第一章:迷子の夜
深夜の研究室で、神崎璃音は四つ目のカフェラテを空にした。オーガニックの豆乳で作ったラテは、普段なら彼女の疲れを癒してくれるはずだった。しかし今夜は違う。画面に映る量子もつれの数式は相変わらず解けないまま、璃音の疲れ切った瞳を見つめ返している。
「また徹夜……」
呟いて、手首の繊細なローズゴールドの時計を見ると午前二時半を回っていた。この時計は大学院修了の記念に自分へのご褒美として買ったもので、文字盤には小さなダイヤモンドが12個散りばめられている。明日の――いや、正確には今日の研究会議までに、この量子計算の理論証明を完成させなければならない。
璃音は二十九歳。量子情報学の若手研究者として、それなりに名を知られていた。論文は国際的に評価され、研究費も潤沢に獲得できている。同世代の女性研究者の中では、確実に成功している部類だった。
けれど最近、何のために数式と格闘しているのか分からなくなることが多い。特に月経周期が乱れ始めてから、集中力も体調も思うようにいかない。婦人科では「ストレスでしょう」と言われたが、ストレスの原因が分からない。研究は順調、人間関係も悪くない。なのに何かが欠けている気がする。
研究室を出て、人気のない廊下を歩く。いつもなら自動販売機でまたカフェインを補給して研究室に戻るのだが、今夜は無性に外の空気が吸いたくなった。
大学の正門を出て、深夜の街を歩く。目的地はない。ただ歩いているだけだった。オフホワイトのカシミアコートを羽織り、足元はお気に入りのスエードのショートブーツ。月明かりに照らされた璃音の長い髪は、微かにバニラの香りのヘアオイルの匂いがしている。
気がつくと、見慣れない住宅街に入り込んでいた。
「どこかしら、ここ」
スマートフォンのGPSを確認しようとしたが、なぜか圏外になっている。この機種に変えたばかりなのに、もう不具合だろうか。ローズピンクのケースに包まれた画面には「圏外」の文字が点滅している。
困惑しながら歩いていると、街角に小さな建物を見つけた。看板には「夜間図書館」とある。建物は古いが、まるでアンティークのジュエリーボックスのような繊細な装飾が施されている。こんな時間に開いている図書館があるのだろうか。
重厚な木製の扉は開いていた。中に入ると、薄暗い照明に照らされた本棚が並んでいる。普通の図書館とは様子が違う。本棚は天井まで続き、まるで無限に高く伸びているように見える。空気には古い本の匂いと、微かにラベンダーとローズマリーの香りが混じっている。
「いらっしゃいませ」
振り返ると、美しい女性が立っていた。年齢は分からない。二十代後半にも見えるし、永遠に歳を重ねない存在のようにも見える。彼女は深いブルーのロングドレスを着ており、首元には月の形をしたシルバーのペンダントが揺れている。髪は腰まで届くほど長く、まるで絹糸のような光沢がある。
「こんな時間に図書館が開いているとは思わなくて」
「ここは夜間図書館です。疲れた魂のための図書館ですの」
女性は柔らかく微笑んだ。その声は鈴の音のように澄んでいて、璃音の心の奥深くに響いた。
「どのような本をお探しですか?」
「特に何か探しているわけでは……」
「では、ご案内いたしましょう」
女性は璃音に軽く手を差し伸べた。その手は驚くほど温かく、柔らかだった。
「私は詩歌と申します。この図書館で、時間を調律する仕事をしています」
「時間を調律?」
「はい。みなさまがお持ちの時間を、最も美しく響くように整える仕事です」