【決戦】毒
この物語はフィクションです。
人の住む集落からは大分離れた。一行は山合いの道を歩んでいた。ここまで来れば戦いになったとしても、人々を巻き込む事はあるまい
一行は進む速度を緩め、現在地を確認した。これから先は暫く野宿となるので、水場が遠くにある事は限度があった。今の所から小川までどの位あるのか、実穂高は逸彦に尋ねてみようと思った
「おう、鬼退治の御一行よ」
突然声が掛かった。聞いた事がある声だ。崖の上からだ。上を見上げると巽の従者、新路だ
「久しぶりよのう、実穂高様よ。汝の怪しげな占いの信奉者連れて、如何だその後」
宮の外と思って口の箍も外れてしまったようだ。実穂高は内に起こる怒りを抑える。駄目だ、その手に乗っては
「巽殿は放って置いても構わぬのか、新路殿」
「大丈夫だ。それ程重要では無い」
一体どう言う意味だ。右大臣が重要では無い、仕える主人が重要では無いのか
「汝、どうやった。遠隔で数珠を斬ったのう」
心の底をぞわりと冷たくするような声がする。
被衣姿の女、恐らく芙伽だ。顔は布に隠れて良く見えないが、その手には杖を抱えている。杖の上には鹿の角がついている。あれか、榮殿の角、光の龍の力
何度か霊視したが、本人に会うのは初めてだった。見るからに、嫌な感じがする。その邪気につい実穂高は眉をひそめた。今此処に居るなら京の事は知らぬ筈だ。数珠を斬った事が知れたのか。あれを通じて、この女は巽にも刻印し、操っていたのか
芙伽は逸彦を見下ろす
「噂の主ではあらんか。其の方、鬼退治の逸彦であろう、汝」
被った衣の下でぐっと睨みつけて言った。それは遠目に見てもわかる程だった
「黒岩を斬ったであろう…」
「何度あやめても生まれよって…何時も邪魔しよって」
後半の言葉は独り言だった。芙伽は指差して叫んだ
「皆聞けよ。その男こそ、鬼の元凶。其奴が鬼を伝染して周って居るのだ。その証拠に行く所行く所必ず鬼が出る」
「芙伽、いや早萌!」
西渡が名を叫んだ。死んだ妻の名だ
「己が悪かった!己が汝を家に放って仕事していたから、だから汝は…」
芙伽は酷く困ったような顔をして西渡を睨んだ
「其の方らは鬼討伐隊故、元凶連れて行けば鬼に遭遇して話早いかのう。まあ、我ならば最初に元凶を斬るが早い思うがな」
その足元に矢が刺さる。太方が射たのだ。実穂高から命じられていない以上、威嚇だ。だが誰もが逸彦への中傷を聞くに耐えられなかった
実穂高も手が震える。だが怒りで判断を曇らせる訳にはいかない。逸彦を見る。
当の逸彦は怒りに我を忘れようとしていた。独り言だったのだろうが、耳が良い彼には聞き取れた。
何度もあやめただと?己が鬼を伝染させているだと?あのくらいの崖、駆け登れる。何時ものように目は即座に距離を測る。彼らがそこから逃げ出す前に、辿り着く事はできる。その手は背に担ぐ刀へと伸びようとしていた
実穂高は逸彦を鎮めるが先と思った
馬から飛び降りると逸彦の前を遮るように抱きつき制止した
「駄目だ、恨みで斬ってはならぬ!」
逸彦は正気に戻った。刀に伸ばそうとした手を実穂高の背に添えた
「わかった…実穂高がそう言うならばそうする」
「今は堪えてくれ、我が何とかする…」
実穂高は言ったものの、どうすれば良いのかわからなかった。だが逸彦に鬼退治以外のものを背負わせてはいけないと思った
「其の方らの歓迎してやるから待っておれ」
崖の上の二人は後方の森へと姿を消した
津根鹿は震えていた。己が何に怒りを感じているのかわからない。逸彦の噂の事もだが、その他に何があったろう。あの女を見て…手に持つ杖
「あの鹿角の杖は…」
呟いた。それを聞いた水師は天鷲と玉記に目配せをした
話してやるべきであろう。
皆は崖から離れて少しずつ歩き始めた。どうしたら良いかわからずとも、此処から離れたかった
だが実穂高はそのまま逸彦に抱きついたままだった。馬も首を垂れて次の指示を待っていた。逸彦の怒りも心の傷もわかるのに癒してやれない己が不甲斐なかった
逸彦も、己を鎮めようとした実穂高の行動はあの場では当然であり、あの女の言葉に傷ついた己を労っている事は充分にわかった。だが、あの女には聞かねばならぬ。宿世で己が出会った女共は、皆一様に逸彦の神の如き力を欲しがり、騙し、害した。彼奴らのどこからどこまでが芙伽の、いや猿女の仕業なのだ…
実穂高は未だ止まらぬ逸彦の怒りと激しい憎悪を感じた
どうすれば良いのだろう。更に強く抱き締める。背をさする
「力及ばず申し訳無い。我等は誰も逸彦のせいで鬼が増えるなど思うて居らぬ」
言いながら言い訳にしか聞こえない。実穂高の心は至らぬ己への失意に占められる
逸彦は己が憎しみに焦点を当てる事そのものが、実穂高には負担なのかも知れないと思った。そうだ、実穂高は他者の心に共鳴し己も同じく傷つく人だ
そう考えると逸彦の心は少しずつ落ち着いて来た
実穂高は逸彦の顔に己の顔を寄せ、接吻しようとした。少しでも、憎悪から気を反らせたかったのだ。
だが逸彦はそれに気づいて顔を背けた
「やめてくれ、あの女のような事せずとも良い」
逸彦は自ら実穂高の腕から身を解いて引き離した
立ち去る逸彦を見て、実穂高は誤ったと思った。確かに、あの宿世の記憶で猿女は慰めてやろうと言って抱きついていた。同じような事をしてしまった。逸彦の拒絶に胸が張り裂けそうだった。目から涙が溢れそうになったが、崖の方を向いて袖で拭い、そのまま待たせてある馬に乗り、逸彦に追いつかない速度で馬を歩ませた
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京の都で俺に妙な仕事を依頼した奴、顔は市女笠で隠していた。女だった。
「獅子吼よ。汝、鬼退治の逸彦の噂を知らんか」
「何だそれは。知らんぞ」
「気をつけよ。鬼化は感染る病で、其奴が鬼を流行らせる大元だと言うぞ。」
「本当か」
「本当かは知らんが、あちこちで聞く。其奴の行くところに鬼が出ると。そして其奴がその鬼を斬る。家族だったとしても情け容赦無く斬り捨てるらしいぞ。怖ろしいのう」
「それが俺に何の関係がある」
「まあ、今は無いがな。会う事あらば覚えておいた方が良いのではあらんか」
市女笠の下で笑っている事だけはわかった
人物紹介
逸彦…鬼退治を使命とし、鳥に導かれながら旅をする。宿世の記憶をずっと受け継いで生まれ変わりを繰り返している。移動は常に、山も崖も谷も直線距離で駆けるか木々を伝って行けば良いと思っている。寝る時は木の上
コウ…逸彦の心の中で逸彦の疑問に答えたり、導いたりする内なる声。コウは逸彦の命であり、鬼と戦う時刃を動かしている。宿世「コウと共に」で登場
実穂高…鬼討伐の責任者。陰陽師。実穂高は実名ではなく通称。孤児で今は亡き賀茂の当主に才を期待されて跡取り候補として引き取られた
水師…実穂高の側付きであり弟子。商人の子だったが、元服と同時に実穂高の側付きにと言われて実家から厄介払いされた。目指す相手の居所をわかる特技がある (宿世 和御坊、瑞明「コウと共に」に登場)
玉記…実穂高の京での信頼できる友であり、実穂高と水師の剣術の師。途中から鬼討伐に参加。大柄で長身 (宿世 小野篁「流刑」。水の龍 天河「コウと共に」にて登場)
天鷲…玉記の友人。従妹 榮の病の事を実穂高に依頼し、途中から玉記と共に鬼討伐に参加 (宿世 源信「上京」。地の龍 金剛「コウと共に」にて登場)
実穂高が集めた討伐の面々
宮立 父 太方…亡き妻の口寄せを依頼して実穂高と知り合う。(宿世 宮地家の御当主で那津の義父「護衛」、村長「桃語る」に登場)
宮立 倅 細方…(宿世 宮地家の息子でご当主、那津の夫「護衛」に登場)
津根鹿 …妻子出産の祈祷で実穂高と知り合う。出世は訳ありで、誰が父なのかは実穂高だけが霊視で知っている(宿世 宮地家の孫で那津の長男「護衛」の最後に登場)
西渡… 剣士。妻の死体が蘇って歩き回ったという件で霊を鎮める祈祷を依頼し、実穂高と知り合う。(宿世 男「桃語る」で登場)
佐織の翁…婆の病の相談で実穂高と知り合う。実穂高は彼と接すると笑いがあって愉しいと思うが、逸彦の見立てではいくつもの死線を潜り抜けて来た凄い人物なのに自然体なので表に凄さを見えない人(宿世 翁「桃語る」に登場)
伏見…海沿いの難所を通り抜けるのに困っていたところ通りかかった討伐の一行と合流。自分達の領地周辺の鬼調査をしていたが、以降行動を共にする(宿世 布師見「城」に登場)
木ノ山…伏見に仕える。話しぶりが大袈裟(宿世 木之下「城」に登場)
獅子吼…鬼大量発生で壊滅した甲斐国出身の者。久しぶりに帰郷したら里の妻も仲間も全滅していた。鬼をやっつける事しか思い浮かばず、鬼討伐に加わる
榮 …天鷲の従妹で幼馴染み。頭に鹿のように枝分かれした龍角を持つ。霊障による病で角を奪われて亡くなる (宿世 源信の妹、潔姫の生まれ変わり)
巽 左大臣…討伐の依頼主だが乗り気でない。ちなみに巽は本名ではなく通称
新路…巽の従者
芙伽… 榮に霊障し、角を狙った女。黒岩に触れ、反命の大元が乗り移っている
那由…逸彦の母役、育ての親の人格。宿世で何度も母だったが、隠岐の島で逸彦が黒岩を斬って以来生まれ変わっても巡り合わない。鹿のような枝分かれした角があるが、霊眼が開かないと見えない。慈愛の化身。「流刑」に登場
那津…那由の子供として暫く生まれて来ない時に、同じくらいの年齢で生まれた人格。商家の娘那津を嫁ぎ先まで護衛する「護衛」に登場