【城】最後の晩
翌朝、屋敷にあがった木之下に、声を掛けた。木之下は喜んで話に応じた
俺は戦いの場に乱入した最初の鬼の事を尋ねた
「凄まじい咆哮と共に襲いかかって来た!」
「それは確かか?表情はどうだったのだ、怒っていたりするように見えたか。体格は?その後釣られてしこ(鬼になった者に比べてどうだったのだ」
細かく問いただすと、木之下殿の言っている内容は少しずつ地味になった
「体格は他の者と変わらなかったな。表情は、険しいが顔つきが既に恐ろしいので、怒っていたかと言えばわからぬ、が、ちいとかん高い声で叫んだだけだったか」
「それで、その最初のしこに殺された者はおったのか」
「殺された者は、あっ」
「そのものに殺された者は居なかった。襲われた者がしこに変ずると、むしろ怖がって逃げていくかのようであった…」
その後、当主は牛が居なくなるのは鬼が関係していると皆に話した。それを俺が一人討伐したが本当に一人だけだとは言い切れないので、三日程俺が滞在し周囲を見回ることになった。隣接する他の領地からも見回って欲しいと言われ、俺は朝から帳が降りるまであちらこちらを見て回った。俺にとってはそれ程苦にならないのだが、当主からは有難いと何度も礼を言われた。自領だけだと他の領地から文句が出るのだろう
俺が滞在する間、木之下殿は顔を遭わせると親しげに寄って来ては、うちの娘はどうだ、嫁に良かろうと言って来た。その度、俺は、鬼退治は神との約束であり、流れ者なので誰とも所帯を持つ気は無いと断り続けた。木之下の娘はもう脈は無いとわかっているのに、父が蒸し返しては断られるのですっかり恥じ入って、屋敷内で俺と会ってもあまり目を合わせず、歩を早めて行き過ぎるようになった
何事もなく三日が過ぎ、皆はもう被害はないだろうと安心しはじめた。俺は潮時だと思い、当主へ暇乞いをした
最後の晩、一緒に晩酌を誘われ、承諾した
「もう行かれてしまうのか」
当主は少し残念そうな顔で俺の盃に酒を注ぐ
「木之下の誘いがしつこくて気をわるくしたかの」
当主は少しだけ面白がっている感じで言った
「退治はしこがいなくなれば不要だ。儂がいると皆に要らぬ不安を与える」
当主は何か考えながら盃を煽る
「逸彦殿、最後にお願いがあるのだがな…刀を見せてはくれまいか」
本当に見たいようだ。隠すようなものでもないが、見せたいものでもない。俺が渋っていると、当主はそこをなんとかお願い申すという、紙笛をせがむ子供のような視線で俺を見つめてくる。俺は根負けして仕方なく頷く
「承知した。部屋に戻るので暫し待たれよ」
「おお、そうであるか。」
当主の顔が嬉しそうに輝く。俺は席を立つ
刀を持って部屋に戻ると、俺を見ると愛想を崩す
「戻られたか」
俺は当主に刀を渡す。当主は嬉しそうに、恭しく鞘から抜き刀心を見始める。すると顔が不思議そうになり、次に硬くなった
「だから言ったではないか、大したものではないと」
俺は若干そわそわしながら、当主が思っているであろう事を口にする
「本当に、その場で最も安いものを買っただけなのだ」
刀は名刀とは程遠い、光も曇っているし刃文も気が抜けたようだ。ただ、行き届いた扱いと自らが研ぐことによって、それなりの存在感はあった
「いやはや摩訶不思議。確かに名刀ではないが…やはり御技とは凄いものだ」
当主は話を俺の活躍を聞いているから納得してくれるが、何も知らない者が見ると只の駄剣だ。当主は刀を俺に返す
「いや、与袮から御技は剣を選ばず人を選ぶのだから、剣を見る必要はないと諭されてな、正しくその通りだった」
確かにそうだが、それはそれで困る。俺はそんなに偉くないのだが
「逸彦殿、当主として本音を言えば側にいて欲しいのだ。所帯を持つ気が無いというのは、何度となく聞いたがな。母上は逸彦殿の使命を果す姿は神の姿そのものだと言われていた。その姿勢こそ人が本来あるべき姿であり、儂が目指すところだとな。だが与袮は引き留めてはならないと言ってな。逸彦殿を頼ることは神の使命を妨げる事になる、儂は儂が成すべき道を己で進むべきだと」
俺は返事に困った。何故それ程俺を高く買ってくれるのか。俺は鬼を斬って生活している放浪者。嫁も子も居らず、何処にも居場所がない。何も生み出さず、何も作らない。農家は食べ物を作り、漁師は魚を獲る。領主はその地の安全を守り、子は次の担い手として大きくなる。鬼でさえ鬼になる前は人なのだ。それを斬ることしか出来ない俺は、一体何者なのか。少なくとも褒められる者ではない
俺は陰気な顔をしていたのだろう。領主は俺に酒を注ぐと話す
「逸彦殿、与袮は逸彦殿はご自身の誉れを受け取っていないようだと申すのだが」
当主はいぶりがっこを口に入れて何か思案する
「これは昔話として聞いて欲しいのだが」
「昔、ある漁師が魚を捕まえると、魚が逃してくれと懇願した。漁師は困ったのだが、魚のおかげで生活しているのだからと、その話を聞き入れ水に戻した。次の日、魚を捕まえるとまた魚が逃してくれと懇願した。昨日約束した魚かもしれないと思い、水に戻した。その次の日もまたその次の日も魚を捕まえる度に懇願された。漁師仲間からは彼奴は気が触れたと言われ仲間外れになるし、嫁も来ない。それでも俺は漁師だからと魚を捕まえ続けた。捕まえる度に懇願され元に戻す。やがて漁師は遂に生活が出来なくなり、亡くなってしまった。
周囲はそれを笑い者にしていたが、ある日一人の仙人が村を訪れ、漁師が魚を捕まえていた場所で説教を始めた。魚の願いを聞き入れ水に返し続けた漁師の話だ。彼は魚との約束を守り通し魚の使命を全うさせたのだ、と。魚は人の糧となることを使命として漁師に捕まえられてきたが、余りに人が大量の魚を捕るのでこのままでは魚は少なくなってしまい使命を果たせなくなる。そこで魚が神に相談すると、この漁師に捕まり逃して欲しいと懇願するよう話された。魚はそのようにして仲間を増やし、安心して使命が果たせることになった。魚はその事を最上の恩であると思い、今も魚は人の食として供されている。
これが神の思いであり使命を全うすることだ、と」
当主は盃を煽る
「きっとその漁師に聞いたなら、自分は魚との約束を守っただけで凄い事もしていないし、その為に命を落とす程の馬鹿者だ、と言うのだろう。だが、魚の方からすれば命を守り使命を果たせるようにしてくれた大恩人だ。この事を末代まで語り継ぎ、己の使命を全うする家訓となるだろう。我らがここにいるは、かの大恩人がいるからである、とな」
「我はこれが大げさだとは思わぬ。多くの人が逸彦殿に救われたと思っているし、某も同じ。神は何の意味もなく誰かを神の御使にはしない。その事をもっと誇っていいのでないか」
俺は言葉に詰まった。そのように考えた事はなかったからだ
「逸彦殿、斬るのは辛かろ。合戦ならお互い覚悟の上だ。恨みはないとは言わないが、これも時の運と諦めもつく。だがしこはそうではない。元は只の人だったのだ。先程まで知り合いで仲の良いものがそうなって襲ってくる。皆判っていても、万一人に戻ることもあるのでは、と都合よく願うものだ。その者を斬るのだ。恨まれない筈がない。その全てを背負う逸彦殿がどれだけ苦しいか、儂には想像もつかん。神の御使である前に人なのだからな」
当主は俺の顔を真っ直ぐに見ながら言った
「与袮は逸彦殿が辿りつく先は、神が全てを救ってくれると申した。儂もそう思う。どうか、その事は忘れんでくれ」
俺は気づくと泣いていた。泣くということがあまりに長いこと無かったので、最初は泣いていると気づかなかった。涙が俺の意思とは関係なく流れていた。
「神を信じていない事はない。寧ろ全てを預けている。ただ己が救われる対象だとは思ったことも無かった」
神の高貴さも偉大さも、俺とは程遠い。俺にこの役が相応しいというのであれば、俺はどちらかと言えば鬼と同類だからなんだろうと思っていた。いつこの役が終わり、もう俺がこの世に必要ないとなったとしても、この身などいつでも消えて然るべきだとあっさり受け入れられるだろう。寧ろ、俺が必要とされない世に早くなって欲しいと願うし、神もそう思っているだろう。俺の存在意義は鬼の存在意義と等しいのだから
「そうか。そうであろうな。その剣を名刀に変える程の神祝ぎ(かみほぎ)受くる御身よ。
ただな、ここに導いたのも神なのであろう?神は次に起こることを存じておる。
ならば、我もその一部として、神がこの口に言わせしめたのだとでもとってくれはせぬか」
暫しの沈黙の後、言った
「わかった」
ひとことずつ絞り出すように言葉を繋いだ
「布師見殿、深き洞察と思慮、心遣い、心より有り難く思う。ただ…」
次の言葉が出なかった
当主の心の暖かみを思うと、応えられない自分の拙さに声が震えた
「ひと度思い撓んだら、もう、戻れないのではないかと…」
かすれて、もう言葉にならなかった
ただ、自分の声を聞いて、俺は怖かったのか、と気づいた
「逸彦殿の重荷は計り知れない。すまなかった。今宵は遅い。明日に備えて休むがよし」
客間に戻って床につくと、涙に流されたか胸の重さが少し晴れ、息をするのが楽になったように感じた。
布師見殿の前で泣いたのは不覚であったが、自身が内側に押し込めていたものを見透かされ、指摘されたのはさすが美代の子だとも思った。本当に神が彼にそう言わせたのかも知れない
俺は外から聞こえる木々のざわめきに耳を澄ました。夜の中で休む事なく風が働いて、木の葉を鳴らすのは、それすらも神の技なのか。
広い空に、漂うようにいる己を感じた。木の葉の音を聞きながら、俺が眠ろうとすることも神はご存知なのだろうか
神をしる者は愛もしる
己のうちに秘めたる光をみよ
輝き放ちたる彩こそが
己が命たるに相応しい証
見よ 見よ そして讃えよ
我が使命を全うしうるものこそがしる
その証を
突然俺の中に声が響く。美しく響く言葉一つ一つが圧倒的に強く心を打つ。目が眩む程の光が辺りを覆い、言葉が放たれる度に輝き散る。俺は自分が全てを知っている事に気付いた。この先に何があり、どのような出来事がいつ起こるのかを。だが何もわからない。それは手で光を掬うようなものだ。光はそこにあるのに光を掬っても持つことはできない。ただそこに光があるだけだ。だが確かな事は、たどり着く先にあるものは安心だ。だから俺は己を見ようと思った。全てを知っているしその先が安心なら、もっと周りを見てみようと思った。俺の頬を伝う涙は歓喜だと今、気づいた
「チチ チチ チチ」
鳥の鳴き声で目を覚ます。まだ周りは少し暗いが遠くから微かに人の声がする
ぼんやりと昨夜のことを思い出す。少し恥ずかしくもあるが、感じたことを口にできた事は俺にとって大きな事だった。少なくとも、俺はもう少し己を信じて良いのではと思った
俺は出立の準備を整え屋敷の土間に向かう。そこに布師見殿と与祢、木之下殿がいた
「逸彦殿、出立されるか」
俺は頷く。俺が見送りはなるべくしないで欲しいと断わったので、三人だけにしてくれたのだろう。こういう別れはいつも苦手だ
木之下殿が、朴葉で包んだ弁当と、いくつかの保存食とひと連なりの干し柿を差し出した
「道中の食と干し柿を用意した。己妻と娘が作ったものだ」
布師見殿は畳んだ着物と一つの小さい紙包みを俺に差し出す
「柿渋で染めた上着と、これは柿渋を煮詰め干して作った丸薬だ。役立つこともあろう。味は苦いがな」
与祢はそれらを袋にくるんで、俺が持ちやすいようまとめた。有り難く頂戴する。移動中の食を確保するのは時間を食うのでなるべく保存食を食べている。柿渋を自分が飲むような事態はなるべく避けたいが、必要となろう。与祢の目が潤んでいるのが目に入った。俺はそれを見なかった事にして、目を伏せた。与祢は終始無言だった。何か言い出せば感情が抑えられなくなり、それが俺の心を揺さぶるとわかっているのだろう。ここでいつになく温かい待遇を得たのは、美代のおかげだ
上り口に腰掛け、わらじを履こうと足を入れた。わらじの紐が擦り切れそうになっている。俺は荷から先日貰った新しいわらじを取り出し、履き直した。
「さて、世話になった」
俺が立ち上がり振り返ると、布師見殿が一振りの刀を差し出した
「これは此度の報酬だ。受けてくれ」
鞘と柄を見ても業物とわかる
「高価なものと見受けるが」
「次男が元服する時にと、用意しておいたものだ。されど、これは逸彦殿に受け取って欲しいのだ。神の道に役立てるなら、剣も儂も本望と言うものだ」
布師見殿は笑顔で半ば強引に俺に突き出す。俺はこれが神の授けてくれたものだと思い受けることにした
「かたじけない。頂戴する」
俺は両手で刀を受け取り、背にかついだ
俺は表に出ると歩き出す。朝日が山の端を超え始め、明るい陽が斜めに木々の隙間を透かした。朝独特の始まりを告げる雰囲気と風は、今日一日が一歩一歩あゆみだす煌めきを告げるようだった