第四章:量子もつれの絆
翌朝、璃音は研究室に向かう前に、久しぶりにゆっくりと朝の支度をした。『月の暦』に書かれていた通り、まず自分の身体に意識を向ける。
シャワーを浴びながら、お腹の調子はどうか、肩の凝りはあるか、今日の気分はどうかを確認する。基礎化粧品を丁寧に塗りながら、肌の状態を観察する。最近少し乾燥気味だ。ストレスの影響だろうか。
メイクも普段より時間をかける。アイシャドウはソフトなブラウン系、リップは自然なピンクベージュ。鏡の中の自分が、少し穏やかに見える。
研究室に着くと、同僚の早乙女美月が既に到着していた。美月は璃音より二歳年上で、構造生物学が専門だ。ショートカットの髪に知的な印象の眼鏡、いつも清潔感のある白いブラウスを着ている。
「おはよう、璃音。昨日は遅くまでお疲れ様」
「おはよう、美月さん。今日は早いのね」
「X線結晶構造解析の測定があるの。璃音は調子どう? 最近、少し疲れて見えるけど」
美月の気遣いが嬉しかった。璃音は美月を尊敬していた。研究者として優秀なだけでなく、いつも周囲への配慮を忘れない。そして何より、自分のペースを大切にしている。
「実は……最近、研究に集中できなくて」
「そういう時期もあるわよ。私も去年、同じような状態だった」
美月は璃音の隣の椅子に座った。
「良かったら、お昼に一緒に食事しない? 最近オープンしたオーガニックカフェ、とても居心地がいいの」
「ありがとう。ぜひお願いします」
午前中、璃音は量子もつれの計算に取り組んだ。しかし今日は違った。無理に集中しようとせず、自分の身体のリズムに合わせて休憩を取る。疲れを感じたら少し歩き、お茶を飲む。そうすると、かえって集中力が持続することに気づいた。
昼休みに美月とオーガニックカフェに向かった。店内は自然光がたっぷりと入り、観葉植物が美しく配置されている。二人は窓際の席に座り、キヌアサラダとハーブティーを注文した。
「璃音、何か変わったことない? 今日はいつもより落ち着いて見える」
「そうかしら? 実は昨夜、不思議な体験をして」
璃音は夜間図書館での出来事を話した。美月は最初驚いた顔をしたが、璃音の話を真剣に聞いている。
「時間の質……興味深い考え方ね」
美月はハーブティーのカップを両手で包みながら言った。
「実は私も似たような体験があるの。去年、研究が行き詰まった時、母の実家に帰ったのよ。田舎の古い家で、祖母の日記を読んでいたら、時間の感覚が変わった」
「どんな風に?」
「祖母は毎日、季節の移ろいや身体の変化を丁寧に記録していたの。『今日は朝露が美しい』『月経二日目、腰が重い』『庭の薔薇が咲き始める』って」
美月の目が遠くを見つめている。
「現代の私たちは、時間を数値でしか測らない。でも祖母にとって時間は、身体と自然のリズムそのものだった」
璃音は深く頷いた。美月の話は、詩歌から聞いた「時間の音楽」という概念と重なっている。
「美月さんは、その後どうしたの?」
「研究のやり方を変えたの。月経周期に合わせてスケジュールを組むようになった。生理前は細かい作業は避けて、大きな構想を練る。排卵期の集中力が高い時期に重要な実験を行う」
美月は微笑んだ。
「最初は同僚の男性研究者たちに理解してもらえなかったけど、結果的に生産性が上がったのよ」
「素晴らしいわ」
璃音は感動していた。美月は科学者として優秀でありながら、女性としての身体のリズムも大切にしている。それはまさに璃音が求めていたバランスだった。
「璃音も試してみたら? まず三ヶ月、身体の記録をつけてみる。きっと新しい発見があるわよ」
午後、研究室に戻った璃音は、『月の暦』を開いてみた。今日から基礎体温と体調の記録を始めることにした。スマートフォンのアプリもダウンロードした。薄いピンクの可愛いデザインで、月経周期や体調を楽しく記録できそうだ。
夕方、璃音の指導学生である一年生の小鳥遊千花が研究室を訪れた。千花は十九歳、小柄で人形のように可愛らしい顔立ちをしている。今日は薄いブルーのカーディガンに白いスカート、足元は小さなリボンがついたバレエシューズ。
「璃音先輩、お疲れ様です」
千花の声は鈴のように澄んでいる。
「千花ちゃん、お疲れ様。今日の実習はどうだった?」
「実は……量子もつれの概念がよく理解できなくて」
千花は申し訳なさそうに俯いた。その仕草がとても愛らしく、璃音は思わず微笑んだ。
「大丈夫よ。量子もつれは直感的に理解しにくい現象だから」
璃音は千花の隣に座った。千花の髪からシャンプーの爽やかな香りがする。
「例えば、千花ちゃんと私が心でつながっているとしたら? 私が嬉しい時、千花ちゃんも嬉しくなる。私が悲しい時、千花ちゃんも悲しくなる。距離は関係なく、瞬時に」
「それが量子もつれ……」
千花の目が輝いた。
「そう。二つの粒子が量子もつれ状態にあると、一方の状態を測定すると、もう一方の状態も瞬時に決まる。アインシュタインは『不気味な遠隔作用』と呼んだけれど」
璃音は千花の手を軽く握った。千花の手は小さく、温かい。
「でも私は美しい現象だと思うの。離れていても、つながっている。宇宙には見えない絆がある」
千花は璃音の手を握り返した。
「先輩と私も、量子もつれしているみたい」
二人は笑った。その瞬間、璃音は感じた。これこそが自分の求めていた時間の質だった。研究への純粋な情熱、人とのつながり、女性同士の温かな絆。