第三章:失われたリズム
璃音は大学院生の自分に戻っていた。研究室で実験に夢中になっている二十三歳の自分。あの頃は、新しい発見への純粋な好奇心に満ちていた。
若い璃音は白いラボコートを着て、量子もつれの実験装置の前に立っている。髪をポニーテールにまとめ、素っぴんの顔は興奮で紅潮していた。あの頃は化粧をする時間も惜しんで研究に没頭していた。
「素晴らしい結果ですね、璃音さん」
指導教授の声が聞こえる。あの頃は、自分の研究が世界を変えるかもしれないと本気で信じていた。名声や地位ではなく、真理への探求心が原動力だった。
場面が変わる。今度は大学一年生の璃音。初めて量子力学の講義を受けている。
「粒子は観測されるまで、すべての可能な状態の重ね合わせで存在しています」
教授の言葉に、十八歳の璃音は目を輝かせている。その瞬間、璃音は運命を感じた。この不思議で美しい量子の世界こそが、自分の求めていたものだと。
次の場面。中学生の璃音が、母親と一緒に科学館を訪れている。
「お母さん、なぜ光は波であり粒子でもあるの?」
母親は答えられなかったが、代わりに図書館に連れて行ってくれた。そこで初めて量子物理学の入門書に出会った。夢中になって読み、分からない部分があると何度も読み返した。
「そうだった……」
璃音は思い出していた。自分が科学の道を選んだ原点。それは純粋な「なぜ?」という疑問だった。世界の謎を解き明かしたいという、少女のような好奇心。
しかし現在の璃音は、いつから結果ばかりを追い求めるようになってしまったのだろう。研究費、論文の被引用数、学会での評価。いつしか科学への純粋な愛情を見失っていた。
そして気づく。失ったのは研究への情熱だけではない。自分自身の身体のリズムも失っていた。
場面が変わり、大学四年生の璃音が映る。彼女は友人たちと温泉旅行に行き、露天風呂でリラックスしている。
「璃音、最近生理の周期、安定してる?」
友人の一人が気遣って聞く。
「うん、だいたい二十八日周期で来てる。体調もいいし」
「いいなあ。私なんて研究で徹夜続きだから、もうバラバラよ」
あの頃の璃音は、自分の身体と向き合う時間を持っていた。月経周期を記録し、体調に合わせて研究のペースを調整していた。生理痛がひどい時は無理をしない、排卵期の集中力が高まる時期は重要な実験を行う。そんな自然なリズムで生活していた。
今の璃音は、身体のサインを無視し続けている。月経周期の記録も、いつの間にかつけなくなった。基礎体温も測らない。化粧品は高級なものを使っているが、それは外見を整えるためであって、自分を労わるためではない。
光が薄れ、璃音は再び図書館にいた。詩歌が心配そうに見つめている。
「いかがでしたか?」
「失ったものが……多すぎました」
璃音の声は震えていた。詩歌が璃音の手を両手で包む。
「失ったのではありません。ただ、見えなくなっているだけです」
詩歌の手は温かく、まるで母親の手のようだった。
「でも、どうすれば取り戻せるのでしょう」
「まず、ご自分の身体と和解することから始めましょう」
詩歌は璃音を別の本棚へ案内した。そこには『身体のリズム』『月の暦』『女性の時間』といった本が並んでいる。
「女性の時間は直線的ではありません。月の満ち欠けのように循環的です。その循環を理解し、受け入れることで、真の調和が生まれます」
詩歌は『月の暦』という本を取り出した。表紙は深い青色で、銀色の月の満ち欠けが描かれている。
「この本をお貸しします。三日間、ご自分の身体の声に耳を傾けてください」
璃音は本を受け取った。触れた瞬間、不思議な安らぎが心に広がった。