【桃語る】知自身
作中に歴史上の人物が登場しますが、この物語はフィクションです。
汝は知りしか
その名をその功績をその献身を
此処に我が記憶を語ろう
我が道より生まれしその者を
この桃の林は春にいつも花が咲く。咲いた後に楽しみなのは、その実である。毎年それが熟す頃を待ちわびて、子供らが木に登る。鳥と奪い合いだ。鳥は熟れて美味のところをよく知っている。
しかし今年は少しばかり違っていた。その中の最も多くの実をつける最も大きな木が、ひとつの実も成らなかった。
桃の木の根元に、一人の赤児がいた。そこそこ暖かくなってはきたが、まだ朝夕は空気が冷たい。その中で赤児は包む布一枚無かった。嫗が通りかかった時、赤児は自分の足指に戯れてしゃぶろうと試みている最中だった。
誰ぞが捨てたのかと思った。顔を覗き込むと赤児は嫗の顔を認め、笑い声をあげた。
大層ご機嫌だった。身体は特に痩せてもおらず、食い扶持に困って捨てたようにも見えなかった。嫗は困ったが、ここに置き去りにしては獣に喰われてしまうと思い、連れ帰る事にした。
家に帰ると翁に相談した。赤児は翁の顔認めるとやはり声を出して笑い、手足をばたつかせた。二人には子が居なかった。しばらく貰い乳をしながら、村の他の者に聞けば母もそのうち見つかるだろう。それまで二人でこの子を育てても構わないだろうと考えた。
村の子持ちの母を順繰りに訪ねたが、赤児に関わりのある者は現れず、誰も素性を知る者は居なかった。一通りの知り合いを当たって、もはやこの子の親は現れないだろうと思い、自分達の子として育てる事に決めた。桃の木の根元で拾った男の子として、桃木の毘古、あるいは桃の毘古と呼んだ
桃の毘古はすくすく育った。この子は立ち上がり歩けるようになると、良く動き回り、嫗はその後を追うのが大変だった。こちらかと思えばあちらにいて、次々と興味のある事を見つけては走り回った。嫗は初めて子を育てるので、それが実に嬉しかった。翁も働く事が楽しくなった。家に居る毘古の笑顔を見ると、畑を耕すのも、身が入って、子が居るとはこのようなものなのだと味わう事が出来た。
やがてある程度言いつけを守れるようになると、一緒に畑へ出た。畑の中でも毘古は常に動き回り、芋を掘れと言われればいくらでも掘り出し、林に入っても薪の枝を探せと言われればいくらでも集めた。彼にとってはどんな仕事も、その面白さを見出すのが喜びだった。一通りの事をわかるようになると、彼は一人で里山に入って木の実や山菜を取って来るようになった。
翁はこの子には他の者には無い何かがあると思った。心の中に何か芯のようなものがあり、自らの行いに真っ直ぐだった。翁はいずれこの子は何かを成し遂げるのではないかと思った。もしそうならば、翁はこの子を育てるという幸いは神の贈り物だと思った。嫗もまた、己が産んだのでは無い事もあり、この子は神の預かり子だと思っていた。二人は毘古を大切に育てた
その頃、村の周辺では奇妙な事が起こる噂があった
人が突然角が生え始め毛深くなり、あたかも獣に変じたように、家族であろうが隣人であろうが襲うというのだ。皆で追い立てると森に逃げ込み潜むが、森に行くとそのモノに襲われる事があるので、森に一人では行かぬように言われた
毘古もまた、嫗に森に一人で行かぬように言われたが、毘古はそれを恐れてはいなかった。むしろどんなモノなのか見てみたいと思った。森の他の獣とはどのように違うのだろうか
ある日、毘古がいつものように森に入って薪を集めていると、茂みが揺れ、何ものかが居る様子だった。毘古は太い枝を拾って身構えた
しかし、茂みから出てきたのは初めて見る男だった。髪をみずらに結っていた。彼の着物は木の実や葉が纏わりつき、森の中を移動して来た事がうかがえた。大分くたびれているように見えた。彼は太刀を腰に下げていた。毘古は太刀を見た事が無かった
「童よ。こんな森の中を一人で居ては危ない。そのように言われなかったか」
「汝この村の者ではあらぬな。いずこより来たのだ」
「隣の村だ。その前はもう一つ隣の村だ。悪いが、童と話す暇は余りあらぬ。我は醜を追わねばならぬ」
「醜とは何ぞな」
「聞いて居らぬか、童。人が変化して醜つモノになる話を」
「聞いておるよ。その話、もっと聞かせて貰えぬだろうか」
男は毘古の顔をじっと見た
「恐れぬ童だな。汝名を何と言う。この森に詳しいか」
「吾は桃木の毘古と呼ばれておる。この森の事なら何でも知っておる。今はこの周りには汝に気配しかあらぬ」
男は安堵したようだった
「左様か。桃木毘古の家に立ち寄っても良いか」
「良かろ。爺と婆も喜ぶよ」
毘古は男を案内した。婆は珍しい客に驚いたが、ただならぬ様子の男を労い、休ませた
男は妻であった女を探していた。醜つモノに村が襲われた後姿が見えなくなった。遺体も無かったので、女がモノに連れ去られたと思われた。男は醜を追って女を探し歩いていたのだった
何体か醜を退治したが、女は居なかった。そうしながら、いくつかの村と森を渡り歩いた
「されど、人が変化するのであろう。何故なのだ」
「その由がわからぬ。ただ、毛が急に濃くなったり、額に曲がった角が生え始めたり、そのうち十日ばかり経つと、すっかり獣のような心になって、呼んでも応えず、家族が誰かも分からなくなるのだ。そして近くの者を誰彼構わず喰おうとする」
嫗は言う
「恐ろしうな。家族がそうなるとは」
男は言った
「もし吾妻見かけたなら、吾が探しておったと伝えてくだされ。妻は草で編んだ緒で朱い瑪瑙の玉好んで身に付けておった」
「わかった。見つけたらそのように伝えよう」
毘古は太刀について尋ねた
「これは武器だ。柄を持って振るい、敵や獣を斬るのだ。はがねで出来て硬い」
男はそれを抜いて見せた。だが毘古がそれに触れようとすると制止した
「安易に触れてはならぬ。これは武器である以上、何ものかをあやめた事がある。童が触るものではない」
しかし、毘古はそれに強く興味を惹かれた。それを使うところを見たいと思った。毘古の様子を見て、男はこの子は普通の童ではないと感じた。毘古と表に出た。
男は太刀を鞘から抜き、毘古の前で振るって見せた
「吾にも持たせてくれぬか」
男は毘古の顔をしばらく見つめたが、太刀を鞘に納めると、鞘ごと毘古に渡した
毘古は男の振る舞いを真似て鞘から太刀を抜いた。
童の身体には合わぬ大きさと重さの太刀、ずっと前から知っていたかのように、毘古は振るった。男は暫く見ていて、良くわかった。もしもこの童が太刀を持ったなら史上類の無い剣士となるだろう。己のような防人とはわけが違う。
「良くわかった。桃木の毘古よ。汝には剣の才があろう、だが今直ぐではない。それまで身体を鍛えておけ」
男は身体が充分に休まると礼を言って、毘古らの家から立ち去った
翁も嫗も、男が妻に巡り会える事を祈って送り出した
毘古は男の言う身体を鍛えるというのがどう言う事なのかわからなかったが、見よう見真似で木の太い棒を振るったり、木にぶら下がって見たり、森を駆けたりしてみた。それは毘古の事なので、鳥や兎を何処までも追いかけてみたり、飛ぶ虫を棒で叩き落としてみたりと、何をしていてもその面白さを見出していた
その男が再び毘古の元を訪れたのは三回の冬が廻り去った後だった
男は酷く疲れた様子だった
「如何されたのだ。妻には会えたのか」
男は立派な青年に成長し、髪みずらに結った毘古を見た
「妻には…もう妻には会うことはあらぬ」
男は目を合わせなかった
「そうか、残念であったな。うちで休まれると良い」
「いや、もう良いのだ。毘古。汝にこれを託そうと思う」
男は己の使っていた太刀を毘古に渡した
「これを受け取って吾はどうすれば良いのだ」
男は毘古の胸を指で差した
「ここに聞け。毘古の思い向くままに」
男は毘古には余計な言葉は要らないだろうと思った。見なかった三年の月日に、彼がどう過ごしたのかはその身体を見れば明らかだった。毘古はその身体にしなやかな筋肉をつけ、自在に森を動き回れるようになっていた。顔つきは精悍で、強い意志を秘めた表情が滲み出ていた。男がたった一度太刀を振るって見せ、身体を鍛えよと言った一言を大切に守り、歳月を過ごせる者が己が何者になろうとしているのかを知らぬ訳は無かった
「汝はどうされる。家に帰るのか」
男は太刀を手放したならばもう防人では無かった。妻を失ってもう独り身だった。彼にはもうやりたい事が無かった
「うむ、家に帰ろうと思う」
男は帰って行った。それが何処の事なのかはわからなかった
毘古は男の事情は良く知らないが、妻は亡くなっていたのだろうかと男の心中を案じた。何故己にこの大事なものを譲ったのかはわからないが、それは毘古の心を震わせた
己がこれほど太刀に惹かれた事も不思議だった。
「吾が胸に聞けと言われていたな。思い向くままにと」
毘古は太刀を鞘から抜いた
毘古は誰かが己を呼ぶのを聞いた
己は何かをしなくてはならぬ
それは何であったろう
太刀の抜き身は白く輝いて見えた
幻であろうか。今はその刃には反射する日の光や空が映る
太刀を鞘に納めると、毘古は翁と嫗にあの男に会い、太刀を貰った事を伝えた
翁と嫗は顔を見合わせた
心密かに、二人は大切な毘古が神からの使いを受けて、自分らの元を去るのではないかと案じていた。それが神の思召しならば祝うべきであったが、同時に悲しくもあった。
嫗は、この頃醜の出没の噂が前よりも多くなった事と関わりあろうかと話した
もし醜を退治というならば、吾が大切な息子をそのような危ない目には合わせたくないと思った。翁はそれは神と毘古が決める事で、吾らの口出す事ではないとたしなめた。
毘古は己が翁と嫗に愛おしまれているのを深く感じた。しかし、もしそうならば尚の事、隠つモノがこの周辺に出るのは良くないとも思った。
翌朝、夜明けと共に目覚めると、毘古は太刀を携え山に登った
山の頂上に着くと、毘古は太刀を両の手で捧げ、神に祈った
「吾が為すべき事あらば、導いて成させよ」
声が響いた
それは耳に聞こえる声と少し違った
その声は言った
毘古よ、この声聞こえるか
道の先を知る覚悟あるか
毘古は道に覚悟が要るのかと思った。だが為すべき事を知りたいと強く思った
「吾は神によって生まれし者。その由を知らねば」
汝が道は他の誰も成せぬ
吾は汝と共に見る
汝と共に聞く
声は消えた
だが声はもう外には無く、彼の内にあった
彼の内側に入ったのだ
己が胸奥で、声は言った
太刀を抜いてみよ
太刀は光輝いてそれそのものが発光しているかのようだった。昨日抜いた時に見たのは幻では無かったのか。毘古は太刀の美しさに見惚れた
吾が授けた剣だ
太刀を抜き振るう時には吾が振るう
これにて斬れぬものはあらぬ
偉大なるものが己が内に宿り、道を指し示す
毘古は胸の内の声に順った