【上京】紅い石
作中に歴史上の人物が登場しますが、この物語はフィクションです。
都に近い市で、旅路の干し肉を買おうと思い、信殿に頂いた金の入った袋を出した時、その中に紛れてきらりと光るものがあるのが見えた。
買い物を済ませてから明るい所で広げて見ると、玉石が入っていた。紅の中に白が混じり、形は楕円形だ。磨かれている以外には加工されていない。何処かで売る事が出来るように入れてくれたのかと思った。俺は無くさない為に、大事なものを入れる小袋に入れ、腰に下げた
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隠岐へ向かえ
神からの啓示だ。信殿の屋敷を出てから、いくつかの村を渡った。夏を過ぎ秋の気配を感じ始めた時、急に啓示が降りた。隠岐へ行ける。母様に会えるだろうかと期待しながら、俺は急ぎ旅支度をする。
「チイチイ」
鳴き声と共に黒い影が地面に落ちる。俺は見上げると陽の光が目に入り見えない。やがて目の前に降りたのは燕だった
「お前が相棒なのか。よろしくな」
俺は玄米をその前に置く。燕はそれを食べると一言鳴いて飛び立つ。俺はその後を追いながら不安に思う。燕は神の眷属、特別な時にしか俺を導かない。隠岐で何か起こっているのだろうか。母様は平安だろうか。燕は森の中を真っ直ぐに飛ぶ。俺は木に駆け上がって枝伝いに渡っていく。いつに無く疾い。
俺は少し焦りながらついていくと、森が切れたところで
燕は地面に降りる。俺はその側にたった
「何かあるのか」
そこは開けた丘で、すぐ側に街道があった。一軒だけ茶屋があるが後は何も無い。確かここはこの峠を境に東と西に大きな都があり、その間を商人が行き来していた。その丁度中間で、荷を担いだ人々が休める場所になっていたはず。燕は茶屋と俺を見ると茶屋の方へ飛んでいく。良く分からないが、俺は茶屋に赴いた
茶屋に着くと、燕は店先で俺を待っている。外にいくつか腰掛けがあり、商人とおぼしき者達が数人、団子を食べては茶を啜っていた
俺が店に近づくと店の者が茶と団子でいいか聞いてくる。それに返事をしたのは燕の声だ。俺は注文して席に座る。女子がお茶と団子が持って来ると、燕は俺の側に降りて来て、団子を突いて俺の顔を見る。俺は団子を小さくちぎると、それを食べた
「あれ、可愛らしき事。良く懐いて」
女子は言った
「まさか団子が食いたくて急いでいたのではあるまいな」
俺が小声で言うと燕はそうだと言わばかりに鳴くと、屋根に飛んで戻る。俺は肩透かしを食らったように思った。この団子に何か特別な意味があるのかとしげしげと見るが、何も分からなかった。食べ終わり代金を置くと、燕は東の街道を飛んで行く。俺はそれを追いかけ走る。
やがて隠岐の島へ行く船が出る地についた。ここから船に乗る。島を出る時には、本土に渡るこの船の上で随分興奮していて、ずっと海を眺めていた様に思う。俺は今度は島に帰る船の上で、信殿の事を考えていた。信殿とは俺は己の本心を話せた。逸彦の記憶の中でもここまで本心を理解し話が出来た人はいない。俺にとって貴重な人だ。あの後どうなったのだろうか。何事もなければ良いが。
船が島に着く。船着場は警備の守部と思われる武装した兵が数名いて物物しい。何かあったのかと思ったが、特に何もなく船を降りた。どうしたものかと周囲を見回していると、燕が俺の前に舞い降りた。
船に乗る前の団子を食べた燕と、この燕は同じなのだろうか、見分けがつかない
燕は俺の顔を見ると、口を開けて、鳴いた。
そして守部を振り返る
俺は守部に話し掛けた
「何かあったのか」
守部は京の都からこの地へ流刑になった者がおり、その者が港に着くと暴れ逃げ出したこと、役人が行方を探しているがまだ見つかっていない事を話した。
協力するのでどのような者か、風貌を教えるよう頼む
「伴中庸と言うのだが、京の門に火を着けて、それを左大臣のせいにして貶めようとしたそうだ。背は高くやや小肥り、暫く牢に居たので、髭ぼうぼうで、髪は散ばらだ。それから、何故か妙に毛深い。暴れ出した時には、正気を失って居るように見えた」
見つけたら、だいぶ危なそうなので、無理をせずに警備兵を呼ぶように言われ、返事をした
これは、京都での火災の後に、源信を貶めようと奸計をはたらいて兵で囲ませた一味だろう。鬼化すると言う事は、柿渋を飲んだ息子の方だ。俺の中に怒りが湧くのを感じた。あの優しく尊敬に価する御仁を位から落とそうなど、許せる訳が無かった。
燕は俺の周りを一周すると、海外添いに飛んだ
俺はその後を追う
この方向は、野田の浦。篁殿と出会った場所だ。その懐かしさに浸る間も無く、燕と俺はその先へ駆け抜ける。このまま左へ行くと家のある方に向かう。もしや那津が、母様が何かあったらどうしよう。嫌な記憶が脳裏をかすめる。
燕は家への道を通り過ぎて、右の森へと向かう小道に来た。ギョクが良く駆けずり回った森の入り口だ。俺は分け入る
手近な木に登ると、そこから辺りを見回す。
その先で、獣や鳥が逃げる草分けの音と鳴き声がする。この先に居る
俺は木から滑り降り、迎え討とうと待った
俺は背の剣に手を掛けようとする
出て来たのは、汚く毛深い大男だった
俺は手を引っ込める。これは人か
確かに、兵の言うようにもはや正気に見えないが、人だ
しかし額には角の片鱗が盛り上がっている
俺は迷った。しかし、怒りは今直ぐにでも、この男を斬り殺したいという思いを俺に煽り立てた
再度、剣に手をかけた
その時だった
「お待ちなさい、逸彦。まだです」
母様だ
「怒りに任せて剣を抜いてはなりません」
「完全に鬼化するまで待ちなさい」
那由の叫ぶ声に我に返る
かつて人だった鬼は喋った
「おれは…」
だがもう言葉にならなかった。その者は言葉を忘れた。心を忘れ、命を忘れ、時から切り離された。もう光は彼の心を照らす事は無かった。その様子を見て、俺は哀しみがこみ上げるのを感じた
目は焦点が合わなくなり、獣のように吠え始め、角が生え、身体は見る間に毛深くなった
俺はそれはもはや復讐の対象にはなり得ぬ事を悟った
鬼は最も近くの獲物である俺に向かって来た。俺も鬼に向かって走る。抜くと剣は神剣となり輝く。俺が己を剣に委ねると、剣は吸い込まれるようにその鬼の心の臓を貫いた。
剣を引き抜くと鬼は倒れた
俺は意識が身体に戻り、剣を鞘に納め、背に担ぐ
後ろを振り返ると果たしてそこに那由が居た。那由の頭には雄鹿よりも立派な、輝く樹木のような角がたしかにあった
「その男は、人の姿でも心がずっと隠(:鬼)に侵されていた故、斬っても人の姿には戻らぬ。彼の命は大元へ還らぬ。完全なる消滅に、ぬしの同情は要らぬ。手を合わせる必要も無し。心の臓貫いたは最後の温情よ」
「我が愛児、ぬしの手を怒りに汚してはならぬ。彼は責任取らされ死した。裁くは我らのすべき事に非ず」
母であり、愛である人格だ
俺は母の前に膝をついた
「申し訳ない。今俺は怒りに任せて剣を抜こうとした」
「わかって居る」
那由は母の声に戻った
「さあ、家に上がりなさい」
二人我が家への道を辿った
先に戸を開けると、母様は囲炉裏の前に座り、薬湯を椀に入れ、俺に座るよう促す
「お帰りなさいませ。逸彦殿」
「ただ今戻りました。母様」
俺が出立した時と何も変わらない。昨日出た家に戻ったかのようだ
中はこんなに小さい家だったかと思う程に狭い。
「良く戻りましたね。変わりは無いようで安心しました」
「母様もお変わり無いようで良かったです」
俺は薬湯を一口啜る
俺は源信という人物と一緒に考えた、鬼になるきっかけに思い当たった事を母に話した
「良く気づかれました。心と命には愛の光が必要。愛無くして人は己が道を行けぬのです」
それから、小野篁殿が亡くなっていた事、その時に遠く離れた所で死を感じた事、信殿との関わりで感じた事を話した。
己には、こんなに話したい事があったのかと思う程、口から次々と話題が出て来た。那津や母様との会話で、疑問に思っていた知りたかった事の多くが、この旅でわかった事に気づいた。母様は相槌を打ちながら、ずっと目を輝かせて俺の話を聞いた
俺の椀に薬湯を足し、また準備してあった食事を温めた
俺は言った
「母様、俺は母様の角が見えるようになった。その信殿を助け起こそうと手を触れたら、見えるようになった」
母は頷く
「ぬし、良い出会いをした。その縁を大切になさい」
その時、俺の目に信殿から頂いた銭に埋もれた紅い石が目に浮かんだ
腰に下げている小袋を広げ、母にそれを見せた
「その信殿から貰った銭に紛れてこれが入っていた。何かご存知か」
俺はその石を母様に渡した。母様はそれを手に持ってじっと見ていた
母に愛の人格が降りた
「これは愛である我が信殿に授けしもの。賢者の証。この石の役は終わった。道を歩くに至る迄の道として授けた故、その道は役を終える。あの者は覚悟を決めたようじゃな」
「覚悟とは何か」
「己が道を極める事よ。ぬしと同じじゃな。愛はあの者の覚悟を受け取った故、戻された」
母様は立ち上がり外の戸板を開けた。そこに燕がいる。母様が石を掌に乗せると燕も掌の上に乗る
「チチ」
燕の鳴き声で石は光となる。燕が飛び立つと光も一緒についていき、やがて空に吸い込まれ見えなくなった
俺は母様に尋ねたかった事があった
「信殿は賢く、物事を深く受け止め、心温かい御仁だった。それなのに、その父である帝も、今の帝も、神と話せぬと言うのだ。何故かご存知なら教えてくだされ」
母様は愛として俺を見つめた
「本当は信殿が今の世の帝になるべき器を持つ者。様々な因にて、理が歪み、運命が奪われた。隠との戦いは、運命を元の姿に戻す為でもある」
「ぬしが思ったように、良く気づくからと言って、政事の役の無い者が首を突っ込んでも、真の解決にはならぬ。全ての因果は絡み合い、複雑ながら完全なる調和を持つ。その糸を紡げるのは愛のみ」
愛の目は調和の織りなす世を見ていた。それは一つの命が一つの音を鳴らし、全体として完璧な楽を奏でているかのようだった。その唄は生きる喜びと寿ぎに満ちている。
例えその命が死すとしても、別れの哀しみを感じたとしても、それは全体の喜びの一部なのだ。命は一つひとつが命ながら、全てとしても命だった
俺は愛の光が真に愛であるという事に打ちのめされた
俺の理解など超えたところで、大きな計画が動いて居る。それは、目先の一つを直せば済む話ではない。その一つの行動が、他の何に影響するのかは、俺にはわからない
母様は言った
「明日はもう一歩、踏み込む事が出来る。行くところができた」
そして今日はもう休むよう勧めた