【決戦】風の歌
この物語はフィクションです。
凛が伯父の東と喫茶店に画廊で開催する個展の案内葉書を置きに来た時、知っている旋律が流れていた。桜だった。日本的なあの曲がこんな風に新鮮に変わるとは知らなかった。思わず会場内を覗き込んだ。フルートの音色が、演奏の全体感を良い具合にまとめている。フルートを吹く男の子を見た。
今日演奏されている曲目のチラシを手に取った。管楽器の四重奏、大学のサークルか。
「スター・ウォーズ」は全部観た。この曲はレイア姫の登場シーンに必ず流れる曲だ
その時、声が聞こえた気がした。
「僕のお姫様はどこにいる?」
息を飲んだ。じっとフルートの人を見た。私に話し掛けた?まさか、考え過ぎでしょう…
すると、彼は閉じていた目を開けてこちらを見た。目が合った気がした
凛は心臓が止まりそうだった。自分が思った事を彼に聞かれたのかと思った
咄嗟に扉の後ろに隠れた。だが、耳はずっと音を追っていた。
あの人だ
あの人って、何の事だ。自分でも良くわからなかった。でももう一度会わねば、話をせねばと思った。
「韃靼人の踊り」聴いた事がある。こういう曲名だと知らなかった。美しいメロディ、誰かが私の帰りを待っているような気がする。故郷に呼ばれているように感じる
小フーガ の荘厳な感じの後に、勇ましいマーチが来る。元の映画を観たことは無いが、それはあたかも夜明けの訪れを予感させるかのようだった
「小さな空(武満徹)」初めて聴いた。何もかもが終わって許されるような気がした。自分が救われても良いと許可されたように感じた
涙がこみ上げ目を潤ませるのがわかった
「東さん、お願いがあるんですが…この葉書あのフルートの彼に渡して貰えませんか」
東もこんな凛を見たのは初めてだ。いつも落ち着いて大人びているのに
「えっ、自分で渡せば良いのに」
「いや、うん、えっと、…無理です。それでお名前聞いておいてください」
そのまま女子のお手洗いに走って行ってしまった。こんな状態で会えない。本当に泣き出してしまいそうだ。初対面で会うなり泣いてたら、意味不明だし、第一格好悪過ぎる
突然凛の中で命がその声を挙げた
今まで抑えていた事の全てを、吐き出すように、涙は流れ続けた
凛は内側での慟哭が何かはわからなかったが、今日彼の奏でる音色を聴く為にここに来た事は確かだと思った。そしてこの機会に個展を開く事も、そのきっかけをもたらした未来の我が子も
運命というものが存在し、誰かが、それこそ神が、自分を見捨てず、忘れずに居てくれたという事に感謝した
フルートの彼が出て行った後に、凛はようやくお手洗いから出てきた。東は明らかに泣いていたらしい凛の顔を見て、今はからかう時ではないのだなと思った。凛の内面で何が起こったのかわからないが、大事なことなのだろう。この行方は流れに任せる外はない。我知らず祈った
ーーーーーー
翌週、俺は山百合の花を買って、都心の画廊に赴いた。こういうのは差し入れ要るだろう。定番は受付しながらつまめる菓子と思ったのに、散々悩んだ挙句、花になった。会場に花があるのも良いだろう。山百合の華やかな香りは、俺をも明るい気持ちにさせてくれた
ガラスの扉を開けると、受付にはコンサートで声を掛けて来た東さんが一人で座っていた
「橘君。来てくれてありがとう。いやあの後怒られてね、何で下の名前は聞かないんだって」
そう言って東さんは芳名帳に記帳を促した
“橘 颯雅”
書いた名前を見て東は言った
「なんて読むの。ふうが?そうが?」
俺は芳名帳の自分の名前にふりがなを書き加えた
「そうが です。あのこれ…」
山百合を渡そうとした。東さんは首を振って
「自分で渡してくれ。奥の部屋に隠して置いてあげるよ」
俺はそれが何の配慮なのか良くわからなかったが、年上の伯父さんの言う通りにした方が良かろう。東さんに花を預けた
「凛は今昼休憩だ。そろそろ戻るだろうから、先に絵を見ててくれ」
俺は頷いて、コートを脱ぐとハンガーに掛けて、画廊の中を見て回る事にした。微かに落ち着いたBGMが流れている
絵は大きいのも小さいのも。
森の絵、滝の絵、古い藁葺きの民家の絵、小川の絵。どこかの風景だろうか。写実が多いのだが、そのどれもが幻想的な彩りが加わって、完全な写実とも思えなかった
それから鳥の絵がいくつか。燕の絵。白くて精悍な猛禽類の絵。鳥が好きなのか
その中に一つ他とは違う絵がある
赤ん坊の絵だ。どちらかと言うと胎児か。オレンジとピンクの中間のような色の中に胎児が頭を下に眠っている。これから生まれるのを待っているように感じる。タイトルは「みず」とあった。見ず、水、どっちだろう。その子が誰なのかを知っているような気がして、逆さになった赤ん坊の顔に合わせ、頭を横に傾けてしげしげと見た。とても懐かしく、会いたいような思いが溢れてくる
隣にあった絵を見た時、もはや動けなかった
雪降る森で、水仙が咲いていた。水仙の香りがするかのようだった。他の絵には複雑な彩りがあったが、この絵には色彩が殆ど無い。黒と灰色の森で、雪が透き通るように青く沈んでいる。
地味なこの絵に、自分がどうして惹きつけられるのかを全くわからない。ただ茫然とその絵を見た。何かが込み上げて泣き出してしまいそうだった
タイトルは「織り上がり」とあった
その時音楽はアンドリュー ウェーバーのPie Jesuが流れていた。その曲はあまりにもその絵に相応しく感じられた。どうしてそれが合うのだろうと頭の隅で思った。だってそれは鎮魂歌ではないか…
そういえば、この曲に切り替わる前は シューベルトのアヴェマリア だった。もしかして絵のイメージで曲を選んで編集したCDだったのか
森の地面に降り積もる雪がその下に何かを隠しているようにも見えた。その絵の向こうにある水仙の香りは、何度も何度も思い出された。自分が水仙という花に興味を特に持った事が無いのに、どうして思い出すこの香りが水仙だとわかるのか不思議だった
お昼を食べ終えて凛が画廊に戻ると、東が奥の方を指差して合図した。白いコートをハンガーに掛けて画廊の奥を見ると、ミニコンサートでフルートを吹いていた男の子がいた。橘さんだ
後ろ姿が目に入ると心臓が胸の中で鼓動する
凄く熱心に見てくれている。なんだか恥ずかしいような気がする
水仙の絵の前でずっと立ち止まっている
あの時、曲を聴いて色々思った事や感想を話したかった。あの演奏で自分が受け取ったものを彼に伝えたかった。だが、真剣に絵を見ている彼を見ると、なかなか話しかけられなかった。待っていれば良いのだろうか
すると、東は紙コップを取り出して、電気ポットからドリップパックにお湯を注いだ。そして湯気立つコーヒーを凛に渡した
我を忘れて絵の前に佇む颯雅に声が掛けられた。
「あの…」
振り返ると、マゼンタ色のワンピースを着た女の子が遠慮がちに立っていた。颯雅が絵を見ている間に凛は休憩から戻っていたらしい。あまりにも熱心にその絵の前に居るのでしばらくそっとして置いた
たった今淹れたコーヒーを持って、暖かいうちにと声を掛けたのだ
「橘さん、初めまして。美澄凛です。その絵…ずっと見ていらして」
「失礼しました。戻られていたんですね。これは何処か実際の場所なんですか?」
「さあどうでしょう。夢みたいな感じです。似た所見たらスケッチしますが、それがその場所なのかはわかりません」
「これは尋ねて良いのでしょうか。このタイトルはどうして “織り上がり” なのですか」
凛はしばらく黙っていた
「私の中では、この場所でとても悲しい出来事と、その次の喜びが同時に起こったと思うのです。何かが終わると共に次が始まったと…。それは物語の終わりと始まりのようなものと思うのです」
颯雅は何と答えたら良いのかわからなかった
ただ、今何かが終わろうとし、何かが始まろうとしていた。その予感があった
「美澄さん、美大生なんですか」
「いや、美大行こうか迷って、結局今は心理学を。個展終わったら絵はもう続けて行くかわかりません」
「そうなんですか…なんか、もっと見たいなと思います。これから先の絵も見たいです」
凛は顔を上げた
「本当ですか。私の絵なんてそう思う人がいるなんて思わなくて。最初で最後でも良いから個展しようと思っただけなんです。もう描きたいと思うものがこれで尽きてもう描けないかもと思ってて」
そしてほぼ独り言のように言った
「でもあなたの音楽聴いたら、絵を描けるかも知れない」
そして颯雅の目を見て、言った
「あの時橘さんのフルートだけが耳について。なんだか感動してしまって。他の方の演奏も素晴らしかったのですけど、まるでそのフルートの音色が夜明けみたいに聴こえたんです、あのライトスタッフのところ」
この人今何と言った。夜明けみたいに、だって。俺が演奏しながら感じていたのと同じ事を感じていたのか
「なんか、自分で葉書渡せなくて、済みません。来てくれてありがとうございます。演奏の感想も言いたかったんですけど」
少し恥ずかしそうに言う
その時、BGMは「韃靼人の踊り」になった。もしかしてコンサートで聴いてBGMに加えてくれたんだろうか。奴隷女達のロシア語のコーラスが流れる。二人は無言で聴き入った
飛びゆけ我が歌、風の翼に乗りて
放とう汝を我が懐かしき故郷へ
自ずと汝が口ずさまれる時
我が心も歌も自由だった
日燃ゆる空の下 大気に光満つ
海原さざめき山並みは雲に包まれ安らう
谷間には薔薇が香り
あおき森には夜鶯の囀りが
そして実りの季節には甘い果実が
我が歌よ、故郷に於いては汝は汝となろう
飛びゆけ我が歌よ、汝は風に運ばれ故郷へ…
「あ、コーヒー、冷めないうちに」
凛は自分が持っていたものを思い出した。紙コップを持つその手は微かに震えた
受け取る颯雅の手がその指先に触れ、二人は時の永遠に触れた
歌は愛の元に、故郷に届いた
その時生まれたものを東は気づいて、笑みを浮かべた。凛の心の扉を開く鍵が見つかったのだ
後ろで見ていても、わかった。この若い二人に祝福が降りているのを。東は長年のしこりが解けて行くかのように感じた。自分も前に進んで行ける気がした。考えながら気づいた。凛に助言する程自分は前に進んでいなかった
ああ、別れた妻に電話をしてみよう。やり直す為ではない。終わりを終わりとする為に
言葉を超え、皮膚を超え、二人はその向こうの燃ゆる命を見出した。ふたつの命は再会を喜び、対の対たるを祝い、歌った。その音と響きはひとつの歌となった
その言祝ぎは間に横たわっていた時の狭間を埋め、時は彼らをその腕に抱いた
別れていた道は再びひとつに結ばれた
颯雅と凛は、互いの目の奥に宿る懐かしい対なる存在を見た
毘古は、逸彦は、颯雅は、全てが対から生まれる事を知った
新しき世界はその産声を挙げた
愛は愛としてその時をうたう
きぼうはきぼうとしてその時をかける
あい対するもはない
そこに不完全はない
対なる愛があるだけだ
完全なる対となる愛
我が愛づ児らよ
汝らの直向きさが織り成した世を見よ
その愛しきを愛しいと
認めぬ事があろうか
愛を見て愛と覚ゆ者はその内に愛を持ちし者
愛より生まれし者よ
汝が汝たる誉れは此処に…
作中の「韃靼人の踊り」の歌詞はこの作品に合うように手を加えてあります。正確な訳を知りたい方は調べてみてください
逸彦と実穂高の物語はこれで終わりですが、番外編を掲載します
逸彦を生み出す前の話です