孤独
夜が、いつの間にか訪れていた。部屋には窓がない。時間を示すものも何もない。ただ、空気の温度がほんの少し下がり、通気口の向こうから漂ってくる匂いが変わったことで、ようやく“夜”の訪れを知った。
天井近くの壁に据えられたたいまつが、最後のかすかな炎を揺らめかせていた。昼間よりもさらに弱まったその光は、辺りを照らすには心許なく、まるで「闇を完全には許さない」という意思だけがそこに残っているように思えた。
通気口は高い位置にあって、わずかに外の気配を運んでくる。湿った外気、遠くの風の音。でも、鉄格子がそれを断ち切っていた。匂いも音も、断片しか届かない。外界はあまりにも遠く、閉ざされていた。
やがて、たいまつの火はゆっくりと小さくなり、その微光さえも薄れていった。部屋の中は輪郭を失うほどの暗さに包まれた。
静寂が満ちていた。自分の呼吸音や、シーツが擦れる音だけがやけに大きく響く。そのすべてが、外の世界と切り離されていることを突きつけてくる。ここにいること自体が罰のように思えてきた。“存在するだけで罪”──そんな感覚に支配されそうになる。
ベッドに横たわったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。目を閉じると、次々に記憶が浮かんでは消えていく。
夜の村の匂い──湿った土と、炊きたての粥の香り。焚き火のはぜる音が耳の奥に蘇る。あの家の中は、いつだって誰かの声があった。
明るくて、おしゃべりで、時々歌い出す母。料理をしながら「おかわりはまだよ」と笑う顔が目に浮かぶ。
寡黙だけれど、目が合えばふっと笑ってくれた父。大きな手で頭を撫でてくれたときの安心感は、今でも忘れられない。
そして──無邪気で、なんでも笑い飛ばしていた弟。転んで泣いて、すぐにまた立ち上がって笑っていた。
妹が笑って、はしゃいで、転んで泣いて、また笑った日々。ロルフがくれた、ぶっきらぼうで不器用な優しさ──「俺は、お前の味方だ」と言ってくれた声。
……みんなどうしてるんだろう。
小さくつぶやいてみた。でも、返事はなかった。ここには、言葉を受け取ってくれる存在がいない。音は、ただ空気に飲まれて消えていくだけだった。
当たり前だった“声”や“光”──そのすべてが、今では幻みたいに思える。あの頃の自分が、本当に存在していたのかさえ、不安になってくる。
気がつけば、左手首に指が触れていた。
もう、そこにはアナセイアの腕輪はない。金属の冷たさも、ほのかな振動も、あの点滅する光も──何ひとつ残っていない。
それでも、感触の“記憶”だけが皮膚にこびりついている気がして、無意識のうちにそっと撫でた。
「……アナセイア」
その名を口に出すと、あまりにも頼りなくて、自分の声が空気に吸い込まれていくのがわかった。誰にも届かない祈りみたいだった。
「聞こえてる……?」
その瞬間、耳の奥で、かすかな揺らぎがあった。音にならないノイズのような反応。誰かが何かを言おうとして、それが届かずかき消されてしまったような気配。
思わず胸が震えた。
「アナセイア……ねえ、返事してよ……」
もう一度、名を呼ぶ。祈るように、願うように。
でも──何も返ってこなかった。
ノイズすら、消えていた。完全な沈黙。
アナセイアは、もう僕に届かない。
声も、気配も、存在そのものが──まるで最初からなかったみたいに、世界から滑り落ちてしまった。
言葉を、奪われた気がした。
アナセイアは、いつも僕の言葉を聞いてくれた。意味が通じなくても、感情が整理できなくても、彼女は決して否定しなかった。言葉のかけらさえ、拾い上げてくれた。
でも、もうその声はない。
……僕は、ひとりなんだ。
胸の奥に、冷たい穴が空いたみたいだった。
誰とも話せない。誰にも届かない。誰も、こっちを見ていない。
「僕を、理解してくれるものが……もう、いないんだ」
その言葉は、すぐに空気に溶けて消えた。
眠れなかった。
部屋の中は静まり返っていた。音がないわけじゃない。むしろその逆だった。寝返りを打つたびに、粗末な寝具が軋む音が耳に刺さる。薄布の衣が肌に擦れる音すら、ひどく鮮明に響いた。すべてが、今この空間に“僕がいる”という事実を容赦なく突きつけてくる。
目を閉じていても、天井の一角に据えられたたいまつの光が、かすかに揺れているのがわかった。火が燃えるたび、壁に映る影が微かに揺れて見える。まるで、静寂の中でさえも誰かに見張られているような、そんな気配があった。
どこかで風が吹いている音が聞こえた。鉄格子の奥──あの通気口の向こうにある世界が、今も動き続けていることだけは、かすかに想像できた。
でも、そこに僕の居場所はない。
……なんで、こんなところにいるんだろう。
問いかけても、答えは返ってこなかった。アナセイアの声は、もう聞こえない。口に出しても、心で叫んでも、その先は空っぽのままだ。何度も、何度も、左手首に触れてみた。あの金属の感触を確かめたくて──けれど、もう何もなかった。
あれほど、いつもすぐそばにいてくれたのに。
言葉を奪われたみたいだった。耳も、口も、心も、何か大切な回路が途絶えたまま。誰にも理解されず、誰にも届かない、そんな夜。
僕は、ゆっくりとポケットに手を入れた。
手のひらの奥に、ひとつの硬い感触があった。冷たい金属。それでも、なぜかそこには温もりを感じた。セレン様から渡された、あの聖印だった。
取り出して、掌の中に包み込むようにして握りしめる。
それだけで、ほんの少しだけ、心が和らいだ気がした。いや、そう思い込みたかっただけかもしれない。
「……セレン様、僕……どうしたらいいんですか」
口からこぼれた声は、自分でも驚くほど小さく震えていた。気づかないうちに、胸の奥がぎゅっと締めつけられていた。祈るように、問いかけるように、言葉が漏れていった。
頼れるものなんて、もうこれしかない──そんな風に思ってしまうほどに、世界は遠く、冷たかった。
たいまつの光を受けて、聖印の金属が微かにきらめいた。暗がりのなか、その輝きだけが、唯一確かなものに見えた。
答えはない。けれど、それでも僕はその光を見つめながら、静かに夜を迎えた。
孤独で、答えのない夜を。たしかに、ひとりきりで。




