【流刑】閻魔
作中に歴史上の人物が登場しますが、この物語はフィクションです。
篁は毎日、那由とギョクの家に通った。この地に流されて暇あろうと思って木簡を沢山持ってきたが、失意であまり手がつかなかった。しかし、今はそれを使って多くの唄を作っている。ギョクに教えているからと言うのもあるが、作った歌を那由に聞かせて話をするからだ。時に昼餉まで話が掛かる事もあり、三人で食べるのも楽しみだった。那由の話は何時もぐうの音も出ない程完璧だが、聞き慣れると己はそう言う事をやっていたのだと気づける様になった。その時は意地で譲れんと思っても那由に完膚無きまで叩き潰され、渋々認めると、何故かその後もう同じ事を思い煩う事がない。振り返れば結構どうでもいい事に拘っていたと思うのだった。
それに何時も那由の素性やギョクの才について尋ねたいと思っているのに、何故か訊くに至らなかった。常に何か忙しく思うべき事があり、己の心は毎日を味わうのに意欲に満ちた。そして何時も眠る時になって、また忘れた、明日こそはと思うのだった
那由は時折ギョクを篁に託したまま家を出る事もあった。薬草を調合する術を持っているらしく、山で採った薬草や外つ国の商人から仕入れた薬草を持って、誰ぞの家へと呼ばれ、代わりに魚や果実や米を持って帰る。那由の作るものは貴族の食事に慣れた篁にも、材料は質素ながら美味であり、また思いにも寄らぬ組み合わせの食材もあり、食べられるとは知らなかった山菜もあった
ある日、篁は仏教の話をした
「ギョク、弘法大師を知っているか」
「知らん。篁の知り合いか」
「別の名を空海という。唐に留学した僧だ。父と共に良く話した。既に入定したが」
「ふうん。そいつは何故唐に行ったんだ」
「空海は唐の仏教を学んで帰国したのだ、どうすれば人を救えるのかと」
「人を救うなど出来る訳がない」
突然ギョクの声の調子が変わった。
篁は驚いて顔を見たが、童のそれに見えなかった。目が空を見て、何か強い力が備わった者の顔に見えた
「自らを救わない者が他者を救うなど出来る筈がない。修行が役に立つなど戯言。己の道を知れば全てを知り得よう。何故遠くの他者から学ぼうなどと思うのだ。今足つけている地こそが己の道。神は全てを手に届くところに置いている」
篁は驚き過ぎて口を開いたまま、言葉を失った
言葉が終わると元のギョクに戻って言った
「そんな遠く行ってまで知りたい事があったんだな」
先程の厳格な顔つきはどこにも無かった。己の言った事を覚えていないのか。篁は慌てて言葉を繋いだ
「あ、ああ、そうだ、空海は仏と経典を知りたかったんだ」
「そうかあ、俺も知りたい事がある」
「何だ」
「我を我たらしめる、その誉れって何だ」
「は?」
「あと、しこ(鬼)、ああ、隠か。隠は何故生まれたんだ。どうして人は隠に関わると巻き込まれて隠になるんだ。篁は母様に己を教える様頼まれるくらいだから賢いんだろう。知ってたら教えてくれよ」
篁はそんな事を考えた事もなかった。そうなるから、ただそうであるとしか鬼について考えた事はなかった。そもそも滅多に会う訳も無し、(会ったら終わりだし)、忌むべきものの為に考えを巡らせる暇は無かった
「己はわからぬ。考えた事もなかった。神と話せる母様は教えてくれないのか」
「自分で答えを見つけろと言うのだ。なあ、都にはぬしの様な賢い者が沢山居るんだろ。都行ったら、わかるかなあ」
那由が教えぬと言うのなら、それは那由以外誰も知らないのではないかと篁は思った。
次の日、那由の家に行くとギョクはいなかった。那由が使いに出したので、昼まで戻らないとの事だった。丁度良い機会なので、ギョクについて聞いてみる事にした
昨日、空海の話をしたらギョクが変わった様に話した事を聞いてみる
「まるで別の人、いや威厳ある何かが話した様に思ったのだ。那由殿は何か心当たりはないか」
「小野殿は誰が話されたとお思いですか」
那由の問いにしばらく考えたが、わからなかった
「分からん」
「ギョクです。あの子には人格がいくつかあります。その内の一人が答えたのでしょう」
篁は驚く。この二人には驚かない事がない。あの人格がギョクであるなら神の様な威厳ある人格がいる。ギョクが独り言で会話をしているのを度々見たが、それは人格同士が話していたと納得した
「先程、空海の話をされたとお話しされていましたが、その方は存在するのですか」
「無論だ。都で父と共に良く話した」
「では隠は」
「我は見た事がないが、見たと言う人はたくさんいる。那由殿は信じておらんのか」
篁はこの問いの意味を考える。これまでもそうだが、那由は意味もなく問うたりしない。何か目的があるはず。空海と隠は存在しないと言いたいのだろうか
「人の命は限りありますが、隠に寿命の尽きる時はありません。それは隠は命の時の外にいるからです。空海は即身成仏になり永遠に生きようとした。これも時の外に出ようとする事です。存在とは命を生きる様であり幸です。それを捨てるは存在するを捨てると同じです」
那由は篁の目を見つめた。吸い込まれるように、篁は目を反らせなかった。
「小野殿、お忘れなきよう。命に限りあるのは、命の目的が全うされ満たされる故です。それを見ようとせず、その場に留まり続ける事は命の尊厳を穢すものだと。己己に与えられた命はそのものの為にあるもの。全て目的が違いますし、唯一無二です」
つまり己の命は己だけのものであり、その目的を知ることが生きる意味だ、という事か。ギョクの人格は、自分の生きる目的も分からないのに、他の者などわかるはずもない、他者を救うなどできないと言った。
「寿命。那由殿は我が寿命をわかるのか。わかるのなら教えて欲しい」
篁は尋ねた。これもずっと訊いてみたかった事の一つだ
「寿命を聞いてどうされるのです」
口元の笑みと違って、那由の目は真剣だった。
「いつ死ぬのかを知って、目の前の事を己を尽くして生きられますか。死ぬる時が先ならば、今を漫然と過ごしても構わぬと思われますか。明日死ぬと言われたら、今日の楽しみを楽しめまするか。長く生きさえすれば、良い人生なのですか」
篁は唖然とした。寿命を知ったところで、出来事の捉え方や生きる姿勢の方が重要だと那由は言っているのである。己の浅はかな興味の断片など、人生そのものの重さには敵わないのだ。
篁は己の知りたい事は寿命などではなかったのだと、うっすら気づいた。
「安心されよ、小野殿。ぬし殿はまだまだご活躍されます。こんなにも聡明なお方故。都でも政事でも必要とされますでしょう」
那由は笑った。
その笑顔を菩薩の様だと篁は思った。神や愛に菩薩と言うのは、果たして褒め言葉なのか貶し言葉なのかわからないが。
まるで那由の言った事が暗示であったかのように、都からの恩赦の文が届いたのはその三日後だった。船は隠岐に七日間停泊し、その帰京に篁も同乗して良いとあった。
篁は大いに喜んだ。念願叶って京に帰る事が出来る。その一方で、那由とギョク母子と別れるのはひどく寂しく辛いと感じた。当初に思っていた腹の中の計画は全く成就していなかった。那由に懸想してもそれは知的な問答と己の恥を乗り越える機会に変わってしまう。これを最後と思い、思い切って気持ちを伝えるべきだと思った。
篁は朝早めに那由の家に行った。那由は一人で囲炉裏の側に座り、薬草を取り分けていた。
「如何されました、小野殿。今朝はより一層早うございます」
「那由殿、お話したき事がございます」
床に上がり座り、背筋を改め那由に身を向けた。
「那由殿、刑の恩赦が出て、京に帰ることになり申した。
ギョクも京に行きたがっていた。己が向こうで援助をするから、那由殿とギョクも、一緒に京に参っては如何だろうか。此処で母子のみで生活するのも大変であろう」
那由は篁が去ると聞いても、少しも驚いた様子はみえなかった。そして、篁の裏の意図も見事に汲んだ
「小野殿。誠に有り難い申し出ですが、我らが京に行ってどうするのです。小野殿にはあちらに既に妻子ございましょう。我にその内の一人になれと。この田舎の母子の相手など、勿体のうございます」
やんわりとその気は微塵も無いと断られている。己の下心などとうに見透かされているのだ。これは完全に振られているのだと認めざるを得無い
篁は言った
「閻魔は人の寿命を決め、地獄で生前の業を鏡に写して裁くと言う。閻魔の御前では嘘もつけぬそうだ。那由殿の清さの前においては、我が心の謀は照らされて、言葉にできるのは真実のみである。共に行けたらばと思った事に偽りはあらぬ」
これは篁なりに捻った褒め言葉のつもりである。実際、今までずっと、那由には己の至らなさを鍛え上げられる様であったし、那由に気があるのを省いたとしても、二人と離れがたく思っているのも本当である
「我が閻魔の様であると。小野殿は立派な方故、裁かれる様な後ろ暗い事ある筈もございませぬ」
那由は口元に袖をあて品良く笑って応じ、篁の恋心を封じてしまった
滑らかに全てを畳み込まれてしまい、もう篁は返す言葉もないのであった。
篁の気持ちを見抜いてか、那由は続ける。
「お気持ち有難いと思うのは誠です。ただ、今はまだギョクはここで伸びやかに育った方が良いのです。それがあの子の為なのです」
その時、入り口の戸板を開ける音がした。厠に行っていたギョクが戻ったのだ
「篁、母様を口説くとは何事ぞ、ギョクが成敗致す!」
そう言うと篁に向かって木の棒を振りかざした
「いや違う、違わないか?いや、そうではない、話聞け」
「ギョク、お止めなさい。小野殿は都に帰る事をお伝えに来たのです」
ギョクはぴたりと動きを止めた
「篁、都に帰るのか」
「そうだ、七日後に船に乗る」
ギョクの顔はいつになく残念そうだ
「俺、篁ずっと居るのかと思ってた」
篁は己の心が締め付けられるのを感じた。小憎らしい童だと思っていたが、自分が思っていた以上に彼を好いて愛着を感じていたとわかった
「篁は此処より都が良いのか」
「そうだな、向こうには唄を交わす相手も居るし、我が母も居る。また朝廷に仕えると思う」
「そうか、篁も母様は大事だな。でも此処も良いとこだ。此処の良いところ知ったら気が変わるか」
「言われて見れば、己はこの島の事を全部見回った事は無いな」
「なら俺が島の良いところ教えてやる。なあ、良いだろ」
「母様、文字の読み書きはこれからも自ら致します」
篁は那由の顔を見た。許可を得る為だ
「小野殿が宜しければ、そうしてくださいませ」