【決戦】率き水
この物語はフィクションです。
水師は誰からも見えない茂みの陰に実穂高を足を投げ出して座らせた
実穂高はさっきからずっと顔を袖で覆っていた
水師は衣を小川で浸し、絞って実穂高に渡した
受け取って顔を拭うと、実穂高は童が拗ねたような顔をして言う
「もう駄目だ…麻呂は駄目だ。逸彦を前にすると強く振る舞えぬ。男で居られぬ。弱くなってしまう」
水師も傍らに腰を降ろした
「弱くても良いではないですか。逸彦の前では。強がらずに安心して己で居られる方だからそうできるのでしょう」
驚いて実穂高は水師を見た。そしてまた下向きごにょごにょと言う
「だがそれでは皆に面目立たぬし、宮でやって行けぬ…」
水師は悪戯な目で笑って言った
「そのように悩んでいる方には実穂様は、面目より己の心大事にせよ、それ程宮の事が大事か己の胸に聞けと仰いますな」
「ううむ、確かにな」
「皆も我と同じように、実穂様が男でも女でも関係なく、人として尊敬してくれますよ。それに、宮に戻らなければならぬ由もありませぬ。面倒事を他人に押し付けて、責任取らぬ者の為に身を削る必要ありましょうか。育ての義父亡き今、賀茂への恩義など無きに等しい。実穂様程の方、陰陽師で無くたって何処でも薬師として生計立てられますし」
実穂高は水師の顔を見つめた。此奴、こんな事を言う男だったのか
「だが、皆への報酬…」
己の言葉を己で切った。これは思考癖に過ぎない。頭というのはできない理由をあげつらって新しい環境に行くのを拒もうとするものだ。京が我が住処ではないならば、邸にある家財道具を売り払っても構わぬ。賀茂の兄弟は文句言うだろうが、その頃には己は姿消して居るだろう。元より兄弟にはいじめられ、手柄を奪われた記憶以外ない。それも良いだろう。そうするかどうかはさて置き、やり方は幾らでもある
実穂高の口元が緩むのを見て水師は安堵する。一度そうと受け入れ、決めてしまえば、実穂高はどんな事をしてでもその道を貫くだろう。この方に必要なのは逸彦だ。支えられるのは逸彦だけなのだ。我ではない…
「だが水師はどうするのだ…。そうなったら汝は…」
実穂高は水師を見詰めた。実穂高は自覚して無いのだろうが、側に居るのが当たり前だった己が側に居ない事を想像できないのだ。だから読み切れない、先の事を
そんな求めるような目で己を見ないでくれ。己を引き留めようとせんでくれ。汝を愛する我に、一点の曇りも無く男としての感情が無いなどと言い切れぬ。だが我が運命が我を運ぶ以上、我はその道のままに我として在りたいと願うのだ。このまま、敬愛する二人の為に、己のままでいさせてくれ…
水師は腰を上げ、片膝をついて実穂高に真っ直ぐ向いた
「我水師は実穂様の道に忠誠する者です。導きあらばそれに順うのみ。我の心配をする必要ありませぬ」
「左様だな…」
水師はいつも己のすべき事を良くわかって居る男だ。実穂高は安心したのか、水師から視線を外し目の前の川の流れを眺めた
水師も足を崩して胡座に直し、力を抜いた。今、主人が回復するまでのほんの僅かな間だけ。このたゆとう時は我が傍らに居ても良いものだ。水師は二度と訪れぬ今感じている事の全てを具にその心に刻みたかった
「我は愛を知っていたと思うとったが、全然知らなかった。逸彦への愛の前では、今まで悩み事を聞いた者への愛は、愛の演技に過ぎなかったとすら思う。実際そうなのだろう。愛は更に深く自発なものだ。我は我の憎む偽善者だったと…」
「実穂様はより至高の愛を知られたのですね…」
水師は嬉しいと思う。この知りたい事を知る為に高みを目指し、知った事の前には以前の己を簡単に捨ててしまえる師匠が好きなのだ。それを敬っているのだ。この人は己の道を何処までも駆け上がって行くだろう
「先程、我は弱くなったと言ったが、考えたら、今までが偽りの強さだったのだ。そんなものは真実ではあらぬ。逸彦の問いに我が愛が答えていた。我等は対だと。対は理で元は一つで、離れたから孤独が生まれたと。愛は凄いの」
本当に気づかないのか、この人。愛の化身を内に宿して置ける己が既に凄いと。全く逸彦と一緒だ。
「先の事を考えると煮詰まってしまうので考えぬようにしていたが、先程水師の言うように、京に拘るをやめれば、色んな事が簡単に思える。水師、礼を言う」
笑みが輝いている。周囲の全てを洗い流してしまうような、心からの笑みだ。
「そのように笑えるなら、良いでしょう。京でそのように笑うを見た事ありませぬ」
「そういうつもりはあらぬが、汝にそう見えたならそうなのであろうな」
実穂高の笑顔は、今までで一番力みが抜けた良い顔だ。水師は微笑んだ
「実穂様はご自身の幸せを最優先になさいませ。己が我慢して与えるが偽善。実穂様は己の幸せから自ずと溢れるものだけで充分周りを影響しましょう」
「何やら、今日は水師が師匠のようだ。全くその通りだ。他人に言う事を己ではできていなかった。どういうものが己の幸せなのか、良くわかっていなかったな」
水師は思う。己はきっと知っていた。実穂高が四年前に我の宿世を観た時から。おそらくこの時が来るのを、ずっと畏れながら待ち望んでいた。実穂高の霊眼が逸彦の影を捉えた時、その目に輝きが宿った時、我を救った実穂高自身を幸せにできるのは我ではないとわかっていた。それでも我はこの人の幸せを願う。それは水師の切なる願いだった
二人は黙って流れる水面を見ていた。反射する光を、時々流れて来る枯葉が遮った。細水の音だけが空間にあった。それは水師の心に触れ、慰めた。子を宥め慈しむ囁きのようであった。実際、愛は彼に感謝していた。彼の功績を讃え、相応しい報いを用意するつもりがあった。水師がそう望めばの話だが
突然、実穂高は振り返って言った
「己の幸せには水師の幸せも含まれる。汝が欠けては我の幸せも完全ではあらぬ。我が望むは完全無欠の幸せぞ」
それを言わせしめたのは愛だった。その言葉は水師の命に届き、何かを砕いた。拘っていたのは己の方だったか…
水師は泣きそうになった。だが笑顔を作って答えた
「賜りました」
愛は実穂高を通して笑んだ
愛は愛である以上、愛に貢献した者を、一切その手から溢すつもりは無かった。それは愛が完璧で、調和である故だ。それらの者は愛の一部であり、愛が生み出した者だ
水師は愛の偉大さの前に、己の小さな自我を差し出した。
愛は笑って水師の心を抱き寄せ、そのひびの隙間を愛で満たした
水師は愛の完璧さに頭を下げた
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初めてその存在の影を観た時、そう、宿世を観る事ができるとわかり、水師の心の記憶を覗いた時。鬼退治の逸彦の影を観た。一番最初に出てきたのは、宿世の水師、瑞明と共に琵琶湖の水をかけ合い、はしゃぎ回る姿だった。憧れた。その解放に。無邪気さに。無垢な本質と放たれる明るさに。
瑞明が初めて浜で出会った時。その逸彦の奥行き、佇まい、背負うものを背負いながらそれを受け入れて道を行ける神への信頼。瑞明は圧倒され、己が知りたい事を学ぶはこの人としてついて行く。
瑞明との心の絆、その縁の糸は輝きながら、別れた後も強さを与え続けた。毎年冬になると訪れる大切な友がいるだけで、それまでの一年を大事に過ごす。語る時に、己を恥じる事が無いようにしたいから、己が己である事に誠実である事ができた。
実穂高の霊視では心の記憶を読むから、心象と心の感じた感覚から観えるのだ。像そのものでは無い。心に印象深かった事と、それにまつわる展開を想起出来るものだ
これが鬼退治の男、想像と違う
その時実穂高は、己は必ずこの男に会うと決めた。そう願った
彼の存在を知った時から、己も呼吸をしても良いと許しを得たような気がした。生きても良いと思えた気がしたのだ
鬼討伐の話が来た時、迷わず受けた。その為に剣術を磨いたのかと思った
逸彦が宮に上がった時、あの暮れ始め火を灯した会見の間に入って来た時、息を飲んだ。光を背負って居るのかと思った。その生きる事の全てが神への献身で、それ故に全てを愛に養われ、委ねられているが為の強さ。その目は、己のすべき事だけを見て、真っ直ぐだ。何者も彼を縛り得ぬ。世間も、政事もだ。
凛々しい彼の動きの一つずつが、周囲に風を巻き起こす。彼は何も発さず、何も言わぬのに、周囲に語りかけるのだ。それが汝なのか、それで汝は満足なのかと。凍結して居た時が動き出す
彼が神に愛されているのは、鳥を見ても天候を見てもわかるし、彼が何にも煩わされる事が無いのを見てもわかる。
彼が困るような事は一切引き起こされない。
それが凄い事と誰も知らないのだろう。
ああ、あのように、全てを神とその命の為に生きられたなら、どれほど我は自由であろう
それなのに、その逸彦本人はその誉れを受け取らず、心の奥が凍てつき、深い哀しみを抱え、他者との間には絶対の壁を作り、一定以上踏み込ませないのだ。その孤高を見て我がどれ程苦しいと思ったか知れない
だが今日、彼は我に愛を感じてると告げた
率直で、あまりにも唐突だったので心の準備が追いつかず、とんだ失態だった。だがいかにも彼らしい。幸せだ。何故かずっと幸せで居られそうだ。己の生き方がそれで良いのかなどわからぬままそうして来た。だが、いつしか神に会えると微かに知っていて、その時が訪れるのを渇望していた。今までの人生の全てが今この時の為に計画され、己の人生が報われた気がする。
心に常にあった罪の意識のようなわだかまりが、急速に溶けて行くのを感じた。たったあれだけで。ずっと取り組んで一向に取れぬと思っていたのに
この幸せを味わっていると、己の奥のまだ定まらぬものが底に着き、安定していくような気がする。
愛が愛であると言う事は我を弱くなどしない。対の愛が愛として顕現し、我が傍らに居ると言う事は己を強くするのだ。彼の存在が我に力を、生きる事に価値を与える。彼の愛が我を我たらしめるなら我は確かに愛であろう。この愛に満たされている今程に我が身を在りと確固として感じた事はなかった
実穂高の目が今までになく強く輝くのを、水師は見た。さっきまでにやけて居たと思ったのに
実穂高は川面を見ながら言った。
「水師、そもそも逸彦の存在を我に教え、引き合わせたは汝なのだ。その恩は報われるだろう」
その言霊一つひとつが、確たるものとして水師には聞こえた
水師は心打たれた。一つの愛が愛と巡り逢い、その奏でる音が、響き合わせ、他の全ての歪みを一掃するように調和へと導いていく様を見た。これが愛のもたらす調和なのだ…
そしてその道筋を導いたのは己自身だった
何かが決定した
実穂高は言った
「もう立ち上がれるぞ。行こうか」
水師は頷いて、その名を呼んだ
「菫青様。我が手を引きましょう」
手を差し出した。実穂高は笑ってその手を取り立ち上がった
人物紹介
逸彦…鬼退治を使命とし、鳥に導かれながら旅をする。宿世の記憶をずっと受け継いで生まれ変わりを繰り返している。移動は常に、山も崖も谷も直線距離で駆けるか木々を伝って行けば良いと思っている。寝る時は木の上
コウ…逸彦の心の中で逸彦の疑問に答えたり、導いたりする内なる声。コウは逸彦の命であり、鬼と戦う時刃を動かしている。宿世「コウと共に」で登場
実穂高…鬼討伐の責任者。陰陽師。実穂高は実名ではなく通称。孤児で今は亡き賀茂の当主に才を期待されて跡取り候補として引き取られた
水師…実穂高の側付きであり弟子。商人の子だったが、元服と同時に実穂高の側付きにと言われて実家から厄介払いされた。目指す相手の居所をわかる特技がある (宿世 和御坊、瑞明「コウと共に」に登場)
玉記…実穂高の京での信頼できる友であり、実穂高と水師の剣術の師。途中から鬼討伐に参加。大柄で長身 (宿世 小野篁「流刑」。水の龍 天河「コウと共に」にて登場)
天鷲…玉記の友人。従妹 榮の病の事を実穂高に依頼し、途中から玉記と共に鬼討伐に参加 (宿世 源信「上京」。地の龍 金剛「コウと共に」にて登場)
実穂高が集めた討伐の面々
宮立 父 太方…亡き妻の口寄せを依頼して実穂高と知り合う。(宿世 宮地家の御当主で那津の義父「護衛」、村長「桃語る」に登場)
宮立 倅 細方…(宿世 宮地家の息子でご当主、那津の夫「護衛」に登場)
津根鹿 …妻子出産の祈祷で実穂高と知り合う。出世は訳ありで、誰が父なのかは実穂高だけが霊視で知っている(宿世 宮地家の孫で那津の長男「護衛」の最後に登場)
西渡… 剣士。妻の死体が蘇って歩き回ったという件で霊を鎮める祈祷を依頼し、実穂高と知り合う。(宿世 男「桃語る」で登場)
佐織の翁…婆の病の相談で実穂高と知り合う。実穂高は彼と接すると笑いがあって愉しいと思うが、逸彦の見立てではいくつもの死線を潜り抜けて来た凄い人物なのに自然体なので表に凄さを見えない人(宿世 翁「桃語る」に登場)
伏見…海沿いの難所を通り抜けるのに困っていたところ通りかかった討伐の一行と合流。自分達の領地周辺の鬼調査をしていたが、以降行動を共にする(宿世 布師見「城」に登場)
木ノ山…伏見に仕える。話しぶりが大袈裟(宿世 木之下「城」に登場)
獅子吼…鬼大量発生で壊滅した甲斐国出身の者。久しぶりに帰郷したら里の妻も仲間も全滅していた。鬼をやっつける事しか思い浮かばず、鬼討伐に加わる
榮 …天鷲の従妹で幼馴染み。頭に鹿のように枝分かれした龍角を持つ。霊障による病で角を奪われて亡くなる (宿世 源信の妹、潔姫の生まれ変わり)
巽 左大臣…討伐の依頼主だが乗り気でない。ちなみに巽は本名ではなく通称
新路…巽の従者
芙伽… 榮に霊障し、角を狙った女。黒岩に触れ、反命の大元が乗り移っている
那由…逸彦の母役、育ての親の人格。宿世で何度も母だったが、隠岐の島で逸彦が黒岩を斬って以来生まれ変わっても巡り合わない。鹿のような枝分かれした角があるが、霊眼が開かないと見えない。慈愛の化身。「流刑」に登場
那津…那由の子供として暫く生まれて来ない時に、同じくらいの年齢で生まれた人格。商家の娘那津を嫁ぎ先まで護衛する「護衛」に登場