【桃語る】鎮魂
この物語はフィクションです
醜、醜つモノ、モノーいずれも鬼の事を指す
灰狗は一人で居たいと、浜辺で野宿していた
二人は村長の家に戻った。小さな村長の家の中には、火を挟んで向かい合う村長と毘古がいた
火の照らす影が家壁に映って、二人の背後に揺らめいていた
毘古は村長の心を案じた
これほどの重荷を背負う強さに敬意を払って、ただその顔を見つめた
村長も己の真意はこの青年には伝わっているのだとわかっていた
「吾は毎日此処に居る人々の様子を見て周り、話を聞いている。その話しぶりや顔つきで、どの位病が進行しているのかを見極めるのだ。皆は明日にも己を失うかもしれぬと不安を感じている。皆が最も恐れているのは、人の心を完全に忘れ獣としてかつて親しかった者に危害を加えぬか、という事だ。それから、人として死にたいと。それを慰め、落ち着かせながら、彼らに約束している。その前に吾が必ず死なせようと。だから先走って罪深き自害など決してせぬようにと」
村長は静かに毘古の目を真っ直ぐに見た
「吾の決断は間違っておろうか」
毘古は間違っていないと思った
内なる声に尋ねた。声もそう答えた
「然り。同じ立場なら吾もそうするだろう」
村長は少し安心したようだった
毘古は村長の心の強きは何処から来るのだろうかと思った
己が声に尋ね知る事を何故村長は知り得るのか
それから、人が変化すると村長と毘古はそのモノを斬った
そうしては、二人でモノの亡骸を丁重に葬った
幾日か過ぎて、島には村長と毘古と四人ばかりのかつての村人がいた。灰狗はその後さっぱり戻って来なかった
「人は何故そのモノへ変化するのだろう」
「何故かはわからぬが、ただ、今も吾の心は、一刻一刻その時が近づくとわかる」
空を見上げて村長は言う
「吾が心を照らす明き光は、日毎に減り、暗き事を考えるようになる。その己が真の己ではないと感じるから、正気を保って居られるが。それはまるで何かが心を覆い、照らす日を曇らせるかのようだ」
そして毘古を見るとはっきりと、言った
「もし此の身を斬れと言ったならば、まだ吾が人のように見えても、必ずや斬れ。完全に変化してからでは遅し」
「恐らく、これは命にとって重要だ。命が完全にその源から切り離されたならば、もしやと思うが神の元へ還れぬやも知れぬ」
そして念を押した
「必ずやそうするのだ。吾と約束せよ、桃木の毘古。吾が命の為に」
その目は真剣で、有無を言わさぬ強い決意があった
毘古はその心に抗えぬし、そうしてはいけないと思った
「わかった、そうしよう。約束する」
毘古は村長の命の為に約束した
数日の後、変化する度に村長と毘古が斬って、村人は全員居なくなった。最後の亡骸を葬ると、村長は毘古に言った
「さて、その時が来た。吾のすべき事は終わった。もう吾を留めるたがは外れた。毘古よ。此の身を斬ってくれ」
確かに毛深くはなってきて、角はその額に盛り上がり始めていたが、村長はまだ充分に人に見えた
「村長、それはまだではないか」
村長は膝をついた
「桃木の毘古よ、約束を果たせ。己が心の事だ、己で良くわかって居る。もう生きる気力が無いのだ、もう抑えられぬ」
そして笑顔を見せた
「汝の太刀は神の力宿っておろう。そのような剣で斬られるとは、名誉であり、良き体験となろう。吾に人としての最期を与えよ」
毘古は胸の内の声に尋ねた
声はそうせよと答えた
毘古の目からは涙がこぼれた。剣を鞘から抜き、意識を失った
気がついた時、目の前には村長の骸があった
手には斬った手応えが残っていた
毘古は嘔吐した。腹の中のものが全部出ても、吐き気は止まらず、しばらく膝をついていた
そして突っ伏して泣いた。涙はとめどなく流れた
毘古は泣き続けた
「終わったか」
灰狗の声がした。振り向くと灰狗が己の太刀を持って立っていた
灰狗は毘古に斬りかかる。その刃は毘古の身体に確かに当たった。手応えを感じて灰狗は笑った
「汝をあやめれば、神になれるのだろう」
「何だって?」
「そう聞いたぞ」
「そのような事、言うは誰ぞ」
「誰か…」
その先、言葉は無かった
灰狗はモノに変化した。毘古は太刀を抜く
気づくと、足元には灰狗の破れた衣を着たモノの死骸が倒れていた
声に順い纏っていた二枚の皮は、刃が毘古の身体を切る事を防いでいた。かする程度に、肌の表面が切れただけだった。
毘古は村長に敬意を払い、丁重に葬った
灰狗だったモノも葬った
もう島でするべき事は無かった
毘古は舟に乗って漕ぎ出した
村長が毘古が此の島を出る時の為に、村人達が乗って来た舟の在り処を教えていたのだった
毘古は暗澹とした気持ちだった
成しても、成したような気にはならなかった
こういう事なのか。吾がすべき事とはこういうものなのか
内なる声に問う
これは一つの側面に過ぎぬ
まだすべき事は沢山ある
その答えをどう解釈して良いのかわからなかった
もう声を聞くのが辛かった
毘古は村長の村に来た
先にサカシナと久支が帰って居る筈だ
だが、村人は毘古に冷たい目を向けた。己が家族が島に行った者もいた。
村長を失った村は意欲を失い、方向を失った。その村は停滞が支配していた。
失ったのは毘古のせいでは無い。それをわかっていても、大切な者をあやめたのであろう毘古は、複雑な憎しみの対象だった
穢らわしいもの見るような目を向けた。サカシナは寄り付きもしなかった
毘古はいたたまれなかった。久支は毘古を見つけると軽蔑したように言った
「吾を縛りあげ、代わりに仇を討ってくれたろう。礼言うよ」
毘古は心を逆なでされる気がした。村長の善意と誠実さを受け取ってもらえず哀しかった
礼を言う者もいた。少しばかりの野菜と塩をくれる者もいた。だが目を合わせようとはしなかった
毘古はその村を出た