9
彼女の回りに黒い靄が立ち込め始めた。目が憎しみで、真っ黒に覆い尽くされていく様を、僕は呆然と見ているしか出来なかった。
対象者への対応は注意が必要だ。自分の死に直面し、とてもナーバスになっている相手に対して、否定したり追い詰めるようなセリフは絶対に言ってはダメだと、カオさんに言われていたのに。
傷付いた彼等は、心が闇に喰われ(僕達はそれを闇落ちと呼ぶ)悪霊化してしまう。
なのに、僕は彼女に対して自分の苛立ちをぶつけるかのように、ひどい嘘を付いてしまった。
言い訳をさせて貰えるなら、朝から唯一の後輩である城戸くんから異動の話を聞かされた。
長年バディを組んでいたカオさんが、レベル4に陥るほどに追い詰められていたのを知らされて、代わりの相棒が、苦手な宝来さんになってしまった。
最後には対象者である彼女に、まるで人殺しのように罵られ、僕だって傷付いたから。
でもそれは、僕自身の感情であって、彼女には関係のない話だ。(あれだって、あんなに過剰反応する必要なかったのに)
彼女を傷付けていい理由にはならない。
どうしようと焦る僕の腕を誰かが掴んだ。もちろん、それは宝来さんだってのは分かっていたんだけど、僕は物凄く驚いてしまった。ビクリと震える僕をチラリと見て、宝来さんは掴んだ腕を引き寄せ自分の背後に隠した。
広く逞しい背中を見ながら僕は、どうしてと呟いていた。
だって、宝来さんの行動が、まるで僕を守ろうとしているかのように感じたから。
「デートはちゃんと出来るように段取りをする。お前の願いは叶う。心配はいらない」
彼女に言い聞かせるようにゆっくりと宝来さんが告げる。
「…………本当に?」
彼女包み込もうと蠢いていた黒いモヤが揺らぐ。
「ああ、本当だ。だから、落ち着け」
一言一言はっきりと言葉を紡ぐ宝来さんを、彼女は見定めるようにジッと見つめ――首を振った。
「……し、信じない。嘘よ。嘘をついて、私を騙そうとしてるんでしょ。だって、そいつが言ってたじゃない。出来ないって!!」
彼女の言葉に呼応するように、黒いモヤがブワッと膨らんだ。
「嘘じゃない」
「うそ、うそ、うそ……うそばっかり」
頭を抱え彼女はぶつぶつと呟く。
ど、どうしよう。僕のせいだ。
僕はガタガタと震える体を止められながった。焦りばかりが募って、どうしようどうしようって言葉が頭を過ぎる。
やっぱり僕は――
「シロ」
罪悪感や悔恨で、自己嫌悪に陥りそうになった僕を、宝来さんの声が止めた。
「不安がるな。俺がいる」
「宝来さん……でも、」
「お前は一人じゃない。なんのためのバディだ」
力強い声に励まされる。
そうだ。僕は一人じゃない。後悔も自己嫌悪も、反省もあとで好きなだけできる。
今やることじゃない。
本当に、今日の僕はダメダメだ。
しっかりしろ!
「はい!」
「――シロ、状況を打開するために力を使う。大丈夫だとは思うが、身構えて出来るだけ心を強く持て」
「え?」
力を使う?……それって?
僕の疑問に答えるより早く、宝来さんは彼女に向き直った。
「兼松弥生。何も心配することはない。俺の言葉を信じろ」
「――!」
宝来さんが言葉を紡いだ瞬間、僕の魂が震え尻尾や耳が総毛立った。
その言葉には不思議な力が纏っていた。強制的に従わせるような力。
くらりとした目眩を感じて、僕は宝来さんの上着を握りしめた。
魂に干渉する力は使える者が限られていると同時に、危険な力として、使用も制限されている。
認められた者にしか扱えない力。
討伐係の人たちでも、数えるほどしかいない――そんな力。
「話をしたい。――いいな?」
目眩をやり過ごし、僕は彼女に目を向けた。
彼女は宝来さんを見つめたままコクリと頷いた。
真っ黒になりかけていた目が元に戻り、黒いモヤはふわっと掻き消されるように霧散した。
その様子を見て僕はホッと安堵の息を漏らした。
良かった。少なくとも、彼女の闇堕ちは阻止できた。
「辛いだろうが、先ずは自分の死を受け入れろ。話はそれからだ」
「……」
「自分の身に何が起こったのか、本当は理解しているんだろ?――俺たちはお前の魂を回収するが、無理矢理連れていく訳じゃない。短いが、最後の時を過ごす時間も用意している。その時間内なら好きにして構わない。彼氏とのデートでも、親や友人といつもの日常を過ごすのでもいい。犯罪以外なら何をしたって自由だ。だから――その間に自分の中で折り合いをつけろ」
宝来さんの声音から、兼松さんへの労りの気持ちが伝わってくる。
優しく諭す言葉は、彼女の気持ちをゆっくりと解していく。
「……認めなきゃダメなの?」
不安に満ちた目が悲しみに彩られた。
「ああ。酷なことを言っているのは分かっている。突然自分は死んだんだって言われても、納得なんて出来ないよな。どうして自分だけがって、憤る気持ちも分かるつもりだ。――生きている間もそうだが、死の瞬間でさえも理不尽極まりなくてやり切れないだろうとは思う。だが――現実をきちんと受け止めるんだ。そうしなければ、お前はそのまま囚われ続け、余計に苦しむことになるんだ。……慰めにもならないが、人はいずれ死ぬ。それが早いか遅いかだけの違いだ」
生真面目な顔で諭す宝来さんに、彼女は泣き笑いのような顔をして「それ、全然慰めてないから」と言った。
「すまん」
「……本当に会わせてくれるのね」
「ああ。本当だ」
力強く頷く宝来さんをジッと見つめたあと、彼女は頷いた。
宝来さんは僕を振り返り「回想に連絡」と指示を出す。
僕は頷きボタンを押した。
「回想係へ」
直ぐさま「はい、回想係、都築でーす」と、緊張が一気に弛緩する声が聞こえてきた。
その声を聞いた僕は詰めていた息を吐き出した。
「……都築さん」
都築さんは不思議な人だ。その声を聞くだけで、もう大丈夫だと安心してしまうのだから。
「シロ?仕事か?」
「はい。お願い出来ますか?」
「直ぐに行く」
僕は対象者の名前を伝え通話を終える。
「すぐに来るそうです」
宝来さんが頷いた。