おたま、街にあふれる
おたま(調理器具)
ある日目が覚めたら、街におたまがあふれていた。
街灯があった場所には当たり前のような顔でおたまが立っているし、子供たちはリコーダーの代わりにおたまを振り回して歩いている。おたま型の未確認飛行物体が空を飛んでいたし、ヘルメットの如く人々の頭に被られたおたまから伸びた柄が長く揺れていた。
「危なくないのかあれ……?」
冷静にそんなことを心配している自分が嫌だ。
幻に違いない、幻に違いない、幻に違いない……。
昨夜シンクで水責めにしたGをすくってそのまま捨てたおたまが頭をよぎる。
そんなはずないそんなはずないそんなはずない……。
何かがおかしい、でも会社には行かなくては。
リカはカーテンを閉め、混乱した頭でスーツに着替えた。半年前に買ったお気に入りのグレーのジャケット。ここのところ土日は布団に突っ伏して眠り続けていたリカにとって、最後に買った高級品だ。
急いで身支度を整え、靴箱の上の鍵を手に家を出る。
「良かった。鍵はおたま型じゃない……」
UFOみたいな形だったらどうしようと不安だったエレベーターもいつも通りで、
安心したのも束の間。
外はやはりおたまで埋め尽くされていた。
道端にはおたまみたいな形の花が咲き乱れ、おたまみたいな虫が悠々と飛んでいく。
「虫にしてはデカくてやだな」
おたまでゲシュタルト崩壊を起こしながら、リカはなんとか駅に辿り着いた。
喜ぶべきは、人やペットはおたまに侵されていなかったことだろう。
新入社員たちが小綺麗なブラウスを着て歩き、サラリーマンらしきおじさんは新聞を片手に眉間に皺を寄せている。散歩中のおじいさんはいつも通り背中を曲げて歩いていた。
待ち合わせに急ぐ女の子とすれ違い、ふと耳におたま型のイヤリングが見えた。
「あれはちょっと可愛い」
もしかしたら、ただめちゃくちゃおたまが流行っている世界なのかもしれない。
見慣れたものが目に入って、リカはちょっと楽しくなってきた。
それでは、会社に行かなくては。
とあたりを見渡して、リカはすぐに違和感を抱いた。
「改札がない………」
やはりこれは夢なのだろうか。リカは頬っぺたをつねってみた。
「痛い」
夢じゃなければリカの頭がおかしくなったことになる。
「ついに頭がおかしくなったのか…?」
このところ会社と家の往復を続けていたから、ついにおかしくなったとしても不思議ではない。
このまま途方に暮れる訳にもいかないので、道ゆく人に電車の乗り方を尋ねてみることにした。
「すみません、卯野駅に行きたいのですが……電車の乗り方を教えて頂けませんか?」
ーーーーーーー3時間後ーーーーーーーー
もうすぐ11時を指そうとする時計の針を見ながら、リカは遠い目をしていた。
見慣れた事務所の味気ない時計。幸い、会社はいつも通りの様相だった。
(大変だったぁぁぁ)
思い返すと3時間前。電車の乗り方を尋ねたリカは刹那の間絶望をしていた。
『駅の端にあるテレポーターを踏めばホームに飛ばされて、おたま型の未確認飛行物体に乗車できる………?』
お金はスマホを検知して口座から自動で引かれていくらしい。
そんなスマホを買った覚えがなくて怖い。
テレポーターだなんてゲームでしか見たことがない上、実物に近づくと人々が徐々に薄らぎながら虚空へ消えてゆく姿が目に入りとても怖かった。
(でもおたま型飛行物体に乗れたのはちょっと楽しかった)
朝から驚きと恐怖でリカのライフはもうゼロだった。
「おーい青山。珍しいなお前がそこまで脱力してるなんて」
リカは両腕をだらりと下げ、顎を上げて椅子に全体重を預けている。
背後から同僚の明るい声が聞こえて、振り向くのも面倒なリカは首だけを動かした。
「大丈夫か?仕事が大変なのか」
「うーん……」
気遣いはありがたいし普段なら愚痴を聞いてもらったかもしれないが、今一番の問題はおたまだった。
そうだ。他の人にとってこの世界がどう見えているかを聞かなくては。
本当に私だけがこの世界に疑問を抱いているのか。夢なのか、異世界なのか。
「ねぇ町田、街に溢れてるおたまについてどう思う?」
「おたま?どういうことだ?」
「ほらあの銀色の!料理をすくうアレみたいな形をしたボールペンを使ったり、バイク乗るときにおたまを被ったりするでしょう?」
「急になんだ……。ボールペンが料理をすくうアレに似ているとは思わないが」
「え?だってほら……」
リカは町田に画像を見せようとスマホを取り出し、調べる指を途中で止めた。
おたまの画像が、ない。
『料理 掬うもの』で検索をかけても木製のスプーンが出てくるのみだった。
目を疑い、何度画面をスクロールしても、見慣れたおたまの画像がない。
『おたま 料理』 ……ない。
『おたま杓子』 ……ない。
『銀色 スプーン』 ……これじゃない。
「青山?どうしたんだ?」
「ええっと…………なんでもない!気にしないで!」
咄嗟にスマホの画面を隠し、不審がる町田を追い払う。
おたまはこの世界ではおたまではない……どころか、おたまの存在そのものがなくなってしまっている。
ここはどのような世界なのか。
「おたま……おたま……おたま…………」
リカはもう仕事どころではなかった。
「青山ちょっと来てくれるか。お願いしたい仕事があって………って何してるんだ?」
遠くで聞こえる上司の声を、リカは聞かなかったことにした。