表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/8

第三章:失われたリズム

 璃音は大学院生の自分に戻っていた。研究室で実験に夢中になっている二十三歳の自分。あの頃は、新しい発見への純粋な好奇心に満ちていた。


 若い璃音は白いラボコートを着て、量子もつれの実験装置の前に立っている。髪をポニーテールにまとめ、素っぴんの顔は興奮で紅潮していた。あの頃は化粧をする時間も惜しんで研究に没頭していた。


「素晴らしい結果ですね、璃音さん」


 指導教授の声が聞こえる。あの頃は、自分の研究が世界を変えるかもしれないと本気で信じていた。名声や地位ではなく、真理への探求心が原動力だった。


 場面が変わる。今度は大学一年生の璃音。初めて量子力学の講義を受けている。


「粒子は観測されるまで、すべての可能な状態の重ね合わせで存在しています」


 教授の言葉に、十八歳の璃音は目を輝かせている。その瞬間、璃音は運命を感じた。この不思議で美しい量子の世界こそが、自分の求めていたものだと。


 次の場面。中学生の璃音が、母親と一緒に科学館を訪れている。


「お母さん、なぜ光は波であり粒子でもあるの?」


 母親は答えられなかったが、代わりに図書館に連れて行ってくれた。そこで初めて量子物理学の入門書に出会った。夢中になって読み、分からない部分があると何度も読み返した。


「そうだった……」


 璃音は思い出していた。自分が科学の道を選んだ原点。それは純粋な「なぜ?」という疑問だった。世界の謎を解き明かしたいという、少女のような好奇心。


 しかし現在の璃音は、いつから結果ばかりを追い求めるようになってしまったのだろう。研究費、論文の被引用数、学会での評価。いつしか科学への純粋な愛情を見失っていた。


 そして気づく。失ったのは研究への情熱だけではない。自分自身の身体のリズムも失っていた。


 場面が変わり、大学四年生の璃音が映る。彼女は友人たちと温泉旅行に行き、露天風呂でリラックスしている。


「璃音、最近生理の周期、安定してる?」


 友人の一人が気遣って聞く。


「うん、だいたい二十八日周期で来てる。体調もいいし」


「いいなあ。私なんて研究で徹夜続きだから、もうバラバラよ」


 あの頃の璃音は、自分の身体と向き合う時間を持っていた。月経周期を記録し、体調に合わせて研究のペースを調整していた。生理痛がひどい時は無理をしない、排卵期の集中力が高まる時期は重要な実験を行う。そんな自然なリズムで生活していた。


 今の璃音は、身体のサインを無視し続けている。月経周期の記録も、いつの間にかつけなくなった。基礎体温も測らない。化粧品は高級なものを使っているが、それは外見を整えるためであって、自分を労わるためではない。


 光が薄れ、璃音は再び図書館にいた。詩歌が心配そうに見つめている。


「いかがでしたか?」


「失ったものが……多すぎました」


 璃音の声は震えていた。詩歌が璃音の手を両手で包む。


「失ったのではありません。ただ、見えなくなっているだけです」


 詩歌の手は温かく、まるで母親の手のようだった。


「でも、どうすれば取り戻せるのでしょう」


「まず、ご自分の身体と和解することから始めましょう」


 詩歌は璃音を別の本棚へ案内した。そこには『身体のリズム』『月の暦』『女性の時間』といった本が並んでいる。


「女性の時間は直線的ではありません。月の満ち欠けのように循環的です。その循環を理解し、受け入れることで、真の調和が生まれます」


 詩歌は『月の暦』という本を取り出した。表紙は深い青色で、銀色の月の満ち欠けが描かれている。


「この本をお貸しします。三日間、ご自分の身体の声に耳を傾けてください」


 璃音は本を受け取った。触れた瞬間、不思議な安らぎが心に広がった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ