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第五章:身体が教えてくれること

 璃音が『月の暦』に従って身体の記録をつけ始めて一週間が過ぎた。毎朝、基礎体温を測り、体調や気分をアプリに記録する。最初は面倒に感じたが、次第に自分の身体のパターンが見えてきた。


 今日は土曜日。璃音は久しぶりに一日を自分のために使うことにした。朝はゆっくりと起床し、お気に入りのオーガニックコスメでスキンケアを丁寧に行う。化粧水は手のひらで温めてから顔に押し込み、美容液は首筋まで伸ばす。こうした時間も、かつては無駄だと思っていた。


 ベージュのニットワンピースに茶色のロングカーディガンを羽織り、足元はローヒールのショートブーツ。アクセサリーは控えめに、小さなパールのピアスと華奢なゴールドのブレスレットだけ。鏡の中の自分が、以前より生き生きして見える。


 璃音は美月に誘われて、都心の百貨店に買い物に出かけることになっていた。美月とは研究室以外で会うのは初めてで、少し緊張している。


 待ち合わせ場所で美月を見つけた時、璃音は驚いた。普段の白いブラウス姿とは違い、美月は濃紺のトレンチコートにスカーフを合わせ、とても洗練されている。髪も普段のシンプルなボブスタイルではなく、軽く巻いてある。


「璃音!」


 美月が手を振りながら近づいてくる。


「美月さん、とても素敵」


「ありがとう。璃音もいつもより柔らかい印象ね」


 二人は百貨店のコスメフロアを回った。美月は意外にも化粧品に詳しく、璃音にいくつかのブランドを紹介してくれた。


「この美容液、とてもいいのよ。ヒアルロン酸とビタミンC誘導体が配合されていて、肌の弾力が戻る」


 美月は商品を手に取りながら説明する。


「研究者だからといって、美容を疎かにする必要はないのよ。むしろ自分を大切にすることで、研究にも良い影響が出ると思う」


 璃音は美月の考え方に共感した。これまで美容は虚飾だと思っていたが、実際は自分を労わる行為なのかもしれない。


 次にランジェリーフロアを訪れた。美月は迷いなく高級ブランドのコーナーに向かう。


「下着って大切よ。見えない部分だからこそ、本当に自分が好きなものを身につけたい」


 美月は淡いピンクのシルクのセットを手に取った。


「この色、璃音に似合いそう。試着してみない?」


 璃音は少し躊躇したが、美月に勧められて試着室に向かった。シルクの下着を身につけると、肌触りが心地よく、気分が上がった。鏡の中の自分が、いつもより女性らしく見える。


「どう?」


 試着室の外で美月が声をかける。


「とても気に入りました」


「良かった! 女性として生まれたからには、こういう楽しみも大切よね」


 璃音はそのセットを購入し、さらに普段使いの上質なコットンの下着も何枚か選んだ。


 昼食は百貨店内のフレンチレストランで取った。窓際の席から街の景色を眺めながら、二人はゆっくりと食事を楽しんだ。


「璃音、最近研究の調子はどう?」


「実は、少し変わってきたんです」


 璃音はこの一週間の変化について話した。身体のリズムに合わせて研究のペースを調整するようになったこと、無理に集中しようとせず、休憩を適度に取るようになったこと。


「素晴らしいじゃない。それで成果は?」


「不思議なことに、かえって効率が上がったんです。昨日は久しぶりに、量子もつれの新しい解釈を思いついて」


「やっぱり!」


 美月は嬉しそうに手を叩いた。


「私も経験があるの。身体と心が調和している時、創造性が高まる。脳科学的にも証明されているのよ」


 璃音は美月の手を軽く握った。


「美月さんのおかげです。ありがとう」


「何を言ってるの。璃音が自分で気づいたのよ」


 午後は、美月の提案でアロマテラピーサロンを訪れた。エッセンシャルオイルの香りに包まれた空間で、二人は全身マッサージを受けた。


 マッサージ中、璃音は久しぶりに完全にリラックスできた。セラピストの手が背中の凝りをほぐしていく。普段意識していなかったが、肩甲骨の周りがかなり凝っていた。


「お客様、かなりお疲れのようですね。特に首から肩にかけて、筋肉が緊張しています」


「長時間デスクワークが続いているので」


「定期的にケアされることをお勧めします。身体の緊張は心の緊張にもつながりますから」


 セラピストの言葉が心に響いた。身体と心は確実につながっている。


 マッサージ後、璃音は別人のように軽やかな気分になった。美月も同様で、二人の顔色が明らかに良くなっている。


「璃音、すごく綺麗になったわ」


「美月さんも。お肌がツヤツヤしてる」


 帰り道、二人は手を繋いで歩いた。女性同士で手を繋ぐのは久しぶりで、温かい親近感を感じる。


「今度は温泉旅行でもしましょうか」


 美月が提案した。


「いいですね。千花ちゃんも誘ってみます」


「あの可愛い学生さんね。彼女も研究で悩んでいるみたいだから、リフレッシュできそう」


 その夜、璃音は久しぶりに早く帰宅し、購入したシルクの下着とナイトウェアに着替えた。肌触りが心地よく、気分が上がる。


 『月の暦』を開き、今日の体調と気分を記録する。体調は「とても良い」、気分は「穏やか、満足感」と書いた。


 ベッドに入る前、璃音は鏡の前に立った。今日一日で、確実に何かが変わった。外見だけでなく、内面も。自分を大切にすることの意味を、身体で理解した気がする。


 スマートフォンのアプリを確認すると、明日から排卵期に入る予定だった。この時期は集中力が高まるとされている。明日は重要な計算に取り組んでみよう。


 璃音は深い安らぎの中で眠りについた。



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