【決戦】当て
この物語はフィクションです。
玉記は弓をつがえ、的とした兎に向かって放つ。矢は真っしぐらに兎の駆ける先に飛び、その下に飛び込んで来た兎を射抜いた
玉記は実穂高と水師の剣術の師だが、己は弓の方が得意だった。当たるべくして当たる時、矢筋が先に存在し、己はそれに順い矢が放たれたいと思う時に手が自ずと離れる。何か我を超えたものに動かされているような気がして清々しい。当たる時には矢を放つ前に当たると感じる。その感覚が好きなのだ。ところがいつもそうではない。そのような心持ちに己を持って行きたいと思うのだ
実穂高と居ると、そういう心持ちになれる。彼は相手をそのものとする空気がある。誰に対してもそうだが、相手の心中を察してその意図を尊重する。己の我を押し通そうとしない。凄いな、と思っていた。ところが宮中や彼に反感を持つ者は真逆の事を言う。実穂高といると話したくない事まで話させられるとか、此方の意図を汲もうとしないとか。何故そうも評価が真っ二つに分かれるのかと思ったが、元々実穂高を己に都合よく動かそうとする者に対して、限度を越えると見なすと、実穂高は容赦なく相手が言われたくない本心を突くらしい
普段誰にも柔らかく接しているのに、やはりあの剣の稽古で見たまま己を守らねばならぬ立場なのだ。七年の間に成果を出し、現場においてはその信頼は厚い。口伝てでの仕事の依頼は確実に彼に良い評判を残している。ただ大きな儀式や政事に関わる事は実穂高にやらせてその功績は賀茂の義兄弟が持っていく。致し方ない
実穂高本人は剣より弓向きだと思う。集中力と決定力が凄い。当てるとなれば必ず当てる。本人にそう言った事がある。だがそれを聞いて暫く黙った後、実穂高は言った
「だが、相手の命を奪うかも知れぬのに、我が命を賭けずに遠くから戦うのは如何なものだろう」
答える言葉を失った
剣術の手合わせをさせようとすると、実穂高が小柄なのを見て舐めてかかった者も、いざ試合が始まると実穂高の殺気に当てられ、怖気づいた。相手が実力を出せない状態では練習にならんと思ったのか、実穂高は試合が完全に始まるまで己の気合を抑える事を学んだ。見た目で実穂高の実力を少なく踏んだ相手が、してやられるのを見るのはやはり胸が空いた
実穂高と水師で手合わせをさせると、それはいつまでも続いた。二人は互いに相手の手の内を読み切った。二人は本気で勝負しながらもそれを楽しみ、笑みすら浮かべていた。その様子はさながら剣舞のようでもあった。ただ、体力の持久という面で、長びくと実穂高は負けてしまう。その駆け引きで実穂高は前半戦に全ての機知を賭ける。まあ、見ていてこの二人は飽きない
鬼討伐に熱心だと思ったが、逸彦殿と、実穂高の集めた面々を見て納得した。京より余程居心地良く過ごせそうではないか
逸彦殿と会って話をしてみたいと思っていたのに、いきなり倒れてしまうとは。また機会があるだろう。皆の話では遭遇した鬼の群れを、逸彦殿が一人で退治したと言うから、やはり並みではない。
玉記は動けない兎のところまで歩いて行く
兎から矢を抜き、獲物を腰に括りながら、天鷲は何故今回の狩に参加せぬのか首を捻った。どちらかと言うと、こういうのは乗ってくる性質なのに
天鷲は一人で下を見て屈みこんでいる実穂高に背後から近づいた
「なんだ、居ったのか。皆と共に狩りへ行ったと思うた」
実穂高は振り向いて言ったが、またそのまま目の前の草にご執心である
「薬草を見つけて、採って居った。これは津根鹿の滋養に良さそうだ。逸彦の気持ちを鎮める茶も良いな…」
突然その身体は後ろから羽交い締めされた。実穂高は驚いた
「何するのだ」
「汝は女であろう、実穂高殿」
振り解こうとしたが、その動作は止まる。このところ急に見破られることが立て続けだ。己の術が弱いか、勘の良過ぎる相手が揃っているのか。逸彦への気持ちで隙が出て招いてしまうのかも知れぬな。ふう、と溜息をつき、ぶつぶつ呟く
「天鷲殿も勘が良いか。まあ角が見えるし。霊視もできるしの。というかそれ言うのにわざわざ拘束するのか」
「実穂高殿。全く面白きお方だ。初めて邸に訪れた時から、女なのではと思って居ったぞ」
実穂高は後ろ向きながら困った顔をしていた。
天鷲は腕を緩め解いたがその手を滑らせ、そのまま実穂高の摘んだ薬草を握る手を掴んだ。手を握られてまた驚いて肩が揺れる。振り向けなかった。その耳元に息を熱く感じる程近く囁く
「麻呂は汝を想うている。汝のような女子に初めて会うた。どの女子にもこのような気持ちにはならぬ。誰も物足りぬ」
実穂高はこんな事態は考えた事も無かった。息が止まる。心臓を掴まれたような気がした
「何だそれは。麻呂とは釣り合うとでも」
「いや、汝の方が高みにあろう。だがその孤独も麻呂はわかる。だから共に居て、支えられたら嬉しく思う」
細い身体が震えている。やっと言う
「榮殿を、天鷲殿は愛していたろう。救えず悪かったが、汝にはそういう道もあった」
天鷲は動揺したのか一瞬手を掴む力を緩めた。それで実穂高は手を解いて立ち上がり向きを変えたが、逆に同じく立ち上がった天鷲と近く向かい合う形になり、顔を横向ける。この場から逃げ出したいが逃げ出せない。動いたら捕まえるつもりだろう。天鷲は真っ直ぐに己をぶつけようとしてくる。それも裏切れなかった。天鷲は実穂高の横顔を見つめ言う
「そうかも知れぬが、麻呂が愛しても榮は心を開かぬ。誰にもだ。榮を愛すると寂しくなる」
男としての眼差しを受けて、己の女を意識していなかった実穂高も、それを思い知らされ流石に顔が上気した。己の孤独を言い当てられた事にも狼狽え、涙で目が潤んだ。
「そのように思うてくれて礼を言う。我は孤独だ、確かに。だが、今は我は…」
天鷲は気づいた。実穂高の心には他の者が居るのだ
「悪かった、他に好いた者が居ったか。…逸彦殿か」
実穂高は横向いたまま無言でいたが目が揺れ動き瞬きしたのを天鷲は見た。否定しなかった
天鷲は同時に、実穂高に愛があったとしても、逸彦はそれを容易に受け取らぬだろう事も察した。実穂高はそれに苦しんでいるのだろうと思った
天鷲はそのまま実穂高を抱き寄せた。子供を抱き締めあやすように、その華奢な身体を包んだ。想っている以上は幸せになって欲しいと願い、そうした
実穂高もそのようにした天鷲の気持ちが良くわかった。そう思う側だったからだ。好意を受け取って良いのか戸惑ったが、己の寂しさと不安が涙となるのに任せた。いつもは他者の心を癒す為に誰かの心を抱きとめていたが、他者にそうされる側となった。涙はなかなか止まらなかった。己が思っていたよりも、孤独は深かった。賀茂にあっても、いつその身を追われるかも知れぬ。我が実績は賀茂の他の者に取られる。実穂高は本当の意味で他者を頼った事が無かった。
いつも最後の決断は一人で行っていた。己の行動に全責任を取り、誰のせいにもしなかった。己の器の大きさを知れば知るほど、己は他の者のように楽はできないと思って、他人に助言するからには己ができるようにならねばと思った。結果を出せる己となる事を課して来た。誰よりも知る事を求め、知る事に全てを賭けて来た。それが特殊な己の生きる道だった。その傍らに誰かが居るなど考えようも無かった。孤独であるのは実穂高にとってあまりに当然の事だった
優しい声で天鷲は言った
「汝は孤高だ。知っている故になのだろう。麻呂は己がそうだと思うていたが、思い上がって居った。それすらも及ばぬところに居られるのだろう。誰しもが、汝の愛にすがりながら、汝に与えるに足るものは持たぬ。それでも愛は尽きぬのか。実穂高殿、汝も受け取られよ。汝がどう思おうと、麻呂は汝を愛する。男として見られぬならそれで構わぬ。己が幸せになると誓ってくれ。そうで無ければ身を引くに引けぬ」
「…わかった。幸せになる」
掠れた声でやっと言ったが、天鷲に言い当てられた事はそのまま心に刺さった。それで一層涙は溢れ、しばらく天鷲の胸に顔を埋めていた。天鷲の衣が濡れるのが気になって離れようとするが、天鷲はそれを許さなかった。頭をそっと抑えて、泣き尽くすのを待った。
涙が枯れる頃、実穂高は笑いが込み上げて来た。己が他者にして来た事をされた事が可笑しかった。深い哀しみがその奥に喜びを携えていた事を薄々感じ始めた。胸の中でくつくつと笑い出し、そうしてようやく少し驚いている天鷲の手から解放された。
実穂高は真っ直ぐに天鷲を見た。天鷲も実穂高の開放された笑顔を見た。返礼のように、ぎゅっと天鷲の身体を抱き締める。すぐに身を離すとそのまま実穂高はまたしゃがみ込み、上機嫌で薬草を採り始めた。天鷲は実穂高の心が解れた事を安心し、そして心中で、己は絶対この人に敵わないと思った。
逸彦は起き出して、皆は出掛けていて不在とわかった。先程部屋から出て行ってしまった実穂高をそれとなく探した時に、天鷲と二人で連れ立って森から戻って来るのを見た。その間に漂う空気の和やかさを見た時に、何事かあったと察した。
逸彦の腹の中は燃えるようで、信、いや天鷲を絶対許さんぞと思っていた
天鷲は逸彦と話をせねばと思った。わからせてやらねば、心残りがありすぎて逸彦になど実穂高を任せてたまるか。その機会を窺っていた
夕餉は豪勢だった。各自が持ち寄った狩の獲物は、一行全員に一羽兎が付きそうだった。旅籠に料理してもらう分以外は、捌いて干し肉を作った。それでも多い分は旅籠に進呈した
誰が一番獲ったかと言えば、やはり太方だった。当然の結果に皆は感心し、また悔しがった。次こそは、と息巻く佐織の翁に、周りは笑った
己は参加出来なかった事を残念に思った逸彦も、実穂高特製の茶を煎れてもらい、嬉しく思っていた
逸彦は大丈夫だと言ったが、津根鹿と逸彦をもう一日休ませようと言って、翌日もう一泊その旅籠に泊まることになった。水師の勘も、実穂高の占いも、休んでも良かろうという事だった。本当のところ実穂高は今後の事について考えをまとめる時間が欲しかった。良くわからない事が起こり過ぎている。明日も狩をしようと佐織の翁は言ったが、また明日決めようと皆は言い、銘々休息を楽しんだ
人物紹介、決戦
逸彦…鬼退治を使命とし、鳥に導かれながら旅をする。宿世の記憶をずっと受け継いで生まれ変わりを繰り返している。移動は常に、山も崖も谷も直線距離で駆けるか木々を伝って行けば良いと思っている。寝る時は木の上
コウ…逸彦の心の中で逸彦の疑問に答えたり、導いたりする内なる声。コウは逸彦の命であり、鬼と戦う時刃を動かしている。宿世「コウと共に」で登場
実穂高…鬼討伐の責任者。陰陽師。実穂高は実名ではなく通称
水師…実穂高の側付きであり弟子。目指す相手の居所をわかる特技がある (宿世 和御坊、瑞明「コウと共に」に登場)
玉記…実穂高の京での信頼できる友であり、実穂高と水師の剣術の師 (宿世 小野篁「流刑」。水の龍 天河「コウと共に」にて登場)
天鷲…玉記の友人。従妹 榮の病の事を実穂高に依頼する (宿世 源信「上京」。地の龍 金剛「コウと共に」にて登場)
実穂高が集めた討伐の面々
宮立 父 太方…亡き妻の口寄せを依頼して実穂高と知り合う。(宿世 宮地家の御当主で那津の義父「護衛」、村長「桃語る」に登場)
宮立 倅 細方…(宿世 宮地家の息子でご当主、那津の夫「護衛」に登場)
津根鹿 …妻子出産の祈祷で実穂高と知り合う(宿世 宮地家の孫で那津の長男「護衛」の最後に登場)
西渡… 妻の死体が蘇って歩き回ったという件で霊を鎮める祈祷を依頼し、実穂高と知り合う(宿世 男「桃語る」で登場)
佐織の翁…婆の病の相談で実穂高と知り合う (宿世 翁「桃語る」に登場)
伏見…親不知子不知の海沿いの難所を通り抜けるのに困っていたところ通りかかった討伐の一行と合流。自分達の領地周辺の鬼調査をしていたが、以降行動を共にする(宿世 布師見「城」に登場)
木ノ山…伏見に仕える。話しぶりが大袈裟(宿世 木之下「城」に登場)
榮 …天鷲の従妹で幼馴染み。頭に鹿のように枝分かれした龍角を持つ。霊障による病で亡くなる (宿世 源信の妹、潔姫の生まれ変わり)