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忘鬼の謂れ〜鬼と戦い続けた男  作者: 吾瑠多萬
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【上京】州浜(すはま)の盆

作中に歴史上の人物が登場しますが、この物語はフィクションです。



翌日、信殿はまた鷹狩に行くと言い出し、俺の乗る馬も引き出した。馬に乗る時に、何かが匂った。何の匂いだろう。だが信殿はやや浮かれている。従者がいるのに、俺と一緒なので信殿は面白げに手加減せず馬を走らせた。徒歩の従者は大変だ。後を追って走るが無論馬には追いつかない。着いた場所は昨日と同じ場所で、さほど遠く無い。

狩場に着くと、信殿と二人で従者を待つ。彼が鷹の籠を持っているので狩を始められないのだ。やがて従者が息を切らして駆けて来るのが見えた。信殿は従者に向かって手を挙げる


すると上空で大鷲が鳴く声がした

「あれは汝の従者の大鷲殿だの。なんと言っておるのだ」


その声に警戒が入っている。俺ははっとした。恐らく鬼が近くに居る

「信殿逃げなされ!」



鬼の気配を感じた。感じてか、馬も足を踏み鳴らす

(おん)がおる」

俺は乗っていた馬から飛び降りた

すると道の脇の枯れた草むらから鬼が突然出てきた。鬼は近くにいた俺に目もくれず、

真っ直ぐに信殿に向かって行った。馬は怯え、驚いたまま信殿の手綱を待たずに突如走り出した。道脇の緩い土手を滑って踏み外し、そのまま泥で濁った沼に向かって傾く。信殿が転げ落ちた上に馬が横倒しに倒れ込み。信殿は馬の下敷きになって水底に沈んだ

「信殿!」俺は駆け寄る


「手を貸してくれ!」

俺は従者に向かって叫ぶが、従者は鬼を見て腰を抜かしたのか、その場にへたり込んでいる。鬼が直ぐ近くに迫ったので、俺は馬と信殿を背に鬼を斬る。悪い事に鬼は複数いて全てこちらに向かってくる。


従者もようやく事態を飲み込み、沼に足を踏み入れ、主人を助け起こそうとするが、馬の重みでなかなか身体を起こせぬ。


俺は次の鬼を斬り伏せる


「信殿、今お助け申す!」


次の鬼がすぐに迫っているのを感じるが、このまま水に顔をつけていては危ない

俺は片手を馬の身体に手をかけ、全力で押した。従者は信殿の身体を引っ張り出した

従者はぐったりした身体を両の手で挟み込むとみぞおちをぐいっと勢いよく押した。信殿は口から泥で濁った水を吐き出し、咳き込んだ。良かった、間に合ったようだ。


俺は襲いかかる鬼に剣をすんでのところで斬り止めた


「早く、馬に乗せて邸へ!」

従者は主人の身体を馬に伏せるように乗せると、馬の手綱を引いて邸の方角へ走った。

俺は少し安堵した。残りの鬼を全て斬り伏せた



俺は剣を鞘に納め腰に差すと、すぐさま従者の後を追った。

従者はまだ馬を引いて走っているが、主人の身体が落ちないよう支えながらなので、どうしても遅くなる


「我が運ぶからぬしは馬に乗れ」

俺は信殿の身体を己の肩に担いだ

それから全速力で邸に向かって走った。


馬を必死で走らせる従者よりも少しだけ早く、俺は邸に着いた


俺は叫ぶ

「誰か!沼に落ちた。早く手当を!」

一足遅れて着いた従者は急いで馬から降りると応急の手当を指示した

家の者が、俺を寝所に案内した。俺はわらじも脱がずに踏み込み、畳の上に信殿の身体を横たえた


家の者が慌ただしく入れ替わり立ち替わり、俺の前を行き過ぎる。俺は半ば茫然と部屋の隅でそれを見ていた。

「逸彦様」

女中(おんななか)が声を掛け、俺にぬるい茶を渡した。俺はそれを一気に飲み干した。

「我らが見て居ります故、お部屋でお休みになっては如何です。何かございましたら直ぐにお呼び致します」


俺は焦点の合わぬ目で女子の顔を見た。無言で立ち上がると、己の客間に戻った


頭の中を廻るのは自責の念だけだった

あの大鷲が、ただ懐かしき友と会うためだけに俺を導いた訳はない筈なのに、何故俺はその兆しを受け取らなかったのだろうか。もう少し、何か出来る事があったのでは無いか


微かに馬に乗った時の違和感を思い出した。あの匂い。何であったか…。


ただぼうっとしたまま時間は過ぎて行った

「何か召し上がってくださいまし」

女中が膳に食事を載せて差し入れたが、到底手を付けられる気分ではなかった


しかし夜半になって、突然腹が減っている事に気がついて、己の気持ちなど忘れたようにがつがつと冷めた飯を食べた。

それからまた座った。座ったまま、うつらうつらして、容態の知らせを待った。


突然確かめねばならぬと目がはっきりした

まだ未明だが、見えぬ程では無い。先程思い出した、違和感。あの匂い。そして鬼の不自然な動き。すぐ近くに俺が居るのに、信殿の方へ向かって行った

部屋から出て、厩に向かった

厩の中には、その匂いがあった。馬の匂いではない。

厩の隅で、転がっている小さい壺があった。栓を抜いてその中を覗くと、それが匂いの元である事がわかる。白く濁った液体の痕跡がある。それから、赤い珊瑚の数珠が落ちていた。俺はそれを拾ってみたが、壺共々元の位置の戻した。俺は確信し、部屋に戻る


「逸彦殿」

女中の声で目が醒める。辺りは少し明るくなっていた。信殿が俺を呼んでいるとの事で、俺は女中の後に続く。女中は容態が安定したと俺に言う。少し安心した。信殿の部屋に着くと、信殿は布団に寝ていた。その周囲には家臣が取り囲み、信殿が何か話をしている。俺が部屋に入ってくると、枕元に近い家臣が立ち上がり、ここへどうぞと手招きする。俺はそこへ座る

「すまんな、こんな(さま)で。助けてくれたようで、恩にきる」

「信殿、申し訳無い。何か感じたものがあったのに、それに気づけずこの様な…」

「いや、汝のせいではあらぬだろう」


弱々しいながら、俺を力づけようとするかのように笑って見せる

「あの兵に囲まれた夜、”最善手を打ったと思っていても、それが正しいかわからぬ時は如何にする”と問うたら、汝はこう言うた。“果実が実るのを待ち、受け入れ、神に委ねる”と」


俺は信殿の顔をじっと見て言った

「訊きたき事ある」

信殿は俺の意を察し、人払いを家臣に命じた。皆部屋を出て行き、俺と信殿二人きりになった

俺は厩に牛の乳の酒と思しき匂いの壺の事と珊瑚の数珠が落ちていた事を伝えた。馬に乗る時に、信殿の馬から匂って、それに違和感を覚えた事も

「馬具に乳の酒の匂いを付けたと思われる。信殿、誰がそのような謀をするのか。その乳の酒の事や中庸の病が隠であった事を知っている者や、赤珊瑚の数珠を持つ者に心あたりはあらぬか」

「恨まれる件なら沢山あるぞ、知っているのは良房か兄弟か、だが…」

言葉を切った

「珊瑚か…」


暫し口をつぐんだ。目を閉じている

「逸彦殿、もし誰かを知っても、(なれ)には関わりあらぬ。汝の心は清い。わがためになんぞ、汝が恨みや憎しみを持って濁してはならぬ。汝は汝の使命より他に、その心を向けてはならぬ」

それから目を開けて言った

「汝は出来るだけ早くここを出立せよ。我が親族が此処へ着く前に。汝に嫌疑掛けられてはわの申し訳立たぬ」


それから、家臣を呼ぶよう言った

「逸彦殿に渡しておきたい物がある」

先程の家臣が州浜の盆を持って来て俺に差し出した

「その石を取ってくれ。それを汝に託す。如何様に使って貰っても良い」

昨日話していた信殿が生まれた時に握っていた石の事だろう

「それは信殿が持っているべきものではないのか」

「いや、汝が持っていてくれ。汝ならこの石の本当の由を知り得よう。汝の旅の供にしてくれ」

俺はその石を手に取った。懐かしく暖かい思いが伝わってくる。


俺は退室した。荷を纏めて、言われた通りにいつでも出て行ける準備をした。


「ケーン ケーン ケーン」

外で大鷲の鳴き声がする。俺は胸が騒ぐ。あれはもしかして、と思う


邸は俄かに慌ただしくなる。呼ばれていないが、俺は信殿の寝所に走った


信殿が咳き込みながら伏している周りでは、家の者達が、行ったり来たりしている。容態が悪くなったようだ。信殿の息は一息ずつが難儀そうに、また水の流れが滞るような濁った音が混じっていた

俺は信殿と別れの時が来た事を悟った。俺は寝所の庭に面した戸を両に大きく開いた。すると、そこには大鷲が控えていた。大鷲は羽ばたくと、すいっと飛んで当然のように部屋に入って来て、横たわる信殿の側に寄る

周りの者はその大きさに驚き怯え、大鷲と間を取った

「驚かずともよい。お迎えだ、そうだろう逸彦殿」

大鷲はゆったり歩いて信殿の頭の上に行く

「皆良く仕えてくれた。礼を言うぞ」

そして俺の方を見て笑みを見せる

「逸彦殿、那由殿に会えず残念だ。もし会ったら必ず言い寄って、篁共々汝に成敗されたの」

咳とも笑い声ともつかぬ声で ふふ、と笑う

「また逢おう、逸彦殿。もし忘れていたら、(なれ)が思い出させてくれ」

信殿が言うと大鷲が鳴く。信殿の身体が眩い光に覆われると大鷲が飛び立ち、その光と共に天井へ吸い込まれる様に消えた。


俺は悲しかった。寂しいと思った。己の無力さを思い知らされ、親愛なる者を失った心は、静まる事がなかった。声を殺して泣いたが涙が止まる事はなかった。拭っても拭っても、涙は流れ続けた。あたかも己の身体の一部がもがれ無くなったように思った。残された信殿の亡骸は安らかな笑顔のままだった

その時、俺は己が篁の死を、本当は深く悲しんでいた事に気付いた。最初に篁が愛の元へ還ったと感じた時に、もっと悲しんでおけば良かった。泣いておけばよかった。あの男が傍らにいてくれた子供の時分が、喜びの時と交わっていたのだと覚った

信殿と共に、篁の(そう)も去ってしまった。二人のかけがえのない人をいっぺんに亡くしてしまったかのようだった



残された家臣の人達は茫然とこの出来事見ていたが、主人が亡くなった事を悟り皆、一様に泣いていた。信殿は家臣からも慕われていたに違いない。一人の家臣が涙でぐしゃぐしゃの俺の前に進み出た

「逸彦殿、亡き主人からの言伝でございます。主人は充分な支度金を渡して早々にこの地を立ち去らせよ申されました。また、主人はここに運び込まれてから、意識が戻らず亡くなった事にするよう言われました。まさかあの様なお別れになるとは思っておりませぬ。主人を運び、また最期の時を看取って頂き、家臣としても御礼申し上げます」

また付け加えた

「数年前も今回も、篁殿亡くされて以来かように楽しげな主人を見ることはありませぬ。主人に良き友ありて嬉しく思っておりました。どうか先々幸あらん事を」

俺は差し出された小袋の金を受け取り、伝言通りにこの邸を出る為に皆が泣き伏している寝所を退室した。




俺は信殿の邸を出たものの、立ち去れなかった。邸の様子を見る事の出来る冬でも葉の繁る立木に登り、潜んで幹に伏していた。

どれ程そうしていたろうか。やがてぽつぽつと親族と思しき人々が到着した。子であろうかと思われる人々、妻であろうかと思われる女、兄弟であろうかと思われる人々。皆死を悼み、亡骸と対面しては涙にくれているようだった。

そのうちの一人が抜け出して厩に向かうのを俺は見逃さなかった

厩から男はあの壺を持って出て来た。手首には赤い色がちらと見えた。壺を脇の茂みに投げ込んで、何食わぬ顔をして邸内に戻って行った

俺の手は背に担いだ刀に手を伸びた。信殿が言った言葉が俺の中でこだまする


「もし誰かを知っても、汝には関わりあらぬ。汝の心は清い。わがためになんぞ、汝が恨みや憎しみを持って濁してはならぬ。汝は汝の使命より他に、その心を向けてはならぬ」


どうしてこれを恨まずにいられよう、憎まずにいられよう


俺は

俺は人の心を持っていなかった訳ではなかった

それ程までに愛しく親しい者を持たぬだけだった


しかし、信殿の諫言は正しい。俺は鬼退治以外に剣を抜いてはいけない

俺は己への怒りを感じた

この災いを食い止められなかった己への怒り。俺は己への怒りをごまかす為に、他人の所為にし、他人を憎んでいる。

それにもしも此処で人など斬ったら、運命を元の姿に戻すなどできようか

俺が道から外れたら神の意を汚してしまう


己の未熟さを感じながら、俺の心は激しく揺れ動いた


「また逢おう」


その言葉は来世を意味するのだ

また逢った時に、此処でその忠言を無視して怒りに任せ人を斬ったなら、俺はどんな顔をしてこの方にまた会えると言うのだろう…


刀に伸ばした手は力を失い、そのまま顔を覆った

涙がまた滲んだ


俺は信殿の言う通りにすると決めた

俺はこの事に関わらない。それは俺の役では無い


俺は木から滑り降りると、森の方へ走り出した

俺の腰の小袋には信殿と共に生まれた金色を帯びる手握りの石があった。

この生を全うして、胸を張って再会できるように、力を尽くすと心に誓った

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