ではなく、「次への原動力」に変わっていた。


「レベルが低いなら、質で補う。……これからの3年は、もっと酷いことになるぞ」 「望むところ。……美味しいもの、食べさせてくれるなら」


エリルは満足そうに骨をしゃぶり尽くした。 僕は窓の外、黒竜が消えていった夜空を見上げた。


待っていろ、世界。 天才じゃないなら、凡才なりに泥にまみれて、最短距離ショートカットを駆け上がってやる。 僕は厨房を出て、再び喧騒の中へと戻っていった。 その足取りには、迷いはもうなかった。

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