【コウと共に】みざめみそぐ
作中に歴史上の人物が登場しますが、この物語はフィクションです。
鳥が鳴き朝日の光を告げる
山に霧かかるのは夜露の湿り気が日に当たり天に上がるからだ
それらの一つひとつが今は愛の御技に見えた
美しい景色だった
川原に佇み二人はそれを眺めた
逸彦はやがて川に入り、手づかみで鮎を獲った
鮎は川を遡ろうとする
何を目指そうとするのだろう
逸彦は今までそんな事を考えた事は無かった。そんな事を考える己に驚いた。鮎の目指す先に何があるのか知りたいと思った
出来上がったものを食べながら、逸彦はその疑問を口にした
「鮎の目指す先であるか。確かに。ここだと水源である琵琶湖だが」
一度口を閉じた
「だが逸彦殿が言われるはその事では無いのであろう。鮎は、何故水源に帰ろうとするのか」
逸彦は頷いて言う
「我らが川を辿り遡るは間違いないと思う。我らが使命はそれぞれあるが、己が道は高野山を叩く事では無い。悪人を裁く事では無い。我が道を行えばそれは成されると。そして命の望みは知己であると昨夜コウは言った」
「ならば、このまま行って水源を見てみましょうか」
食事の跡を片付けると二人は水源を目指した
やがて二人は琵琶湖に辿り着いた
先程まで晴れていたのに、急に薄雲が日を隠した
何か起こる、と感じた
コウが言う
“現る”
御使の現れる気配だ。圧倒されるが、金剛と旅をしたので少し慣れていた。そのまま、顔を伏せずに見上げた
光に満ち、龍が天から降り立つ。
金剛と似ているが違うのは、身体が輝く水色であり、角が金剛のよりも一回り小さい事だ
コウが紹介する
“天河だ
この湖に棲まう
逸彦は彼の化身に会うた事ある”
「天河様。我はいつ御身の化身にお会いしたろうか」
天河は嬉しげに口を開けて懐こく笑った。やはり威厳と違いかわいらしいと感じてしまうのは失礼だろうか、と二人は思う。
“己は角持つ者を他にも知ろう”
「まさか、篁殿か」
逸彦は天河の顔をじっと見た。篁の角を自身で見た事は無かったが、この龍の瞳の奥に篁がいるのかと思うと、何だか叩いてやりたくなった。照れ隠しである
“触れても良いと言っている”
気持ちを読まれたのか、コウが言った
逸彦は天河の耳に恐る恐る触れた。くすぐったいのか天河は耳をぱたぱたと振るった。遠慮するなとでも言うように、顔を逸彦にぐいと押し付けた
「天河様にお話したら、奥の篁殿にも届くのか」
龍は頷く
「それでは、あの時童故に働いた無礼をお許し頂きたい。それから」
逸彦は胸に込みあげるものを堪えられなかった
「存命の間に伺えなかった事。信殿を守りきれなかった事。汝の大切な友を死なせてしまったのだ。信殿と三人で酌み交わしたかった。信殿は三人で蹴鞠をしたらいつまででも続くだろうと言われた。我は蹴鞠を知らぬが、共にやってみたかった」
逸彦は涙で身を崩した。龍は優しく鼻先を寄せた
「汝といた幼少、我は幸せだった。汝を慕っていた。汝の前では俺のままでいられた。汝が居なくなって寂しかった。母の助言の通りに道を成そうとした汝を我は尊敬していた」
膝をついたまま顔を上げて龍の目を見た
「その気持ちにこんなに経つまで気づかぬ己を許してくれ」
逸彦は自分が篁に言いたかった事を全て吐露した。和御坊が見ているが、もうそんな事はどうでも良かった。もう二度と無い今の時に、今できる事の全てをしてしまいたかった。ギョクの人格が次第に安堵していくのがわかった。人格が違っていても、それはやはり己であり、無視して良いものでは無いとわかった。許さなかったのは篁でも信でも無い。己自身だった
ひと通り天河の顔にすがって涙を流すと、気持ちは落ち着いた
龍は頷いて見せた
それらの光景をすっかり見ていた和御坊は、やはり後ろで号泣していた
やがて二人が落ち着くと龍は逸彦の担いでいる剣を見た
“天河はそれを抜けと言っている”
逸彦は斬るべき鬼が居ないのに剣を抜く事を不思議に思ったが、担いでいる鞘を下ろして鞘から剣を抜いた
和御坊も進み出て、両の手を湖水に浸す。何故かわからないがそうしようと身体が動いた
天河は二人から遠のき湖の上空に控えている
剣は光り輝き、鬼を斬っている時のように舞う
剣を振るう時逸彦は己の意識とは違う感覚で身体が動く
まるで剣に意志があり、身体がそれに着いて動かされているかのようである
身体は自ら動いて、剣で湖の水を斬り払った
大きな碧の湖水の中を、白刃の閃光が走るのを見た
何かが変わった
見た目は変わらぬが、景色から受ける印象は違う
違う国にでもいるように見える
静謐な空気が漂っている
湖を斬る前も此処は美しかったが今は尚美しく、神々しく見えた
二人は何が起こったのかわからないが、ただ嬉しく、笑った
和御坊は鍋で湖の水を汲むと己の頭から被った
それからまた鍋で水汲むと、逸彦に浴びせかけた
逸彦は両手で水をすくうとその水を和御坊に投げた
天河はその大きな身体を、湖の水に投げた
波が押し寄せ、二人はまた大水を被って濡れた
天河は可笑しそうに水から上がり、空を舞った
それを見上げると、二人は何かが成されたのだと言う事を心に思った
二人は童のようにはしゃいで、水と戯れている間、全てを忘れた
そこには過去の煩いも先の心配も無く
命は存在そのものになり、その時は永遠の深みに繋がった
二人はみさみさ(びしょびしょ)になった
とりあえず着物を脱ぎ、絞ったが、早く此処を立ち去った方が良いと感じた。
乾かす間も無く、二人は濡れた着物を着た
天河に別れを告げた。コウが言った
“また会うた時は蹴鞠をしようと天河が言っている”
二人は急ぎ山を降った。身体の熱で、どうやら着物が乾きそうになって来た頃、雨が降り出した。雨足は次第に強くなる様子だ。二人が最初に目についた旅籠に駆け込むのを待っていたかのように、雨風が荒れた。天で琵琶湖をひっくり返したようだったと後で旅籠の者は言い合った
幸い此処は風呂が充実していたので、二人は心ゆくまで満喫し、身体を休めた
みざめみそぐ(見醒め禊ぐ)
人物紹介 コウと共に
逸彦…鬼退治を使命とする。宿世の記憶をずっと受け継いで生まれ変わりを繰り返している
コウ…逸彦の心の中で逸彦の疑問に答えたり、導いたりする内なる声。コウは逸彦の命であり、鬼と戦う時刃を動かしている。
和御坊こと安倍瑞明…目指す相手の居所をわかる特技がある。安倍家の三男だったが性格が正直過ぎるので親兄弟に勘当され、陰陽寮から追い出された。その後、仏道を志すが色々あって寺から逃げた
宿世の登場人物
小野篁…逸彦の幼き頃、隠岐の島に島流しになった篁と出会う。篁は那由に恋心を抱きながらもこの母子との関わりで心眼を開き、京に戻り己の使命を果たさんと政事に関わった 「流刑」に登場
源信…京で流刑から戻った篁と親友になり、篁の死際に隠岐の島の那由とギョク(逸彦)の事を聞く。その後上京した逸彦と出会い、友となる。逸彦が初めて深く関わり友として愛し信頼を寄せた人物。逸彦は再会するがその臨終に遭遇し、助けられなかった事を深く悔やむ 「上京」に登場