【上京】囲碁
作中に歴史上の人物が登場しますが、この物語はフィクションです。
その晩応天門にて火災があったらしい。その話は信殿の従者から聞いた。信殿は忙しく動き回って、宮に上がったが、何やら都全体が混乱状態であるのは確かだ
夕刻帰宅した信殿は疲れた顔をしていた
それなのに、俺の顔を見ると言う
「囲碁でもせぬか」
小間使いに囲碁版と碁石を用意させる。
俺は囲碁を知らない。そう言うと一番簡単な遊びを教えてくれた。囲い込んで相手の石を多く取った方が勝ちだ。信殿は俺と勝負したいのではない。一緒に気を紛らわせる事をして、気持ちを整理したいのだ
信殿は白い石を取り、俺は黒い石を渡された。石を一個ずつ交互に指して行く
よく話される信殿が、今日は寡黙である。何か悩んでいる様子だ
己の白い石を置く手をはたと止めた
「汝は、己の運の筋をどう読む」
思いがけない問いかけに、俺はしばらく黙した
「胸の内の神に問う。もしくは、鳥が導く」
「そうであろうな」
信殿は目を瞑った
「もし、己は最善手を打ったと思っていても、それが正しいかわからぬ時は如何にする」
俺は考えた
思い出せる限り、しまったと思ったのは那津の元に行くべきか悩んでいるうちに、その都を鬼が襲ってしまい、鬼に変化する御当主を自ら手にかけねばならなかった事だ。しかし、那津は御当主はそれによって救われたと言い、結果的にあれよりも良い方法と言っても思いつきはしない
「果実が実るのを待ち、受け入れ、神に委ねる」
「左様か。それしかあるまい」
信殿は石をぱちんと置く。そうしながら、呟く
「されど、わは汝程までに潔くできるかの」
この立派な賢い人が何を言うのかと思う。
「もし麻呂に何かあったとしても、汝はここで果ててはいけぬ。必ず生き延びて汝の使命を遂げよ」
「何ぞ遭われたか、隠すら恐れ得ぬ御仁が」
「隠よりも、隠の心を持った人の方が恐ろし。周りの者に見えぬからな」
独り言の様に言う
「もしやと思うが、伴でもそこまでするかの。胸騒ぎがひどくて勘が働かぬ」
信殿は俺の目を見た。
「汝は此処よりいつでも逃げ延びられるよう準備しておけ。もし何ぞあったら、汝自身の命の為に人は斬れるか」
俺は言葉を失った
人は斬った事が無い。己の命を守る為に人を斬る、そんな事あろうか
「その様な目に遭うた事はない。威嚇すれば大概済む話だ。されど信殿の様子からすると、その様な事起こり得ると」
俺は言葉を切った。心の内の騒めきが沈むのを待った
「我が剣は神剣、我が意のままには動かぬ。命の内のことのみぞ起こる。我が命、剣に宿る意思に委ねる」
覚悟を持って言った。
「安心した。汝の手を汚させたくはない。汝が居るからこそ、何事もあらぬと思いたい」
碁盤の上に、重そうな小袋が置かれた。音からすると金が入っている。
「急な事でな、何も用意できぬ。せめてこれだけでも」
なかなか手に取らない俺の手を掴んで、無理矢理握らせた
「囲碁の勝負が中途では儂の気が済まぬ故、受け取れ」
その時だった
小間使いが走り込んで声も掛けず戸を開いた
「ご無礼ながら信殿!邸が兵に囲まれております!朝廷の兵です」
それが恐れていた事態だった
兵は取り囲んだだけで、まだ突入はして来ない。様子を伺っている様だ。
俺は客間に帰っていつ何があっても対処できる様に待機するよう言われた。
俺は着物を着替え、荷を纏めて背に括った
刀を己の前に立て、いつ何が起こっても対応できる様に構えていた
信殿の前ではあの様に言ったが、果たしてそうできるのか。俺の命の為ではなく、信殿の命が危険に晒されたら、俺は抜かずに居る事が出来るのだろうか。激情に駆られて、神の意思に反してその相手を斬らずにいられるのか。そうでなくても黙って信殿が害されるのを見ていたりなどできる訳が無い。今までに無い葛藤が俺の心を揺らした
目を閉じ、己の内の神に問う
愛を知るものは
その道の寿ぎを受す
我にして我
全にして全
その祝たる誉受け取れ
そうしてどれ程の時が過ぎたのだろうか
そのまま夜は白み、鳥が朝の光をさえずった
廊下を往き来する家の者の声から察するに、昨夜は突入されなかった。兵は引きあげたらしい。俺は安堵の溜息と共に畳に横になった。一睡もしなかった
あの神の言葉は今の状況に対しての答えなのか考え込んでしまったが、恐らく今何事も無くやり過ごした事が、まさにその通りだったといえよう。神に感謝するしかない
ただ、神の声を聞けると言う事はそれが出来ぬ者と心の在り様が違うのやも知れぬ。信殿が汝は特別だと言う事をわかった方が良いと言って笑ったのを思い出した
小間使いを呼び止め、信殿に会えるか尋ねる
しばらくして、小間使いは戻って来た
「信殿はお会いになりませぬ。逸彦殿がこの件に巻き込まれてはならぬので、なるべく早く弁当を持たせて出立させよと命じられました」
「わかり申した」
これはかの御仁の心遣いなのだ
小間使いは裏門から送り出す様に指示されたそうで、俺は弁当を受け取るとそのまま邸を後にした。