【桃語る】帰還
この物語はフィクションです
醜、醜つモノ、モノーいずれも鬼の事を指す
村に着くと、知った顔が嬉しそうに出迎えた。だがすぐに表情を曇らせた
「毘古よ。爺と婆が…」
「爺と婆がどうしたのだ」
少し前に醜つモノが現れ、爺と婆が襲われたそうだった
爺と婆は既にその亡骸を山に葬ったと村人は言った
「済まぬ。モノが来ると言われたのに備えが足りず」
一体どういう事か詳しく聞くと、占いをする女が訪れて此処をモノが襲うだろうと言ったそうだ
猿女だった
モノはまだ周辺にいて、森奥へ逃げ込んだと聞き、毘古は森へと入った
懐かしい森だが、爺と婆を失った毘古は、その森が前とは違って見えた。爺と婆が居てこそ、その森は吾が庭であった。今は他所者のように、感じた。
毘古はがむしゃらにモノの痕跡を追った
やがてモノを見つけると太刀を抜いた
記憶が飛んだ
気づくとモノが倒れて居る
毘古はそれはかつて人だったという事を思い出した
村長としたように、せめて森の中になきがらを運び入れ、軽く落ち葉をはらはらと被せ、弔った
かの者も苦しかったのであろう
己が己でなくなる事に怯えながら、幾日かを過ごしたのであろう
村長が己を斬ってくれと頼んだ時を思い出して、また毘古は涙した
毘古は家に帰った
村人にモノは斬ったので安心するよう伝えて、吾が家に入った
そこには誰も居らず、火も絶えていた
毘古は火を起こした
火が灯っても、何をしようという気も起こらず、ぼうっと火が揺らめくを見ていた
どれくらいそうしていただろうか、誰かが入り口の戸を叩いた
開くと女がいた。猿女だった
「汝か…」
猿女は入り口をくぐった
他に誰かが居るだけでも、少しほっとした。誰も居ない家は火が灯っても寒々しい
「吾は忠告したが、村人は信用せなんだ。爺と婆亡くしたそうで、桃木の毘古、不幸であったのう」
不幸、不幸とは何であろう
毘古は己を不幸と思った事は無かった。起こる事は起こるべくして起こるのみで、それが不幸という受け止め方があるとは思っていなかった
だが、確かに、爺と婆が居なくなって、二人が居る事がそれだけでも既に幸いだった事は知り得た。それは恵みだと思った
「寂しいであろう。吾が慰めてやろう」
女は座っていた場所を変え、毘古に身体を近づけて来た。その腕を毘古の首に回し、もう片方の手を背に添わせた
寂しいとは何であろう
爺と婆が居らず確かに寂しいが、それは己が心である。他人によって己が心がどうにか変わる事があるのだろうか
毘古が考えていると、毘古の身体には冷たい感触が走った
背には短刀が刺さっていた
身体を離した女の手首に、朱い瑪瑙の玉が草の緒に通して巻いてあるのが目に入った
ああ、あの男は探していた女だったか…亡くなっていたのではなかったのか
身体に力が入らなくなった。毘古は横倒しに身を崩した。
「汝吾が夫だった男にその太刀を譲り受けたか。言うていた。先楽しみな童に出会うたと」
二人が会えたなら良かったと思い、吐く息と共に言った
「会えたのか」
「ああ。吾を見て去った。
病に伏した吾を死から逃れさせようと願うたのは彼の男だ。吾が生くるは彼の望み。そもそも、吾を一人きりにして防人して長く帰って来ぬから吾は患ったのだ」
女は笑った。その笑みは少しも楽しそうではなかった
「浜の黒岩に吾を触れさせた。神気ある言うてな。それで知ったのだ。全てを知るようになった。己が命の道に囚われているとわかり、そこからの解放され死から逃れるを求めた」
「吾に触れた者は変化する。それは命の定めからの解放。命の定めを疑う者が増えれば吾が力も増す。吾は神のようではあらぬか」
女は倒れている毘古に顔を寄せ、囁いた
「汝は神であろう、桃木の毘古。汝亡ければ神に成り変われよう」
「吾は神ではあらぬ…」
目を開けているのも辛くなった。その耳に女の耳障りな声が届く
「モノ共は吾の言う事を聞く。此処にもモノを向かわせて、汝の帰りを歓迎しておいたぞ」
何か恐ろしい事を聞いた。この女が爺と婆を襲わせたのか
「毘古よ。その光る太刀貰って行く」
鞘の金具の鳴る音がした。遠のいて行く足音と、戸の開かれる音がした
しかしもう目も開かなかった。口をきく力も残されていなかった。もう、考える事もできなかった。ただ、命を成し得なかった後悔だけがあった。声はやる事は沢山あると言っていたのに
翌朝、隣人は毘古の亡骸を見つけた。毘古は村人にも愛されていた
毘古の亡骸は村人らの手で山頂に運ばれ、そこに置かれ、弔われた。鳥葬にふすのである
冷たい骸が山の頂きに横たえられていた
鳶は山頂の上を周りながら飛び、亡骸の傍らに降り立った
鳶はその冷たい頬に己が顔を擦りよせた
毘古の意識は鳶に告げた
申し訳あらぬ
命成し遂げ得ず…
その後悔は深かった。鳶は泣く事は出来なかったが、その内の大元は切なく、哀しい想いで一杯だった。愛する毘古の死を悼んだ
還りましょう
鳶は羽ばたくと身を起こした
すると毘古の身体は輝く光に包まれた
光が天に向かって消えていくと、その後には毘古の骸は無かった
残された着物がそこに何者かがいた事を物語った
のち、そこを訪れた村人は着物のみが残され、毘古の身体の骨すらも見当たらないのを見た。彼はやはり桃木の毘古は神の御使だったのだろうと思い畏み、石をその場所に置いた
汝は知るや
我が根から生まれしその者を
愛の愛たるを愛し
命が命たるを知らんとした
その身を愛の道に捧げた者を
我が分身たるその者を…