【流刑】浜辺
作中に歴史上の人物が登場しますが、この物語はフィクションです。
一人の童が森の中を走っていた。右手に棒を持ち振り回しながら。その速さはとても六歳とは思えない程だ。道とも呼べない様な荒れた道を、根の瘤や角角しい岩すらものともせず駆け抜ける。やがて一本の大きな木の下に着くと、そのまま木を垂直に駆け上がった。身体が傾くと器用に枝に捕まり、そのまま身を翻して枝に跨った。しなる枝は大きく葉を揺らすが、すぐに元に戻る。彼は持っていた一本の枝を腰帯に差した
「今日は凪だな」
彼は海を見ていた。直ぐ近くに大きな島が見える。空には雲一つなく太陽の光が降り注ぎ、白白と海を照らしていた。白波は見えなかった
「海を渡る修練をしよう」
「どうやって」
「左足が沈む前に右足を出せれば歩ける」
「無理じゃないか」
「そんなことはない。速く走れば出来る」
「ならやってみろ。ずぶ濡れになって母様に怒られるのはぬしだ」
彼は暫く黙していたが、枝から飛び降りる。そのまま急な崖を一直線に走りながら砂浜へと向かった
砂浜に着いた時、波際に一人の大男がいた。髪は散ばらで髭が顎一杯にあり、背が高い。着ている衣服はぼろぼろだ。その男は身動ぎもせず海を見ていた
「しこ(鬼)だ、しこがいる!」
彼は腰に差した枝を抜くと、その男に向かって駆け出す
「我はギョク、しこを成敗いたす、いざいざー」
その声に海を見ていた男は振り返る。何が起きているのかわからないが、男子が木の枝を振り上げ、凄い速さで向かってくるのが見えた
「待て待て!」
その言葉を発した時にはもう彼は男の目前に来ており、砂を蹴って飛び上がると男の頭に枝を振り下ろす。だがこの男、背は高いし武術も出来る。直ぐに一歩後退し、それをかわす。彼の枝は空振りし身体ごと砂地に落ちると、また直ぐに砂を蹴って男の胸元へ身体ごと体当たりした。流石の男もかわし切れず、二人は海の中に落ちた
「己は隠(:鬼の意味)ではないぞ」
彼はずぶ濡れになっても尚、男に一太刀あびせようとしていたが、動きが止まる
「隠ってなんだ」
男は起き上がり、ずぶ濡れになった我が身を見てため息をついた
「童、ぬしのせいでずぶ濡れだぞ」
「隠ってなんだ」
「しこのことだ」
男はそう答えると、砂浜に向かって歩き出す
「童、この寒風の中濡れたままでは身体に障る。火を焚くぞ」
「寒いのか。なら家に来い。母様は火を焚くが得意だ。で、何でしこって言わないんだ」
男は周りを見回し、火を焚く材料が近くになさそうだと分かると
「わかった。童の家に案内してくれ」
「承知した。なあ、何でしこって言わないんだ」
二人は歩き出す
「くどいな。しこと言うと口が穢れるから、忌み言で隠という。しこは忌むべきものだからな」
「ふーん」
彼は何かを考える様に黙していた。男は聞いた
「童、何者だ」
「俺はギョク。母様の子だ」
男の子は胸を張り自慢気に言った
篁は笑った
「確かにそうだな、ギョク」
「篁、母様のこと知らないのか。母様はぬしのこと知ってたぞ」
「知っていたのか?己の名は小野篁だ」
「ああ、朝、母様から野田の浦に男がいると言っていた。まさかしこだとは思わなかった」
「己は隠ではないと言っただろ」
「そうだったな」
篁はギョクの話は自分ではなく別の誰かのことだろうと思った
「なあ篁、しこは忌むべきものだと言ったが元は人だろ。人は忌むべきものなのか」
「そうではない。隠になればもう人ではない。それを口にすることが穢れになる」
「それはおかしいぞ。しこを斬れば人に戻るだろう」
「戻らん」
「いや戻る。愛から使命を与えられた者はしこになっても人に戻ると神は言っていた」
篁は驚く
「神と話をするのか」
「母様だ。母様は愛だ。神と話を出来る。俺も神の言っていることはなんとなくわかる。皇は国を治める賢い人だから神と話が出来るだろ。そんなに驚くことか」
「いや、帝はできない」
砂浜から少し上がった小高い丘に数件の家がある。そのうちの一軒の前で止まる。竪穴式のどこにでもある、二床のありふれた家だ。篁にとっては縁がない建物だが
「ここだ。母様戻りました」
戸板を開けると土間があり、すぐに奥の床座がある。囲炉裏は火がついており、ギョクの母様が座っていた
「お待ち申しておりました小野殿。濡れたものを乾かします故、その板の裏に用意した衣にお召し替えくだされ。ぬしもですよギョク。朝、我が話した事を聞いていなかったようですね」
ギョクは一瞬身体を硬直させると、直ぐに着物を脱いだ。篁はギョクが言っていた事に間違いはないが、何故名告る前から己の名を知っているのか思案しながら土間に屏風のように立てられた木板の裏で着物に着替える
「お上がりくだされ。暖まる薬湯を入れます故」
篁は床座に上がり囲炉裏の側に座る。母様は椀に良い香りがする薬湯を入れ渡す。軽い刺激で体温が上がる。見れば、上には草の枝や葉が干してあり、奥の棚に籠やら箱やらが所狭しと並んでいた
「うちがそんなに珍しいか篁」
「ギョク、今朝我が何と申したか言ってご覧なさい」
母様は被せるように話す
「野田の浦に小野篁という男がおるから家に連れて来るよに言われました」
「そうですね。しこと言って戦いを挑み、ずぶ濡れにしてお連れしなさいとは申していませんね」
ギョクは下を向き母様と目を合わせない
「大男で強い人だと申されていたから、少し手合わせを」
「お連れする客人に戦いを挑むとは。お人をしこと呼ぶ事は良き事ですか。ずぶ濡れにした事は。侘び申したか」
ギョクは少し黙っていたが、篁の方を向くと
「篁、お詫びする」
「小野殿ですよ」
「お詫びする、小野」
ギョクは顔を背け小さい声で
「殿」
と言った。母様は溜息をついたが、これ以上は無理だと思ったのか篁の方を向く
「小野殿、我は那由と申します。此度はギョクの失礼な物言いの上に戦いを挑み、お詫び申し上げます。寒中の中、衣を濡れさせたもうこと、卒爾致しました」
篁はこの母と子のやり取りに愕然とした。名を知っていただけでない。篁は今朝この浦に来るつもりはなかった。しかも己の体格まで話している。それだけではない。ギョクが己に戦いを挑みずぶ濡れになる事が分かっていて、着替えまで用意されていた。ギョクの言う愛というのは分からないが、那由殿が神と話が出来ると言うのもあるやも知れん、と思った。
「那由殿、お気に召されるな。お聞きしたきこと沢山あり、何処からお聞きして良いのやら迷う程。那由殿は己が浦にいる事を何処でお聞き申したか」
那由はギョクに薬湯の入った椀を渡すと篁に向き直る
「この地に小野殿がおられる事は存じておりました。釣り人に託されたお歌は自然と耳に入りとうございます。ここから都は見えませぬが、浦で都をお思いになるのは道理というもの」
「ギョクはご存知の通り同じ齢の子らとは合わない故、一人遊びする童。我は夫に先立たれ女独り身ゆえに、この子の活発さに手を焼いております。もし小野殿がよろしければ、ギョクに剣術を教えて頂ければ幸いに存じます。何分この様では十分なお礼など出来ませぬが、お戯れにお付き合い頂ければと存じます」
那由は頭を下げる。篁は思った、これは好機、いやいや人助けになると思った。ギョクの動きは武術の動きを理解している。まだ身体が小さい為に力押しでは負けるが、大きくなれば己では敵わないと思った。篁は弓が得意だが剣術の基本位は出来る。基本を教えれば更に腕が上がるのは間違いない。それに那由と会う口実が出来る。この女は何者なのか。己の問いを上手くかわして、浦にいる事を知っていた理由を言わない。もし神と話しが出来るなら己の今後も聞いてみたい。
「篁、いや小野殿は我に剣術を教えて下さるのですか、御礼申し上げる」
ギョクは篁に向いて正座し、手をついて頭を下げる。小賢しいやつだと思いつつも、利害が一致しているので篁は承諾することにした
「承知した。ギョクに剣術の基本を教えよう」
「ありがたきこと。御礼申し上げます」
それから着物が乾くまで篁は那由に色々訊いた。だが肝心の神と話しが出来るのかは結局訊き出せなかった。篁は自身が話術に長けていると思っていたが、那由はそれ以上だった事に驚く。これは退屈しない、そう思った。決して美人で未亡人だから、という訳ではない事を本人は言い訳として何度も心に思った事は秘密である
着物が乾くと篁は家を辞した。歩きながらギョクにどうやって剣術を教えようかと考えている己に驚く。この地に来てから何もする気が起きず、漫然とただ都に想いを馳せているだけだった。だが何か面白いことになりそうだと思うと、意欲が出てくる
その晩、篁は寝ながら重要な事に気づいた。那由の話し方は庶民の話し方ではない事に。あまりに普通だったので、全く思い当たらなかった。このような田舎に気品ある振る舞いと趣きの者が居るとは。ここに来てからというものの、方言が分かりづらくて会話の妙を愉しむ事は論外と諦めていたのである。那由の言葉遣いは宮中でも通用するし、相当な教養を身につけていると思われる。都落ちした者か、いやあの教養なら宮中のそれなりの官位がある者の娘か、それならどこかで耳にしているはず。そんな噂は宮中で聞いた事がない。大体誰にも知られずに島流しになるなど出来るはずがない、と篁は思う。本当に一体何者なのだ、と謎が深まるばかり。夜の帳は真実を隠し、篁の知的好奇心を刺激する。隠れている事を知るとそれを見てみたいと思う人の心理。それは神の戦術やもしれない。