別れ
夕暮れが落ち着き、いつもより少しだけ丁寧に盛りつけられた夕食が食卓に並んだ頃、僕は意を決して、家族の顔を見渡した。ルナは僕の隣でスプーンを構え、ノアは母に抱かれたまま小さく笑っている。父は腕を組み、無言で僕を見ていた。母は何かをこらえるように微笑みを浮かべながら、食卓を整えていた。
──いま、言わなくては。
この空気のまま、当たり障りない会話をして終わることもできた。でも、明日になれば僕はこの家を離れる。教会の本部に連れて行かれる。その先がどうなるのか、確かなことは何もない。だからこそ、今この場で、自分の想いを伝えておきたかった。
「……僕、行ってくるよ」
少しだけ震えた声だった。けれど、言葉に込めた覚悟は、僕の中で確かに燃えていた。
「教会本部に行くのは、正直、怖い。でも……それでも、僕は自分で選んだんだ。あの遺跡に行ったことも、自分の力を知ろうとしたことも──全部、自分の意志だったから」
食卓に一瞬、沈黙が走る。ルナが僕の顔を不思議そうに見上げ、ノアが小さく声をあげた。
父がゆっくりと腕を組み直し、低く静かな声で言った。
「……もう決めたんだな」
僕はうなずいた。その一言に、父の目がわずかに細められる。
「なら、言っておくが──怖がるなとは言わない。だが、お前がどんな決断をしても、俺たちはお前の“帰る場所”であり続ける。お前の選んだ道が、どれほど苦しくとも、最後に戻る場所があると信じろ」
父の言葉は、不器用で、でも真っ直ぐだった。感情を多く語る人ではないけれど、その一言一言が胸に響く。
「……ありがとう、父さん」
母がノアをあやしながら、ゆっくりと口を開いた。
「ユウリ、私ね……ずっと考えてたの。あなたがこんなに成長して、自分で道を選ぶ日が来るなんて、まだまだ先だと思ってた。でも、あの力を手にしてからのあなたは、少しずつ変わっていったよね。自分で考えて、自分で動いて……そして今、自分で決めて、旅立とうとしてる」
母の声が、少しだけ震えていた。ノアをそっと抱き寄せながら、言葉を続ける。
「本当はね、止めたいの。どこにも行かないでって、抱きしめて、そう言いたい。でも、それじゃいけないのよね……。あなたはもう、自分の足で歩いているんだもの」
母の頬を、一筋の涙が静かに流れた。僕は思わず立ち上がり、母のそばへ歩み寄って、そっとその手を握った。
「母さん……ありがとう。僕、大丈夫だよ。必ず、帰ってくる」
「うん……待ってる。ずっと待ってるから」
母の手が、僕の手を包み込む。温かくて、優しくて、でもどこか寂しさが滲んでいた。
ルナが、ぽつりと言った。
「おにいちゃん、またいっしょにごはんたべよ?」
その言葉に、僕は思わず笑って、ルナの頭を撫でた。
「もちろんだよ。次に帰ってきたら、またみんなで一緒に、ごはん食べよう」
ノアも、小さく笑っていた。何も分かっていないはずなのに、まるでその空気を感じ取っているようだった。
この家族に、僕は支えられている。そして、僕はその支えに応えたい。だから、行く。恐れながらも、僕の進むべき未来を行く。
食卓の明かりの下で交わされた、ささやかで、けれど確かな言葉たち。
──それは、僕の中で、何よりも強い力となって残った。
食事の後、家族が寝室に向かい、静けさが戻った。家の中はいつもと変わらないのに、僕の心はどこかひどく重く感じた。
リビングの片隅にある椅子に腰を下ろし、ふと天井を見上げた。静寂が僕を包み込む。しかしその静けさは、どこか恐ろしいほどに大きく、深く感じられた。
心の中で、いくつもの想いが交差する。家族と過ごしたあの日々、これから歩むべき道、そして、それらが交わる場所に僕が立っていることへの不安。もう二度と、この家には帰れないかもしれない。そんな恐怖が、僕の胸をぎゅっと締めつけていた。
でも、逃げるわけにはいかない。
「僕は……選んだんだ」
小さく呟いた言葉が、空気に溶け込んでいく。明日の朝、僕は家族と別れ、教会の本部へと向かう。それが僕が僕の選択だということは、わかっている。心の中でそれを何度も繰り返してみても、胸の奥に温かさは感じられなかった。ただ、ひたすらに冷たい空気が広がるばかりだった。
突然、意識の奥にひとすじの光が差し込む。アナセイアの声が、あの時のように静かに響いた。
《ユウリ、あなたの選択を疑っているのですか?》
その声に、心が少しだけ落ち着くのを感じた。
「いや、そんなことはない。僕は……行くんだ。恐くても、不安でも、僕が決めた道だから」
それは、どこか自分を奮い立たせるような言葉だった。目を閉じ、深く息を吸う。無意識のうちに、手が胸元の記章に触れていた。その冷たい金属の感触が、少しだけ安心を与えてくれる。
「僕は、家族のために歩いてきたんじゃない。今、僕が歩こうとしている道は、僕が自分で選んだ道だ」
その思いが、言葉に出てきた。ふと、アナセイアの声が響く。
《そうです。選ぶ者として歩むのです。それが、あなたの役目》
「うん……それが僕の道だよね」
言葉にすることで、少しだけ心が軽くなる。けれど、心の奥底で感じる不安や寂しさは消えなかった。ただ、それを感じたまま、僕は進まなければならない。
「僕は、家族を守りたかった。守れるのだと信じていた。でも、今はわかる。守ることも大切だけど、僕が決めた人生を進まなければならないんだ」
その道を選ぶことで、家族を捨てるわけではない。むしろ、自分が選んだ道を歩くことで、家族にも何かを返せるようになりたい。家族を守るためには、僕自身が成長し、強くなる必要があるのだと、今はそう思っている。
しばらくの沈黙の後、アナセイアが静かに答える。
《その決意が、あなたを強くする。あなたはもう、“選ぶ者”だ。これからの試練を乗り越えるために、あなたの意志を貫くのです》
その言葉聞きながら、僕は記章を胸に握りしめた。
もう迷いはない。家族のもとに戻ることができるかどうかはわからない。でも、それを恐れても仕方がない。今は進むしかないんだ。
そして、この道を歩んで、また家族のもとに戻るときには、もっと強く、もっと大きな力を持って、家族を守れる自分でいたい。それが、僕が進むべき道なんだ。
朝の光が薄く差し込む中、静かな村が目を覚まし始めていた。鳥のさえずりが、外の空気に混じり、冷たい朝露が草葉に滴り落ちる。教会の使者が来る前に、僕は自分の部屋で、静かに心を整えていた。家族との別れが近づいているのを感じ、胸がぎゅっと締め付けられるようだった。足元に広がる小さな部屋の床を見つめながら、ゆっくりと深呼吸をする。
「大丈夫、行かなければならないんだ。」
自分に言い聞かせるように呟くと、その言葉が少しだけ心を落ち着かせた。今、家族を守りたいという気持ちが強く、でもそれと同じくらい、僕自身が成長しなければならないという思いも強くあった。この道を歩まなければ、何も変わらない。それがわかっていた。
教会本部へ向かう使者が広場に到着したとき、僕は家族を一緒に立っていた。ただ、僕が選んだ道が正しいと信じて、決意を固める必要があった。
使者たちは、広場に集まった村人たちの前で冷静に宣言する。
「ユウリ・セイル、教会本部へ向かうこととなった。これより出発する。」
僕は一歩前に出て、使者に向かって言った。
「僕、行くよ。本部に向かうのは、僕の決意だ。」
その言葉が、僕の心の中で決まったことを確かに表現していた。家族はそれを静かに見守り、何も言わずに目を合わせた。その瞬間、僕の心には少しだけ安堵が広がった。
家族との別れは、予想していたよりもずっと辛かった。父と母が黙って立っていて、ルナは僕の姿を見るなり、小さく駆け寄ってきた。けれど、いつものように無邪気に抱きついてくるのではなく、少し立ち止まり、僕の顔をじっと見上げた。
「……にいちゃん、いっちゃうの?」
その声は、小さくて、でもはっきりとした悲しみがにじんでいた。四歳のルナに、すべてを理解する力はないかもしれない。でも、きっと何かが違うことを感じ取っていた。僕のそばに来て、そっと服の裾を掴んだ。
「いっしょにおやつ、たべるって、やくそくしたのに……」
その言葉に、胸が締めつけられる。思わずしゃがみ込み、ルナと目線を合わせた。彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ごめん、ルナ。今日はいっしょに食べられないけど……また今度、必ず帰ってきたら、いっしょに食べよう」
「……ほんとに、かえってくる?」
「うん、絶対に。ルナのところに帰るよ。だから、元気でいてね」
ルナは唇をかみしめて、ぎゅっと僕に抱きついてきた。僕はその小さな体をそっと抱き返す。温かくて、 柔らかくて、今すぐにでも離れたくなかった。
「ルナも、がんばる。ないたりしない」
「えらいね……ルナは強い子だ」
僕は彼女の頭を優しく撫でた。すると、ルナは目をぎゅっと閉じて、小さな声で呟いた。
「にいちゃんも……つよくなってね」
僕はうなずいて、もう一度強く抱きしめた。そして、彼女の手をそっと離す。
母はその様子を見守っていた。目元には涙がにじみ、ノアを抱きながら、静かに僕に近づいてきた。
「行くんだね、ユウリ。あなたの進む未来がどんなものか、私にはわからない。でも、あなたを信じているわ。」
その言葉に、胸がいっぱいになった。僕は母に、そっと答える。
「必ず帰るよ、母さん。待っててね。」
母の手が僕の肩を抱きしめると、その優しさに胸が痛くて、言葉が続かなかった。もうすぐ離れなければならないと思うと、心が乱れる。けれど、僕は進むんだ。
父は何も言わず、ただ僕を見つめていた。その目には、いつもの穏やかさと、でも深い決意が込められていた。
「行ってこい。お前の選んだ道だ。帰る場所はここだと、心に刻んでおけ。」
その一言が、僕の背中を押すようだった。
セレン司祭が、静かに僕のところに歩み寄ってきた。彼の顔には、いつもの穏やかな微笑みが浮かんでいるが、その眼差しにはどこか深い思慮が感じられた。
「ユウリ、どんな道を選んでも、君は君の道を歩むべきだ。それが、君が得た力を正しく使う道だ。」
僕はその言葉に、少しだけ安心した。セレン司祭の言葉は、いつだって僕の背中を押してくれる。
「セレン様、ありがとうございます。僕はまだ未熟かもしれません。でも、必ず僕自身で選んだ道を貫きます。」
セレンはうなずき、静かに言った。
「私は君の祈りを信じているよ、ユウリ。君が選ぶ道の先に、光があると──そう信じている。無論、苦しみも試練もあるだろう。しかし、君が祈りをもってその試練を乗り越えれば、必ず道は開ける。」
その言葉が、心に深く響いた。今、僕は確かに不安だし、何が待っているのかわからない。けれど、セレンの言葉があれば、進むべき道を信じられる気がした。
使者たちが待つ場所へと向かう途中、僕の前にひとりの少年が立ちふさがった。
「ユウリ!」
その声に振り返ると、ロルフが息を切らせながら走ってきた。手には何も持たず、ただその目には、何かを伝えようとする強い光が宿っていた。
「……ロルフ」
「お前、ほんとに行っちまうのか」
僕は静かにうなずいた。
「うん。でも、これは僕が決めたことだから」
ロルフは拳を握りしめ、少し唇を噛みしめるようにしてから、言葉を続けた。
「なぁ、ユウリ。お前のこと、ずっと羨ましかったよ。強くて、頭も良くて、どっか遠くを見てるようなやつでさ。……でも今は、ただ悔しい」
「悔しい?」
「ああ。お前がどこかに行って、強くなって、大人になって……そうやって先に行っちまうのが、悔しい。だから、俺も決めた。俺、冒険者になる。強くなって、お前に追いついて──いつか必ず、会いに行く」
その瞳に、迷いはなかった。子どもらしい無鉄砲さと、でも確かな意志がそこにあった。
「ロルフ……ありがとう」
僕は思わず、笑った。うれしくて、でも少し寂しくて、こみ上げるものを堪えながら。
「待ってるよ。いつか、またどこかで会おう。冒険者になったロルフと──今度は肩を並べて、同じ世界を見るんだ」
一歩前に出ながら、ロルフは力強くうなずいた。
「約束だぞ、ユウリ。絶対に追いついてやるからな!」
「ああ、待ってる」
僕たちは拳を軽くぶつけ合った。それは、幼い誓いでありながら、確かに未来へと続く約束だった。
使者が声をかける。僕は最後にロルフを振り返り、深く頷いてから、歩き出した。




