【コウと共に】潮垂(しおた)る
作中に歴史上の人物が登場しますが、この物語はフィクションです。
薪がパチパチと爆ぜると、火の粉が夜空へ舞った
「ところで逸彦殿、源信殿について教えてくださらんか」
彼のことを話そうと思うと、どうしても胸に込み上げて来るものを抑えられない
「我にとってかけがえのない友だった」
逸彦は己を晒し出せた人で、初めて逸彦の人格について教えた事を話した
「それは良い出会いをされましたな。人格の話をされたのは我が二番目ですか。信頼されてとても嬉しいである」
和御坊は嬉しそうにしている
「信殿は周りを上手く巻き込んで己のやりたい事をなされた。だが不思議なことにそれを誰も不快に思わん。巻き込まれた人も良かったと思わせる」
「徳の高いお方だ」
逸彦は少し考えてから
「信殿は宮中に潜む隠(:鬼)を広げる因子を危うく思い、それを抑制しようとなされたが、上手くいかなかった。最後はその者らに嵌められ亡き者にされたのではないかと我は思っている。だが信殿は我の使命の優先を重んじ、この事に関わるなと言われた。我は約束した故にそれ以上は追及せず、知らぬ」
「隠を広げる因子…」
和御坊は眼を閉じ考えている。しばらく沈黙が続いた
「嵌められたとは、何かご存知であるか」
逸彦は牛の乳の酒について話した。鬼の好むそれが馬具につけられ、空の壺が厩に転がっていた事、それを回収しに来たものを目撃した事を話す
「本当はその者を問い詰めて信殿の仇を討ちたかった。だが、信殿との約束を違える事は出来ない。いつか再会した時に顔向け出来ない様なことはしたくない。それに我の使命は隠を退治すること。それから外れる事はやるべき事ではない」
和御坊は黙って聞いていた
やがてその目からは先程とは違う涙が溢れた
「やはり逸彦殿は神の使命をお持ちだ。真にそれを貫かれるお姿、感服致す。逸彦殿の心中に忍んだ無念さ、悔しさ、我が代わりに背負いまする」
和御坊はそのまま号泣した。逸彦の代わりに泣き、その無念を声を上げて悲しんだ。慕い、友である者を殺された、その叫びは幾夜の帳をも貫くかのようであった
逸彦は和御坊の姿を見て、己が深く悲しみ、悔しく思っていた事を再認識した。そのように純粋に泣ける事を羨ましくも思った。この男の感情の豊かさは、誠に豊かさであった。この男に係れば、時は喜びであり、喜びと喜びの間の道程が、より彩られ、喜びを浮き彫りにするかのようであった
和御坊が確かに那由の、母様の相を携えていて、己がそれに癒されていると逸彦は感じた。それに連れて、篁の相が信の死と共に去って二人をいっぺんに亡くしたように悲しかった事を思い出した。逸彦が篁の事を話すと、和御坊はこれも熱心に聞いて、心から共に悲しんだ
ひとしきり泣き、和御坊は落ち着くと思いついた事を話した
「そういえば、先程牛の乳の酒の事を話しておられたが、我はそれを知っている」
和御坊は陰陽寮でそれを作っていたと話した
「近くの山の中に小さな蔵があり、そこで作っておりました。中はひどい臭いで、その臭いが漏れぬよう蔵は二重になっていて、入るのに随分と手間がかかり申した」
「それは驚きだ。何故だ」
「我も小さき頃の事で理由は聞きませなんだ。我はお使いでその蔵に行き、小さい壺を陰陽寮に持って帰ってきた。ここに行くと必ず風呂に入らせて貰えるので、好んでこの仕事を引き受けました。他の者はやりたがらなかった」
和御坊は考えるように
「あの壺を持ってきて数日すると必ず仕事が入っていた様に思いまする。 まさか隠や隠の因子をもつ者を引き寄せる為に…」
現代風に言えば火消しの放火のようなものである。和御坊は
「信じられん。奴らはそこまで非道か。このような卑しき者が親兄弟とは…」
逸彦は少し躊躇していたが言った
「このような言い方は気の触るやもしれんが、和御坊殿、勘当されて良かったのではないか」
「まさに然りだ。奴らと同類でない事を我は神に感謝する」
和御坊は頭を垂れる。仏でないところが和御坊である
翌朝早くに出立する。特にこれといった事もなく順調だった。その晩、逸彦は眠りながら昨日の夜に話していた事を思い出していた。信と篁をあらためて想い涙した。それから那由の所に通っていたという賀茂の当主何某を許さんとブツブツ口の中で繰り返した
「ケケケケケケ」
金剛に笑われている
コウは言う
“あの篁へのあしらいを思い出せば分かるだろう
賀茂は那由の掌で転がされただけ
政事に関与する機会を得たのだ”
「母様は未だご存命なのか。今生でお会いできるのか」
“もう愛の元へ還っている
充分長く生きた”
「そうか」
逸彦は目を閉じた。長い一日は闇の中で次に生まれる朝日を待った
翌朝出立し、昼頃先先代の逸彦が眠る墓につく。
墓と言っても、あちこちに石が積まれているだけで、特に他にはない。逸彦が死んだ後、そこの近くの集落の人々が、彼らの共同墓地のような所に埋葬した筈だ。どこに誰が埋まっているのかの目印がある事は滅多にない
「ここに石があるのか」
「いや、ここではない。死期を悟った時に、何処かに自分にだけ分かるように隠す筈だ」
逸彦は先先代の記憶を探る。近くにあった杉の位置に立ち、そこから見える三角岩の近くに埋めた事を思い出した。逸彦はその場へ行き地面を掘り始める。和御坊も手伝い、地下から小さい蓋つきの甕を掘り起こす。蓋を開けると小さい石が出てきた。
「これであるか」
「ああ、そうだ」
石は緑がかり白いが、光を金色に反射する。信殿が生まれ落ちた赤児の時に手に握っていたという石だ
それは信殿が亡くなる日に託されたもの。あの時、汝ならこの石の本当の由を知り得よう、汝の旅の供にしてくれ、と言われた。ずっと大切に持ち歩いたが、その意味はわからなかった。今がその時なのだろうか
「不思議な色だ。金色なのか白色なのか分からぬ」
石を大鷲の前に置く。すると大鷲は光になり辺り一面光に覆われる。それが収まるとそこに立派な角が生えた龍の姿があった。逸彦はこの鹿のような角を何処かで見たように思った
「その角、何処かで…ああ、信殿と同じ角だ」
“信の帝の器に金剛の角を貸し与えていたが
それも不要となり
金剛へ戻された”
金剛は嬉しそうに口を開けた
それから龍は天に高く昇って行き、遠く小さくなった
空は見る間に曇り、雷光が走る
大粒の雨が降り出した
雨はたちまち激しくなり、二人はずぶ濡れになる
金剛が降らせたのだろうか
すっかり着物は濡れてしまったが、嫌な感じはしなかった
昨夜泣き続けた名残の雨なのか、今まで心に引っかかっていたものが洗い清められるような気がした。雨に紛れて二人はまた泣いた。今まで失ったもの、得たもの。そして愛の引き合わせによって今は代え難い友を得たことを。失う事無ければ、得たものの貴さを知りようもなかった。我が道が、確かに導かれ、全てはそのようになるのだと思えた。
“別れても幾千の歳を思いなば我は成らずも恋しからずんば”
那由の声が唄った
愛の大元から龍の目を通して、那由は見ていた
逸彦は我が耳に届いた愛の声を胸に抱きしめた
そういえば、老狼の骸を山に運んだ時に聞こえたのも、龍ではなく、この声だったと思い出した
また逢える日が巡って来るだろう
しかし愛はいつも近くにいるのだ
目を閉じたまま、顔を仰向けて雨を受けた
逸彦は那由に愛していると叫びたいと思った。信殿にも愛しいと言いたいと思った。そして篁にも本当はそう伝えたかったのだと気づいた。あの頃は子供なのでわかっていなかった。篁を敬愛し、慕っていたという事を、本人に伝える機会は失われてしまったのだった
人物紹介
逸彦…鬼退治を使命とする。宿世の記憶をずっと受け継いで生まれ変わりを繰り返している
コウ…逸彦の心の中で逸彦の疑問に答えたり、導いたりする内なる声。コウは逸彦の命であり、鬼と戦う時刃を動かしている。
和御坊こと安倍瑞明…目指す相手の居所をわかる特技がある。安倍家の三男だったが性格が正直過ぎるので親兄弟に勘当され、陰陽寮から追い出された。その後、仏道を志すが色々あって寺から逃げた
宿世の登場人物
那由…逸彦の母役、育ての親の人格。宿世で何度も母だったが、隠岐の島で逸彦が黒岩を斬って以来生まれ変わっても巡り合わない。鹿のような枝分かれした角があるが、霊眼が開かないと見えない。愛の化身。「流刑」「上京」に登場
那津…那由の子供として暫く生まれて来ない時に、同じくらいの年齢で生まれた人格。商家の娘那津を嫁ぎ先まで護衛する「護衛」に登場
小野篁…逸彦の幼き頃、隠岐の島に島流しになった篁と出会う。篁は那由に恋心を抱きながらもこの母子との関わりで心眼を開き、京に戻り己の使命を果たさんと政事に関わった 「流刑」に登場
源信…京で流刑から戻った篁と親友になり、篁の死際に隠岐の島の那由とギョク(逸彦)の事を聞く。その後上京した逸彦と出会い、友となる。逸彦が初めて深く関わり友として愛し信頼を寄せた人物。逸彦は再会するがその臨終に遭遇し、助けられなかった事を深く悔やむ 「上京」に登場