第六章:新しい周期
璃音の予想通り、排卵期に入ると集中力が格段に向上した。月曜日の朝、研究室に向かう足取りも軽やかだ。今日はクリーム色のブラウスにグレーのパンツ、足元は歩きやすいローファー。アクセサリーは小さなダイヤのピアスと、美月からプレゼントされた守護石のブレスレット。
研究室で量子もつれの計算に取り組む。先週まで行き詰まっていた問題が、まるで霧が晴れるように解けていく。数式の美しい対称性が見えてくる。
「璃音、調子良さそうね」
美月が声をかけてくる。
「ええ、とても。身体のリズムって本当に大切なのね」
「私も今日は好調よ。新しいタンパク質の結晶構造が美しく解析できた」
二人は微笑み合った。
午後、千花が研究室を訪れた。今日の千花は少し元気がない。いつものような弾むような足取りではなく、肩を落として歩いている。
「千花ちゃん、どうしたの?」
璃音は千花の隣に座った。
「実は……生理痛がひどくて。でも実験があるから休めなくて」
千花の顔色は確かに悪い。額に薄っすらと汗をかいている。
「無理しちゃダメよ。今日は早めに帰りましょう」
「でも、データ解析が……」
「データは明日でも大丈夫。千花ちゃんの身体の方が大切」
璃音は千花の手を取った。冷たくなっている。
「少し横になりましょう」
璃音は千花を研究室の奥にある休憩スペースに案内した。ソファに横になった千花のお腹に、温かいクッションを当ててあげる。
「先輩……ありがとうございます」
千花の目に涙が浮かんでいる。
「どうしたの? 痛いの?」
「痛いのもあるけど……実は家族に『女だからって甘えるな』って言われて」
璃音は胸が痛んだ。
「そんなことないわ。生理痛は病気と同じ。無理をする必要なんてない」
「でも研究者として、男性と同じように働かなきゃって思ってしまって」
「千花ちゃん」
璃音は千花の髪を優しく撫でた。髪は柔らかく、少し汗で湿っている。
「男性と同じである必要はないの。女性には女性のリズムがある。それを大切にすることで、かえって良い研究ができるのよ」
千花は璃音を見上げた。
「本当ですか?」
「ええ。美月さんも同じことを言っていた。月経周期に合わせて研究のペースを調整すると、生産性が上がるって」
璃音は自分の体験も話した。身体のリズムを意識し始めてから、研究がスムーズに進むようになったこと。
「今度、美月さんと温泉旅行に行くんだけど、千花ちゃんも一緒に来ない? 身体を労わる時間も大切よ」
「本当ですか! ぜひお願いします」
千花の顔が明るくなった。
その日の夜、璃音は『月の暦』を読み返していた。すると、新しいページが現れた。
『女性研究者のための時間術』
そのページには、月経周期と知的生産性の関係について詳しく書かれていた。
月経期(1-5日目):無理をせず、休息と内省の時間に充てる
卵胞期(6-13日目):新しい学習やアイデア出しに適している
排卵期(14-16日目):集中力が最高潮、重要な実験や論文執筆に
黄体期(17-28日目):詳細な作業や見直し作業に適している
さらに、各時期に適した食事や運動、スキンケアについても記載されていた。
璃音は感動した。これはまさに科学的なアプローチだ。身体のホルモンバランスを理解し、それに合わせて活動を最適化する。
翌日、璃音は美月と千花を誘って、ランチミーティングを開いた。場所は研究棟内のカフェテリア。
「『女性研究者のための時間術』について話し合いましょう」
璃音は『月の暦』から得た知識を二人に共有した。美月は興味深そうに聞いている。
「理論的に納得できるわ。エストロゲンとプロゲステロンの変動が、認知機能に影響を与えることは知られているもの」
「私、まさに昨日が月経初日だったんです」
千花が少し恥ずかしそうに言った。
「だから体調が悪かったのね。無理しなくて正解よ」
璃音は千花の手を握った。
「今度からは、みんなで共有しましょう。お互いの周期を知っていれば、サポートし合えるし」
「素晴らしいアイデアね」
美月が賛成した。
「研究チームとしても効率的だわ。みんなの集中力が高い時期に重要な会議を設定したり、体調が優れない時期は無理をさせなかったり」
三人は専用のアプリで情報を共有することにした。個人的な部分は秘密にして、研究に関わる部分だけを共有する。
その週から、三人の研究チームは新しいリズムで動き始めた。
璃音の排卵期には、重要な理論計算を集中的に行う。美月の卵胞期には、新しい実験のアイデア出しをする。千花の黄体期には、データの詳細な分析を担当する。
月経期の人がいる時は、その人の負担を軽くし、他の二人がサポートする。
一ヶ月後、彼女たちの研究効率は飛躍的に向上していた。
ある日、研究室の男性教授が興味深そうに聞いた。
「君たちのチーム、最近とても生産性が高いね。何か秘訣があるのかい?」
璃音は美月と千花を見た。二人とも微笑んでいる。
「はい。時間の質を大切にするようになったんです」
教授は首をかしげたが、成果は明らかだった。
「なるほど……時間の質か。興味深い概念だね」
その夜、璃音は夜間図書館のことを思い出した。詩歌に会いたくなった。そして、あの時受け取った『月の暦』の本を返しに行かなければ。