『静寂に咲く』
桜の花が、風に攫われて舞っている。
彼女の髪も、それと見紛うほど淡く、儚い桜色をしていた。
佐久楽琴音。高校二年。
教室では孤立している。けれど彼女は、孤独を望んだのだった。
「……また、誰も話しかけてこないね」
誰もが無意識に彼女の周囲を避ける中、その声だけは遠慮もせず、至近距離で響いた。
三月春――白髪の、白ワンピースの、白い影。
他の誰にも見えない、ユーレイの少女。
「望んでることよ」琴音は無表情に呟く。「誰かに構われるのは、疲れるだけ」
春はくるくるとその場で回りながら、教室の天井を指さした。
「そっか。でもさ、今、あそこにいるユーレイは……ちょっと、話しかけてほしそうなんだよね」
見上げると、蛍光灯の陰にぼんやりとした人影。若い男の霊だった。
琴音は目を伏せ、視線を戻す。
「……また、あなたが拾ってきたのね」
「だって、ほら、私じゃあ話が通じないってさ。あんたの力がないと」
春は無邪気に笑う。「お願い、ことね。ね?」
琴音はため息をついた。
「……わかった。昼休み、屋上に連れていって。人目がない方が、やりやすいから」
それは、ありふれたはずの一日が、少しだけずれていく瞬間だった。
屋上。風が強く、音をかき消してくれる。
琴音は静かに男の霊と向き合った。
「……なぜ、まだこの世界にいるの?」
『……妹に、言えなかったんだ。あのとき、俺が本当は……』
断片的に届く思念を、琴音は繋いでいく。
霊たちは言葉にならない言葉を発し、琴音の中で形になる。
「謝りたいのね。けれど、もう遅いと思ってる」
『……うん』
琴音は一つ、目を閉じた。
「だったら、伝えてあげる。あなたの声を、妹さんに」
「えっ」春が驚いた。「ほんとに? 珍しいね、ことねが自分から動くなんて」
「誰かに憑依して暴れられても困る。生きてる人間が厄介ごとを増やすのも面倒。だったら、先に処理しておいた方がいい」
彼女の声は、乾いていて、感情の波がなかった。
春はしばらく黙っていたが、やがてぽつりとつぶやくように言った。
「……でもさ、ほんとはちょっとだけ、あの霊のこと、可哀そうって思ったんじゃない?」
「思わない」琴音は即答した。「わたしは人間に興味がない。死んでも、生きていても。どちらにしても、関わらない方が楽」
「でも、行動するじゃん」
「する価値があると判断したから」
それ以上のことは言わなかった。
春は小さく笑ったが、もうそれ以上は何も言わなかった。琴音がその気になっているうちに話を進めるのが、一番効果的だと知っていた。
風が吹き抜け、遠くでチャイムが鳴る。
琴音は霊の方を向き、言った。
「言いたいことがあるなら、手短にして」
霊はしばらく戸惑っていたが、断片的に思念が届き始めた。
『妹に……謝りたい。あのとき、事故は俺の……』
「……事故原因の責任。生前に話せなかったことを伝えたい、ということね」
『そう……』
琴音はまっすぐ霊を見つめた。
「伝えたいのなら、方法はある。代わりに、無意味な感傷を押しつけてこないで」
『……わかってる』
春はそのやりとりを聞きながら、目を細めていた。
「……ことねって、そういうとこあるよね」
「どういうとこ」
「全部、線で割り切って、そこにしか興味を持たない。でもさ、たまには線の外に踏み出しても、いいんじゃない?」
琴音は一瞬だけ春の方を見た。ほんのわずかに、目元が揺れた。
「……面倒事を片付けてるだけ。何かを望んでるわけじゃない」
「うん。でも、望んでなくても、何かが変わることってあるよ」
春はそう言って、無邪気に笑った。
琴音は再び霊の方に向き直った。
まるで、春の言葉を聞かなかったかのように。
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夕方。放課後。
校舎の裏手、人気のない細い道に、琴音の足音だけが響いていた。春はいつの間にか姿を消していた。たまにそういうことがある。用事か、あるいは霊界に呼ばれたのか。
目指すのは、市立図書館の隣にある古い家。依頼主の妹が今も住んでいる場所だ。
彼女はここに、一度も足を踏み入れたことがない。地図で確認しただけの道を、迷いなく進む。
その途中、ふと人の気配を感じて足を止めた。振り返ると、そこには――
「……ことね?」
声をかけたのは、星月だった。
制服のまま、肩に鞄をかけて、彼女は不安そうな顔で立っていた。
「……どうして」
「放課後、教室で待ってたの。そしたら、春が来て、『ことねが変なとこ行った』って言って……」
琴音は無表情のまま、小さくため息をついた。
「余計なことを……」
「ほんとに、危ない場所じゃないよね?」
「ただの家。人が住んでる」
端的な返答。
星月は少し迷ったあと、琴音の隣に並んで言った。
「なら、わたしも行く」
「必要ない。これは、わたしの仕事」
「でも……ことねが一人で抱える必要もないよ」
星月の声は、小さいけれど強かった。
琴音は何も言わなかった。ただ、数秒の沈黙のあと、そのまま歩き出した。星月も黙ってついてくる。
やがて、件の家にたどり着いた。古びた木造の二階建て。窓にレースのカーテンが掛けられているが、人の気配は感じられた。
琴音はインターホンを押さなかった。
彼女はそっと、家の横手に回り、庭の方に出る。
そこで、いた。
木の下、静かに佇む一人の少女。琴音と同じくらいの年齢に見えた。地面にしゃがみ込み、白い花を植えている。
「……妹」
琴音がつぶやいた瞬間、霊の姿が再び現れた。ふわりと風のように、庭の上に浮かび、迷うように手を伸ばす。
『届かない……言葉が……』
琴音は静かに目を閉じ、意識を集中させた。掌に霊力を集めて、彼女の体に一時的に憑依させる準備を整える。春の補助なしでは少々精度が落ちるが、今は問題ない。
星月が心配そうに見守るなか、琴音は手を伸ばした。
「……少しだけ、わたしの声を貸す」
次の瞬間、琴音の瞳が淡く光り、霊が彼女の中へと流れ込んでいった。
少女の方が顔を上げた。琴音の体から、兄の声が発せられる。
「……ミユ。ごめん……」
少女の目が見開かれた。唇が震え、土の上に落としかけたスコップを握りしめる。
「……おにい、ちゃん?」
「事故は、俺のせいだった。あの日、無理に連れて行かなければ……」
琴音の体がわずかに軋んだ。霊の感情が、身体の中でうねる。だが彼女は押し殺す。
「ずっと、言えなくて……ずっと、謝りたくて……」
ミユと呼ばれた少女の瞳から、ぽろぽろと涙が落ちる。
「……うん。うん、知ってた。わたし、知ってた。だけど、会いたかった……ずっと、会いたかった……」
霊が、琴音の中で静かに震える。
『ありがとう……』
そして、すぅっと、風が抜けるように消えていった。
琴音はその場にしゃがみ込み、軽く息をついた。星月が慌てて駆け寄る。
「大丈夫?」
「……平気」
その返事に、星月は少しだけ安堵して、隣に座り込んだ。
空が茜に染まり、風がやさしく吹く。誰も喋らない。ただ、その静けさだけが、琴音には心地よかった。
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日が沈み、空が紫と青の境界をぼやかしながら、夜が近づいていた。
二人は無言のまま帰路をたどっていた。道は静かで、街灯がぽつぽつと灯り始めている。春の姿は、まだ見えない。
「……ことね」
星月がそっと声をかける。
「なに」
「すごかった。今日のこと」
「別に」
「……でも、泣きそうだったでしょ」
星月は、わざとらしくない声でそう言った。
琴音は答えなかった。少しだけ、足を止める。
風が、彼女の桜色の髪を揺らす。
「別に……泣いてない」
「でも、泣いてたら、わたしは何も言わずに隣にいるよ」
「……知ってる」
そして再び、歩き出す。
彼女の中で、何かが少しだけ変わっていた。人間の声が嫌いなまま。関係の煩わしさを好まないまま。でも。
今日、自分の身体を通して紡がれた「声」は、確かに、誰かの心を救った。
それが、自分の意思で動いた結果だったということも、確かだった。
それを、「悪くない」と思う自分がいることも。
そしてその夜。
帰宅した琴音の部屋。制服を脱ぎ、パジャマに着替えて、ベッドに体を沈める。部屋の隅に置かれたサボテンの鉢が、静かに影を落としている。
「……あー、疲れたー」
天井のどこかから、のびやかな声。
「……いたの」
「うん、霊界から帰ってきたとこー。間に合わなかったけど、なんか良い話だったっぽいね!」
「……聞いてたの」
「途中からちょこっとねー。でも、ことね、ほんとすごいよ。感動した。泣いた。いや、泣けないけど」
「幽霊が泣いたら、ホラーになる」
「ひどっ。でもほんと、ありがとね。わたしが渡した“依頼”なのに、ことねがぜーんぶやってくれて」
琴音は毛布をかぶって、そっぽを向く。
「……疲れた。寝る」
「はいはい、おやすみー。また変な夢見たら、星月ちゃんの出番ね」
春の声は、段々遠ざかる。まるで風に溶けていくように。
静寂が戻る部屋のなか、琴音は目を閉じる。
今日、誰かを救った。
でもそれは、特別なことじゃない。ただ、自分がそうしたかっただけ。
誰にも強制されず、誰にも縛られず。
ただ、自分の意志で動いた。それだけのこと。
明日も、また同じように人間の喋り声が耳障りで。人混みは嫌で。クラスでは一人で。誰とも目を合わせないかもしれない。
それでも、ほんの少しだけ。
今日よりは、明日はほんの少しだけ、前を向いて歩ける気がした。
ことねの、静かで小さな世界のなかで――
確かに、風が吹いていた。
―終―