第二章:時間の調律師
詩歌について本棚の間を歩く。璃音は詩歌の後ろ姿を見つめていた。歩き方ひとつとっても、まるで舞踏家のように優雅で、ドレスの裾が床を滑るように揺れている。
よく見ると、本の背表紙に書かれているのは普通のタイトルではない。
『1995年の桜並木』『初恋の手紙』『母の手料理』『最初の挫折』『忘れられた約束』
「これは……」
「時間の本です」
詩歌が振り返って説明した。月明かりが差し込む窓の近くで、彼女の肌は陶器のように美しく輝いている。
「この図書館には、あらゆる時間が本になって保管されています。過去の時間、未来の時間、そして失われた時間も」
璃音は困惑した。
「時間が本に?」
「そうです。時間は物理学では四次元の座標軸として扱われますが、実際には音楽のようなものなのです。リズムがあり、旋律があり、調和がある。けれど多くの方は、そのリズムを見失ってしまわれます」
詩歌の説明は璃音の専門分野に触れていた。確かに一般相対性理論では時間は空間と不可分な時空連続体として扱われる。しかし詩歌の言う「音楽のような時間」という表現は新鮮だった。
さらに歩くと、璃音の目に一冊の本が飛び込んできた。
『神崎璃音の失われた時間』
自分の名前が入った本がある。手に取ると、ずっしりとした重みがあった。装丁は美しく、表紙には複雑な幾何学模様が金糸で刺繍されている。
「これは?」
「あなたが忙しさに紛れて失ってしまった時間たちです」
詩歌が璃音の隣に立つ。二人の距離が近くなり、詩歌の体温と微かな香水の匂いが感じられる。フリージアとホワイトムスクの香りだ。
「開いてみませんか?」
璃音は本を開いた。すると、ページから淡い光が溢れ出し、周囲の風景が変わった。