第八章:時間の贈り物
璃音は例の住宅街を歩いていた。手には『月の暦』の本を大切に抱えている。今夜は少し肌寒く、お気に入りのキャメル色のコートを羽織っていた。足音が静かな夜道に響く。
角を曲がると、あの建物が見えた。夜間図書館。今夜も温かい光が窓から漏れている。扉は相変わらず開いていた。
中に入ると、懐かしいラベンダーとローズマリーの香りが迎えてくれた。本棚の配置は前回と同じだが、なぜか本の種類が増えているように見える。
「おかえりなさいませ」
振り返ると、詩歌が立っていた。彼女は今夜、深い緑のドレスを着ている。首元には月の形をしたペンダントが相変わらず揺れているが、今夜は淡い緑色に光っている。
「詩歌さん」
璃音は嬉しくて、思わず駆け寄った。詩歌の手を両手で包む。
「お借りしていた本をお返しに」
「ありがとうございます。いかがでしたか?」
「人生が変わりました」
璃音は詩歌にこの三ヶ月の出来事を話した。身体のリズムを意識するようになったこと、美月や千花との絆が深まったこと、研究が飛躍的に進歩したこと。
詩歌は微笑みながら聞いている。その表情は慈愛に満ちていて、まるで母親のようだった。
「素晴らしいですね。あなたは時間の本質を理解されました」
「詩歌さんのおかげです」
「いいえ、あなたご自身の力です。私はきっかけを与えただけ」
詩歌は璃音を本棚の奥へ案内した。そこには新しい本棚があり、『現代女性の時間学』という本が並んでいる。
「こちらをご覧ください」
詩歌が一冊の本を取り出した。『神崎璃音の新しい時間』というタイトルが金文字で書かれている。
「これは?」
「あなたがこの三ヶ月で創り出した、新しい時間の物語です」
璃音が本を開くと、自分の体験が美しい文章で綴られていた。しかし、それは単なる記録ではない。過去と未来、個人と普遍が美しく織り交ぜられた、まるで詩のような物語だった。
ページをめくっていくと、未来の場面も描かれている。璃音が国際学会で講演している様子、美月と千花との友情がさらに深まっている様子、そして多くの女性研究者たちが新しいワークスタイルを取り入れている様子。
「これは……未来の物語?」
「可能性の物語です。あなたが歩む道の一つ」
詩歌は璃音の隣に座った。
「時間は一本の直線ではありません。無数の可能性が枝分かれしている、美しい樹のようなもの。あなたは今、新しい枝を育てているのです」
璃音は感動で胸がいっぱいになった。
「詩歌さん、あなたは一体……」
「私は時間の調律師です。人々が本来持っている美しいリズムを取り戻すお手伝いをしています」
詩歌は立ち上がり、窓際に向かった。月光が彼女のドレスを照らし、まるで幻想的な絵画のようだ。
「あなたのお友達も、いつかここを訪れるでしょう。美月さんは構造の美しさを、千花さんは無限の可能性を見つけに」
「本当ですか?」
「ええ。でも今日は、あなたお一人の特別な夜です」
詩歌は璃音に新しい本を手渡した。『時間の贈り物』というタイトルの、小さくて美しい本だった。
「これは?」
「お守りです。迷った時、疲れた時に開いてください。あなたの心を支えてくれるでしょう」
璃音は本を大切に受け取った。
「詩歌さん、ありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます」
璃音は詩歌を抱きしめた。詩歌の身体は温かく、まるで光そのもののようだった。
「いえ、私の方こそ。あなたのような方にお会いできて、幸せです」
詩歌も璃音を優しく抱きしめ返した。
「さあ、お戻りください。あなたの新しい時間が始まります」
璃音は図書館を後にした。振り返ると、詩歌が窓辺に立って手を振っている。その姿は月光に溶けるように美しく、璃音の心に永遠に刻まれた。
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一年後。
璃音は国際量子物理学会の壇上に立っていた。聴衆席には世界中から集まった研究者たちが座っている。
「量子もつれと時間の循環性について」
璃音の講演は大成功だった。新しい理論は多くの研究者から注目され、質疑応答も活発に行われた。
講演後、璃音のもとに一人の若い女性研究者が近づいてきた。
「素晴らしい講演でした。特に『時間の質』という概念に感動しました」
「ありがとうございます」
「実は私も、研究と身体のリズムの関係に興味があって。何かアドバイスをいただけませんか?」
璃音は微笑んだ。最近、こうした相談を受けることが増えている。
「もちろんです。時間をかけてお話ししましょう」
研究室に戻ると、美月と千花が待っていた。二人とも国際学会での璃音の成功を心から喜んでいる。
「璃音、おかえりなさい」
美月が璃音を抱きしめた。
「講演の様子、ライブで見ていたわ。感動した」
「千花ちゃんも見てくれたの?」
「もちろんです! 先輩、とても輝いていました」
千花も璃音に抱きついた。三人の絆は、この一年でさらに深まっている。
夕方、三人は屋上で夕日を眺めていた。秋の夕日は相変わらず美しく、街を暖かい光で包んでいる。
「考えてみれば、私たちの取り組みが少しずつ広がっているのね」
美月がつぶやいた。
「そうね。最近、他の研究室でも身体のリズムを意識する女性研究者が増えている」
璃音は満足そうだ。
「私たちが始めた小さな革命が、波紋のように広がっているのね」
「先輩たちと出会えて、本当に人生が変わりました」
千花が二人の手を握った。
「私たちも。千花ちゃんがいてくれるから、チームとして完璧なの」
璃音は『時間の贈り物』の本を取り出した。この一年、困った時には必ずこの本を開いている。
今日のページには、新しいメッセージが書かれていた。
『時間は贈り物です。どのように受け取り、どのように使うかは、あなた次第。大切なのは、感謝の心を忘れないこと』
璃音は二人にメッセージを読み聞かせた。
「詩歌さんからの言葉ね」
美月が微笑んだ。
「今度、私たちも夜間図書館を訪れてみましょう」
「きっと素敵な体験ができそう」
千花も楽しそうだ。
その夜、璃音は自分の研究室で一人、論文を書いていた。しかし今は義務感からではなく、純粋な喜びから書いている。量子の世界の美しさを言葉で表現する喜び。
ふと窓の外を見ると、月が美しく輝いている。満月まであと少しだ。
璃音は基礎体温表を見た。今日は黄体期の中頃。この時期は感性が豊かになり、文章を書くのに適している。自分の身体のリズムを理解してから、すべてがスムーズに進むようになった。
スマートフォンのアプリには、美月と千花の周期も表示されている。明日は美月が卵胞期に入る予定で、新しいアイデアが生まれやすい時期だ。明後日の研究ミーティングで、新しいプロジェクトの相談をしてみよう。
論文を書き終えた璃音は、『時間の贈り物』を開いた。
『あなたが見つけた時間の質は、多くの人の心に響いています。その輪がさらに広がっていくでしょう。あなたは時間の新しい可能性を示したのです』
璃音は微笑んだ。確かに最近、時間に対する考え方が変わったという女性研究者からの連絡が増えている。学会でも「身体のリズムと研究効率」についてのセッションが設けられるようになった。
璃音は窓辺に立ち、月を見上げた。あの夜、詩歌に出会わなければ、今の自分はなかっただろう。時間の質という概念、身体のリズムの大切さ、そして女性同士の深い絆。すべてが繋がって、今の豊かな人生がある。
時間は確かに贈り物だった。そして今、璃音は自分もその贈り物を多くの人に渡している。研究を通じて、後輩指導を通じて、講演を通じて。
明日もまた、素晴らしい一日が始まる。美月と千花と一緒に、新しい発見を求めて。そして時には、三人で夜間図書館を訪れて、詩歌との再会を楽しみに。
璃音は深い満足感とともに、今日という特別な時間に感謝した。
時間は流れ続ける。しかし今、璃音はその流れの中で、自分らしいリズムで生きている。それこそが、時間からの最大の贈り物なのかもしれない。
(了)