【流刑】探索
作中に歴史上の人物が登場しますが、この物語はフィクションです。
隠岐を出るまでの残りの日々を、篁はなるべくギョクと一緒に過ごそうと思った。
ギョクの何を教えても吸い込む素直な心と、率直な物言いは篁が都ではなかなか出会わなかったものだった。思えば、此処に流されて一年近く、わざくれて(やさぐれて)己の身嗜みすら放っておいていた。今では此処での充実した日々に、篁は感謝していたし、ギョクが時折見せる気高い人格に、尊敬も感じていた。
ギョクは自分が島について気に入っているところを篁に教えた
ギョクの先の読めない動きについて行くのは大変だったが、島の中のギョクの案内するところを見て回った。ギョクも篁の気持ちを知ってか知らずか、篁の歩みに合わせて時折振り返りながら、己の気に入っている場所を連れ回した。それは海岸に出来た窪みの静かな溜まりに海の生き物が沢山棲んでいたり、岩清水が湧き出て小さな川を作りやがて海に流れ込む様だったり、森の獣道を辿ると聴こえて来る鳥の声だったりした。
森を散策している最中だった
突然大きく森が揺れた
獣の逃げる声や草をかき分ける音がした。そしてその音は次第に近づいて来た。篁は狼か熊が近づいて来るのだと思った。
咄嗟に叫んだ
「ギョク、逃げろ」
しかし遅かった。目の前に草陰から這い出して来たのは鬼だった
篁はこんなに間近に鬼を見たのは初めてだった。けむくじゃらで、目は濁って焦点が合わず、牙の生えた口からは涎が流れていた。そして聞きし話の様に、頭には二本の角があった。鬼は篁とギョクに顔を向け、立ち上がった
咄嗟に腰を探ったが、今日はそんなつもりなかったので帯刀していなかった。ああ、もはやここで終わりか。篁は思った。しかし幼いギョクまでここで果てたら那由に申し訳ない。
「逃げろ」
もう一度言った。しかしギョクに逃げる気配はなかった。
後ろから篁を押し退けてギョクは走り出た。その手には木の棒が握られていた。
「しこ(鬼)め!己が相手だ」
ギョクはあたかも刀を握るかのように、木の棒を構え直した
篁は見た。ギョクの手で構えられている光輝く刀。それは確かに先程までただの木の棒だった筈だ。ギョクは篁が見た事も無い速さで鬼に切迫し、己の身体の倍もある巨体に斬りかかった。どうしても身長差で届かず、刃は鬼の腿を掠めた。だが鬼の動きを鈍くするには充分であり、同時に猛り狂わせるにも充分だった。鬼はその巨体で動き回るギョクに覆い被さろうとした。
ギョクは颯と身を引き間合いを取った。篁が教えた事が役に立ったようだ。ギョクは一番近くにあった木に駆け上がり、その木の上から鬼に向かって剣を振りかざし、飛び降りた
光輝く刀が鬼の胴体を斬ると、鬼はあっさり倒れた
「我が名は逸彦、ここに顕現し幾世に拝す」
白く光る剣は、ただの木切れに戻っていた
篁は命拾いした事以上に今見聞きした事に動揺していた
「逸彦?あの、しこ退治の逸彦か…作り話では無かったのか」
「篁、今の見てたか!俺凄いな!しこ退治したぞ」
篁は茫然と二の句を継げなかった
「あっ、隠だったな。俺、他の隠が居らぬか見てくる!篁先帰ってて」
「えっ、ああ…」
凝固した篁を残し、ギョクは風の如く走り去った
しばらくそこに突っ立っていたが、我に返ると恐ろしい鬼の死骸が側に倒れている。確かにこと切れているようだが、こんなものの側には一刻もいられない
篁は脱兎の様に走り出した
家に着くと、あまりの事に吃驚し過ぎと走り続けたせいで息を切らし、声も出なかった
那由は水を飲んで座って落ち着くように薦めた
鬼と出会ったことを那由に話した。那由はあまり驚いた様子も見せず、笑みを崩さず
「そうでしたか。小野殿が無事で何よりでした」
篁は混乱し過ぎて、複数の質問を同時に話そうとするので、自分の言っている事も意味不明であったが、那由は何を訊きたいのかを良く理解して答えた
「案じまするな、小野殿。あの子は小さいとは言え、しこ退治の命を持って生まれた逸彦。しこに負けることはありませぬ。我とて我が子の身を案じぬ訳ではございませぬが、今は何事もなしと神の声が聞こえます故、無事帰るでしょう」
篁は黙した
やはり神と話せるというのは本当だったのか
「那由殿は神とお話しされるとギョクが言っていたのは真実だったのか」
すると那由は思いにも寄らぬ事を言った
「小野殿も話されておられます」
「小野殿は何故に遣唐使を断ったのですか。そうさせたのは神の声です。何故ずぶ濡れの時、童の誘いに乗って此処へ来られたのですか。それは神の声に順ったからです」
篁はじっと目の前の女を見つめた
那由は続けた
「己の心に正直な者、心惹かれる事に素直な者には、神の声が聞こえる事があるのです。それはぬし殿の器に受け取る大きさがあるからです。器の大きい者は愛の使命をもつ者。それ故にぬし殿は都に帰らねばならぬのです」
篁は思った。己はこの為に此処へ来たのだと、強い確信が身を貫いた
寿命を知りたかった訳では無い。小さな己が沢山の因縁の中でたった一本の道筋を間違いようも無く歩んで来たのが見えた
篁は那由を見た。その瞳の奥にあるのは、全知の宙だ。それは広大過ぎる故、知るも烏滸がましいかも知れぬが、知らぬ事を知っている事には途轍もなく価値があった。この島に来た我が身の嘆きと苦労の全てが価値あるものに変わった瞬間だった
「しこが、隠が何故生まれたのか、那由殿はご存知なのか。ギョクが知りたがっていた」
「その因は光遮り心を翳らせ暗くする事にございます。それ以上はまだ語れぬ。ただ都にもそれを広げる因がございます。残念ながら」
那由は目を伏せた。篁はその因が己の周囲にある事を直観した。今迄の話から考えると仏教や、政事が関係ありそうだ
「詳しく述べなくても、小野殿が小野殿の道をゆけば、隠の抑制には繋がります。ぬし殿の内なる声に順えば、神は導きます」
「那由殿に聞かずともわかるのか」
那由は頷いた
「我らには我らの道があります。その道が此処にあるうちはこの島に居ります。ギョクはやがて成人の頃に、我が道を悟り、逸彦として此処を出て行きます」
何という定めの母子なのだろう。別れの哀しさをこの女は笑顔で話すのだ。逸彦の伝説の真相を謀らずとも知ってしまった。
「この事は誰にも漏らしますな。我らはそれまで悔い無く静かに暮らしたい故」
「無論、誰にも言いますまい」
篁は身を正し座り直した
「此処で教えて頂いた事、ギョクと那由殿に出会えた事、誠に感謝申し上げる」
「感謝は我にでは無く、己を導いた神とその声を聞けた己になさい」
篁は顔を上げた。その時、那由の背後に光輝くような荘厳な木が生えているのを見た。目を疑い、再度見ると、それは那由の頭に生えている角だった。鹿の角のようでいて、
さらに枝分かれの多い、歳経た雄鹿でも持ち得ない大きく立派な角だった
「那由殿・・・角見ゆるが幻か」
那由は笑った
「何を申されます、小野殿もお持ちではございませぬか」
那由は銅鏡を手に取ると篁に差し出した
それを覗き込むと確かに己にも鹿のような角が生えているのが見えた。那由のそれほどは枝分かれも少なく、明らかに小さくはあったが
「開眼されたのです。角はそれを見ゆる力在るものにしか見えませぬ。角を持つ者は霊力が高く、愛の使命を持ちます。己が道ゆかれよ。我らの道は未だ此処にあります。此処よりご活躍をお祈り申します」
那由は軽くお辞儀をした
篁も反射的にそれよりも深々お辞儀を返した
そしてそのまま家を出た。もう話すべき事は終わったのだというかのように、身体が自動で動いたのだ
ギョクが家に走りこんで来た頃にはもう篁は家路を辿っていた
「母様!凄いぞ俺、しこ退治したぞ、初めて本物のしこ見た!」
篁はその日を最後にもう那由とギョクの家に行く事は無かった
どうした事か、身体は家に行く方向に動こうとはしなかった。ギョクと改め別れをした方が良いのではと思う一方で、此処でのやるべき事の全てが終わったかのような清々しさを感じていた。篁は荷造りをした。その荷物の一つひとつに、何の執着も無い自分に驚いた。もう少し使えるかと思うものも、この地で捨てて行こうと判断できた
来た時に持ってきた長持ちの、半分程になってしまった。
出発の前夜、那由が訪ねて来た。
夜女が一人で出歩くなど危ないと思うが、神の声を聞ける那由だからと納得した。
「お渡ししたいものがございます」
那由は一包の小さな紙の包みを差し出した
「これは柿渋で作った丸薬です。飲むとしこに変ずるのを遅らせる効能がございます。ただ完全に変化を止められる訳ではございませぬ」
「有り難く受け取る」
これもまた、全てを知る神が遣わしたのだろう。その理由を聞くには及ばぬと思った
篁は己の剣と狩衣、指貫を手に取り、那由の前に置いた
荷を纏める時にどうしても長持ちに入れられなかった。那由の訪問に、そういう事かと思った。
「どうしても荷に入らなかった。刀はあまり得意では無い。己は都で新しいものを仕立てる故、ギョクが出て行く時にやってくれ。木の棒では流石に格好つくまい」
篁と那由は一緒に笑った
心に哀しさが残るが、目に滲むのは互いの門出の神祝ぎの喜びなのだと思った。
那由はそれらを丁寧に布に包み、抱えた
出て行こうと戸に手をかけた那由に、篁は声をかけた
「那由殿、我らはまた出会いまするか」
那由は意味深長な笑みを浮かべた
「ぬし殿がそのように望みますれば、恐らく」